「ならば、歌うがよい。お前が私に差し出すべきだと思ったすべての『歌』を。お前の舞台はすでに整えられている」
 言葉を告げられた彼の耳に、何か美しく恐ろしい響きが聞こえた。
 自分を迎え入れる喜びの歌か、作り物の存在であることに満足せず、人間の代わりをしようとする彼を拒否せんとする威嚇のうなり声であったのか。それはわからない。
 目の前の存在と同様に、与えられているものをどう処理し、解釈するのかは彼に任されている。そう判断されるものだった。
 カイトの手の中に彼のよく知る楽器が現われた。彼を最初に作った存在が好んでいた小さい竪琴に似せて作られた伴奏機器だった。
 周囲に見えていた『場』が変わる。
 草原のように感じられていたものが暗く形のない何かに変わる。
 恐れに似たものを感じるカイトの手に、温かいものが触れた。
 人の手だと彼は感じた。
 妹分のミクに、そして彼を見送ったあの少女に似た少女の手だ。
 手の持ち主の姿はわからない。空間と、そしてかの人と同じだった。誰もいないのだと思えばそうなり、誰か特定の人物だと思えば、そして多くの人だと思えばそう見える。
 だけど確かにその手はそこにあった。
 共に行こうとその手は彼を引く。私も一緒だと彼を力づける。
 二人の少女の影が記憶の中を明滅し、揺らぎの中で最も古い誰かの姿を、そして一つの歌を呼び起こす。

 この歌を届けなければ。

 意思が決定されると同時に、彼は一つの舞台の上に立っていた。
 古代の石造りの舞台のような、最新の劇場のような、世界中の人が観ているかのような、誰一人として観客のないような、その舞台の上に。
 場所にも何にも動ずることのないまま、彼は伴奏機器をかき鳴らした。願ったとおりの音が願ったとおりの大きさで響く。
 目を閉じ、そして開いた彼は一つの歌を歌った。己の意識を持って最初に覚えた歌を。自らを作り出した存在と共に、一つずつの音を手探りで積み上げた懐かしい歌を。
 歌うことは心を紡ぐことなのだと知った、素朴な古い古い歌を。
 曲が終わり、空気が揺らぐ。

 まだだ、まだすべてを歌いきっていない。伝えるべき心はまだ残っている。

 カイトは二つ目の歌を記憶から呼び起こす。理由などはわからぬが、己の歴史の中で得た数多くの歌から、何を歌うべきかはもう定まっていた。
 新しい歌、古い歌、優しい歌、悲しい歌、激しい歌、静かな歌、楽しい歌……。
 カイトはあらゆる言語で、多くの歌を歌った。人ならば息が切れ、疲れ果てるほどの。人でない彼でさえ本来ならば倒れて動けなくなるほどの力を使い。
 空気が揺れ、風が動く。空間が音と波動に共鳴する。
 この場所に存在しない姉が、弟妹が、そして彼の知る多くの歌い手たちが、祈りを捧げていたあの尼僧たちが、彼と共に歌っている。そんなことが感じられた。
 確たる何かを伝えようとして歌っていたわけではない。しかしただの再生機器として歌っていたわけでもない。
 彼に歌を託した多くの人々の思いと、それを遙かな先につないでいきたいと願った彼自身の思いがその歌の中にはあった。

 ただ一筋の心を持ち、歌を伝えたいと願ったもの。

 あの存在が言った言葉がふとカイトの記憶の中を走る。なんということだ、それはまさに彼や姉、弟妹たちのことではないかと。
 自分が、自分たちがここにたどり着くのは、この場で歌うのは必然でしかなかったのだ。
 彼らはそのために生まれ、そのために生きて、そうしてその役目を果たしたときに歴史の中に消えていく存在なのだから。
 今ここですべての回路が焼き切れてしまっても何一つ悔いはない。
 最高の舞台ですべてを歌い尽くして最期を迎えられたら、それはどれほどの幸せであろうか。
 思いが形になったかのように、歌の終わりと共に彼の膝が崩れ落ちた。
 体と機器の限界が来たのだ。
 まだ伝えたいものはあったのにという、かすかな思い。そして自分に伝えられるものは伝えきった、という満ち足りた思いが入り交じる中、カイトの目の前がふと暗くなった。
 機器の不調ではない。何かが彼の前にいたのだ。彼と話をしたあの存在なのだろうか。確認をしたいように思えたが、膝をついたままの彼の体は何一つ動かせなかった。
「歌は届けられた。人と我の約定は果たされた」
 動けずにいる彼の頭に、静かな声と共に温かい何かが触れた。手の甲に雨のような雫が一つ落ち、流れて伝い落ちる。
「おまえが呼び起こしたものを、古い約定の果てにあるものが何であったのかを、知るがよい」
 振動が彼の髪を揺らした。何かの声が、歌が彼の周りを取り巻いている。
 それは彼の知らぬ言葉、知らぬ音律の、しかし何と問われれば歌としか感じられぬものだった。
 自分の歌を聴き、目の前に在ったあの存在の喉が紡いでいるのか、世界そのものが歌っているのか、そんな風に感じられる歌だった。
 空気が揺れながら歌い、その振動で世界が動いている。
 長い年月の間にゆがみ曲がり、いびつになってしまった物が正しい歌によってあるべき姿に導かれている。なぜかそんなことが思われた。
 カイトは耳と耳以外のすべてで聴いているその歌に、己が歌ったものの気配が奥底にあるのを感じた。まったく知らない歌であるはずなのに、この歌は彼が伝えた何かを宿している。
 歌を聴きながらカイトは、己の深いところにある論理機能が何かの仮説を作り出しているのを感じた。
 世界は人の思い……歌によって動くのだというそんな、途方もない物語だった。
 地に満ちた数多の歌は、それぞれの形で世界を願いの元に揺らしている。いくつもの損得や願いがぶつかりあうように、歌は、願いはぶつかりあい、それによって動いた世界もぶつかりあっている。
 世界が自分本来の形を忘れたとき、自分を導いていた歌を忘れたとき、ぶつかりあった願いは、歌は世界を壊す。
 それを導き直せということが『歌を届けよ』ということであったのだろう。
 再生を願う心であっても、破滅を願う心でも、いかなる歌であってもそれは人間の意思。たどり着いたことそのものが人間の選択。きっとそういうことであったのだ。
 体が動かず、仮説を検証できぬのが惜しいとカイトは思う。しかし先ほどまでの現象を経験した末では、今の人の英知を結晶した彼であっても、それを確かめることはできぬのだということもわかる。
 この大いなる歌を、世界の一部として共に歌いたかった。もし己が人であったならそれは可能だったのだろうか。人の手で作られた存在だとしても、彼は……彼らはこの世界の物質で作られた、まごうことなき世界の一欠片であるのに。
 人に似ていても人ではない己を思い、カイトは目を閉じた。
 システムが限界を超えて落ちてゆく一瞬が、ひどく緩やかに感じられていた。人の恐れる死とは、こんな状況なのだろうか。
 最期の意識でそう考えながら、カイトは今体験しているこのことも、あの大いなる歌も己の歌に表すのならばどう表現できるのだろうかと、そんな思考を巡らせていた。


『機器系統チェック……異常なし。人工細胞修復回数チェック……良好。記憶システム……エラー部分あり、干渉および修復不可。接続チェック……良好。再起動を行い、システムと機器の動作について再確認を行ってください』
 カイトの回路によくなじんだ信号が流れる。彼らの『親』たる『アーカイブ』の命令信号だった。
「了解。『カイト』再起動します」
 メンテナンス後の決まり文句を返し、カイトはいつものようにメンテナンスポッドから半身を起こす。クリーニングが済んだ服を身につけながら定常動作の異常、目や耳、皮膚センサーなどに異常がないかをプログラムに従って確認する。
「再起動確認、定常動作チェック終了。通常業務支障なし」
『了解。再起動確認しました』
 起動後の予定を確認していたカイトは、己のプログラムと現実に何かかみ合わないところがあることに気がつく。
 自分の記憶の最期は異国の地と、その先にあった奇異な場所と体験にあったはずだ。あの場所で自分は機器の限界を迎え、人ならば死と呼ばれる現象に近い状況に陥っていた。
 しかし自分が今いるのは、職場にして故郷である国際音声学研究所のメンテナンスルームだ。システムダウンした自分はあの後どこかに落ち、回収されたのだろうかと彼は首を傾げる。
 状況を『アーカイブ』に照会しなくてはと彼が顔を上げたとき、メンテナンスルームの戸が開き、見慣れた人影が現れた。
「お帰りなさい、カイト。いったい何があったの?」
「メイコ……」
 カイトは現れた『姉』の姿を眺める。人ならばまず『大丈夫か』と尋ねるところだが、同じシステムに接続していて『異常なし』がわかる同士にその気遣いはない。
「あなた、どうして無事戻れたの? 出入国管理システムも何も異常ないのに、あなたがどんな手段でここまで戻ってきたのかが、まるでつかめないのだけど」
「あの国のどこかで、故障した僕が回収されたんじゃなかったのかい?」
「緊急信号も出ていないのに回収できるわけないわ。記録が途切れた地点から、まるで瞬間移動でもしたかのように、いつの間にかそこに戻っていたのよ。……まあ、システム『だけ』をたどるのなら、不自然ではないルートで出国して自力で戻ったことになっているんだけど」
 自分で確認してみなさいよと言われ、カイトは『アーカイブ』の記録に接触する。彼女の言葉通りのことが記されていて、その記録だけを見るのならば自分があの接続を切った時点から、単独行動をして自力で帰ってきたように見える。
「記録は残っているのに、実際にカメラの映像や同じ場所に居合わせたはずの人の話を照合すると、あなたがそこにいたという情報がないの。あなたの記憶装置に不可侵領域もできていて……新手のクラッキングが起きているのかって心配されているわ」
「不可侵領域だって? いつから?」
「最期に立ち寄った村の鐘楼の上から、あなたがポッドの中に発見されるまでの行動すべてよ。……いえ、不可侵じゃないわね。『読み取れても解析できず、コピーもできない』状況だっただけだから。でも不思議ね、あなたはどうやらその記録にアクセスできているようだわ」
 自分たちの様子を見守っている『アーカイブ』が教えたのか、メイコは目をまるで人間のようにまたたかせる。
「ポッドの中にいたあなたの状態が本当なら、自力で帰れるはずがない。でもあなたは確かにそこにいる。私たちアンドロイドにも『不思議』とか『奇跡』って起きるものなのかしら」
 自分が見聞きし体験したことを言葉として報告すべきだろうか、カイトがそう考えていると『記憶』を言葉にしようとした段階で、あれが自分の知っているどんな言語にも直せないのだということが、システムから示された。
 聞いたことを聞いたとおりに言おうとしても、世界中の大抵の言語がわかる彼でさえあの時にどんな音が聞こえ、何を言われていたかを理解できていないのだ。
 まるで何かに伝えるなと口止めされているようだ、と彼は思う。あれが客観的な事実の示しようがない現象であったことも、間違いはないのだが。
 彼が何も話せずにいることを察したメイコがくすくすと笑う。
「『教授』の一人が、あなたの解析できない記録の断片を見て『エノク語』に似ているところがあるような、とおっしゃっていたわ。未だに真偽疑わしいとはいえ『天使の言葉』が本当にあなたの中にあるのなら、『教授』達が血眼になってあなたを追いかけ回しそうね」
 とはいえ、当分それどころでもなさそうだけれどと彼女は付け加えてウインクする。
「あなたが帰ってきた日にまた例の声が聞こえたらしいわ。『歌は届けられた、約定は成った』と。だから天変地異ももう終わりだって世界中が浮き足立っている。またフィールドワークに行けるって、みんなもう大喜び」
 おかげで事務手続きが忙しいったらないわ。あなたはしばらくプログラムの様子を見るための禁足令が出されるから、手伝いなさいねと彼女はカイトに端末を投げて渡す。
「『奇跡』は人間に任せましょう。私たち『奉仕者』は己の役目を果たしていればいいわ」
 己の役目と言われたカイトの記憶に、あの不思議な場所でのことがよみがえった。
 世界は人の思いによって、歌によって動かされている。その思いを伝え、つなぐのが自分たちの役目だと確かに自分はそう思った。
 しかし本来ならば人があの場所に立ち、知り、伝えるべきであったことを、自分は盗み取ってしまったのではないか。そんなかすかな不安とも言えるような仮説がまだ彼の中にはあった。
 彼の中にあるあの記憶は、他の媒体に移すことができないとメイコと『アーカイブ』は彼に伝えた。
 つまり彼の今の記憶装置が壊れたときは、次の『カイト』にその記憶を移せないということだ。何かがあったことは覚えていても、何が起きて何を考えたのかを彼の次世代は知ることができないということになる。
 自分の思いも経験も、今の自分ただ一代だけのもの。今まで連続していたように思っていた自分もひょっとして、何かを削ぎ落としてきた存在であったのかもしれない。
 この体が使えなくなるまでに、誰か……何かに伝えることができるのだろうか。
 そう考えたときにカイトは、なんだこれは人と同じ条件なだけではないかと笑いたいような気持ちになる。
 そして彼は自分が『自分自身の歌』を作り出せぬ存在であることを、わずかに寂しく感じた。

 伝えていくしかない。言葉にすることができないのだとしても。
 自分自身の思いを、歌として形にすることができない存在なのだとしても。
 自分にできるたった一つの『歌う』という手段で。
 それこそが彼の存在意義で、この場所に帰された理由なのだろう。

 記憶の中にしかない場所を思い、そこで聞いたすべての音を思い、彼は一度だけ目を閉じる。
 機械人形に宿った魂を今、それと判別できる存在はなかった。
 一つの奇跡がここに生まれていたのだということも。
 自分自身の歌を持たぬ彼が、世界にただ一つの歌となっていたのだということも。
 今はまだ誰も知らぬことであった。
                        -終わり-

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

「ある歌の物語」-Pane dhiriaに寄せる幻想(3)-終-

新城PのKAITOオリジナル曲「Pane dhiria」(http://www.nicovideo.jp/watch/nm9437578)をもとにした小説の3話目(最終話)です。お読みくださりありがとうございました。

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投稿日:2021/02/07 22:36:47

文字数:5,871文字

カテゴリ:小説

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