「それで、課題は進んでるんですか?」
その声は、私一人に向けられた先生としての言葉。
心の内では何を思っているのか。彼がそれを口に出すことはない。
「手厳しい誰かさんがしっかり勉強教えてくれたおかげで、大体は終わってまーす」
「それは良かった。去年聞いた話では、最後の週にまとめて終わらせたということだったので、ちょっと心配だったんですよ」
「ふふん。やる気があればこんなものよ」
「やる気がなかったら悲惨ということですか?」
「う、うん、そういうこと……」
少し年上の幼なじみの彼が、家庭教師として私の家に通い出してもう何ヶ月目になるだろうか。
最初は春休みの間だけだった彼の個人授業も、彼の教え方が上手く彼自身が両親に気に入られていることもあり、彼は未だに私の家庭教師を続けているのだ。
「いい方向に進んでいるなら何よりです。君の勉強の助けになっているなら、この数ヶ月の努力も報われます」
「でもなんだか申し訳ないよ。キヨテルは教職目指してるんでしょ?私につきっきりじゃあ、自分の勉強する時間ないんじゃないの?」
「ああ、それならご心配なく。実際に誰かに教えることで僕も勉強になりますし、バイト代もいただいていますから」
「……そうだったね。義理堅いキヨテルだもの、それだったら躍起になって勉強するよね」
勉強(特に苦手科目のテストが全滅だった)の苦手な私を見かねた両親が、彼に勉強を見るように依頼したのがそもそもの始まりだった。
程のいいバイトだと思ってくれればいいから、とお代を半ば押し付ける形で彼を幼なじみから家庭教師へ変えた両親。
彼もお金が絡んだことで最初は遠慮していたものの、バイトを探していたらしく結局は私の指導を引き受けることで落ち着いた。
彼は面倒だと思っているだろうか。
お代が出るから、その責任感だけで私に勉強を教えているのだろうか。
真面目な彼のことだ。きっとどんなに私が成績をあげようと、駄々をこねて学習を拒否しようと、困ったように笑う『保護者』のように私を見るのだろう。
「夏休み明けの試験が終われば、一先ず君の家庭教師も終了ですね」
「え?何それ。聞いていないんだけど」
「無理を言って家庭教師になってもらった上に、長々と付き合わせて申し訳ない──そういう風に、君のご両親から聞いてますけど」
「なあんだ。ずっと見てくれる訳じゃないのか」
少しずつ分からなかった知識の分野が広がって、彼のやり方で様々なことを教わって。
苦手な科目でも、彼のやり方でどんどん意味を紐解いていって。
もう大丈夫だと思った彼の方から、両親へ伝えたのだろうか。
「今度は塾の先生にでもなるつもり?」
「君はエスパーですか?……そうです。他のバイトも考えたんですけど、やっぱり教職を目指すなら丁度いいかなと思いまして」
「あっ、テキトーに言ったのに。ずっと私だけの先生だったのに乗り換えるのね!浮気だ浮気!」
「その言い方は誤解を招きますよ。別にまた家庭教師をやるわけでもないんですから、浮気というのは少し違うんじゃないんですか?」
「いいもん。ノートの落書きを毎回毎回細かく仕上げて、メールで送りつけてやるんだから」
「ノートは落書きをするものではないですよ。あっこら、今書いたのはなんですか、そこ、破ってすぐゴミ箱に投げるのをやめなさい」
期間を明確に決めていたわけじゃない。
私から彼にお願いしたわけでもない。
だからこそこの関係に、終わりの線引きはあっけなく引かれていく。
私は教えられる側。彼は教える側。
彼を引き止めるだけの対価さえ払っていない私に、彼だけの教え子でいる権利はないのだ。
ただの幼なじみ、それがどんな間柄で、何を話してどのくらいの距離感だったのか。
個人授業という蜜は、在り来たりな本来の関係性さえ私の記憶から塗り替えてしまった。
「ねえ。もし最後の試験、私がこれまでで一番の成績をとったら、お願いがあるんだけど」
「お願い?珍しいですね。今までそんなこと言わなかったのに、どういう風の吹きまわしですか」
「別にいいじゃない。それに一番理由をつけやすい事柄なんだし、ちょっと聞いてくれるだけでいいからさ」
「構いませんよ。それで、君は何を望むんですか」
本来なら、『お願い』なんて言える立場ではないことくらい分かっている。
だけど私にとってあまりにも唐突に告げられた終焉を、そのまま黙って受け入れるわけにはいかないのだ。
この幸せを見逃すより、少しのチャンスを得るくらい、望んだっていいじゃない?
「大人になりたい」
「大人になって、それからどうするんです」
「キヨテルの隣を歩いて、一緒に街を見て回って、楽しい話をしたい。……年下の幼なじみは、まだキヨテルにとって子どもかもしれない。だけど私はそれが辛いから、一度だけでいい。デートに付き合ってくれたら、あとはすっぱり諦めるから」
お願い、と今にも泣き出しそうな情けない声が、自分のものだと信じたくない。
今まで隠していた思いを口にするだけで、こんなにも息がしづらいと感じるなんて。
それでもこの崩れそうな表情を見られないように、うつむいて相手の顔を見ることはしなかった。
ペンを握って、勉強に集中する振りをして。
沈黙さえ受け入れて、彼が言葉を返すのを待っている。
「ただの幼なじみなのに、私だけの先生『だった』、それだけなのに。……こんなこと、急に言われても困る、よね」
怒ってるかな。戸惑ってるかな。
ただの小さい頃からの幼なじみに、どんな感情を抱いていたのだろう。
彼がどんな表情をしているのか想像ができなくて、だけど直視する勇気もない、曖昧で中途半端な私。
「好きになってごめんね」
「何を謝ることがあるんです?」
拍子抜けするほどいつも通りの声色が聞こえて、うっすら滲みかけていた視界からすんなりと涙が引っ込んで。
あれ?なんとも思っていないの?
そう思っておそるおそる顔を上げれば、真剣な表情でこちらを覗き込む彼。
「ほら、今度の試験はより頑張るんでしょう?気を抜いたら、僕とデートが出来なくなりますよ」
「え?いや、何かないの?こう、驚いた!とか、急に何を言ってるんだ!みたいなことは」
「君は隠していたつもりなんでしょうけど、僕はとっくに君の気持ちに気づいていましたよ。言わなかっただけで」
「えー!キヨテルだけ知ってるなんて卑怯だよ!それで、私の気持ちを汲んで渋々デートしてくれるってわけ!?」
「僕がそんな人間だと思ってます?」
「……思ってない」
なんというか、ここまであっさりと言われてしまうと、さらりと受け流されたように感じて。
先程まで必死に涙を堪えていた事さえ馬鹿馬鹿しくなってしまう。
異性としては全く意識されていないんだろうな。生真面目な彼は、ここ数ヶ月は頑なに『家庭教師』であろうとしていたから。
それならそのままでいい。
今度は正当な一回きりの権利を手に入れて、その後に元の関係に戻るだけ。
彼が気にしないのならきっと戻るのは容易いだろう。……表面上は。
「じゃあ本人の許可ももらったし、ちゃんと勉強しなくちゃね。二人で一つの教材を囲むのなんて、多分これが最後になるから心配しないで。引きずらないようにするから」
「……ねえ、リリィ。君、何か忘れてませんか」
「何を?残りの課題ならぱぱっと進めちゃうし、この範囲なら前に教えてもらったから──」
ペンを握る私の手ごと、彼の少し大きな掌がそっと包み込む。
文字を刻むのをやめさせたのは掌から伝わる体温ではなく、頬に当たる温もりだった。
鼓動が速くなっていくのは理解できても、この状況は理解できない。
その唇から漏れる吐息の熱さも、私に向けられているであろう眼差しも。
知らない。知ることはなかった。許されなかった、はずなのだ。
「言いたいことだけ言って、それで満足なら別に構わないんですが……君、今日、誕生日でしょう?試験なんかよりもずっと大きな口実になるでしょうに」
「……てっきり知らないんだと思ってたから」
「何年幼なじみやってると思ってるんですか。まあ、僕の返事さえお預けにするつもりなら、そういうことにしておきますけど」
唇は離れて行ったはずなのに、頬に残る感触を意識し続けてしまう。
そういうことにするなんて言っておいて、行動と発言が一致していない彼の本心を、つい勘繰ってしまう。
もしかして。気づいていなかっただけで、彼だって。
本当は、私のことを?
「だ、ダメだよ。キヨテルは今先生なんだから。それに試験の結果でデートも決まるんだから、誕生日だからって贅沢なこと言ってられないよ」
「頑なですねえ。じゃあ、こうしましょうか。次の試験の結果が良かったら……」
きっと赤くなってしまっているこの顔を、少しでも彼に見られたくない。
だけど隣の彼は一挙一動をよく見ていて、ふとした何気ない動作から呼吸の一つまで、全てその視線に絡め取られていくようで。
そうして耳元で囁かれた内容に、思わず顔を覆ってしまう。
「……デートどころじゃない」
「誕生日権限と一緒に、それまでお預けですね」
「絶対ぜったいに成績上げるんだから……」
「勉強のいい口実になりましたね。それじゃあ僕も、ちゃんと教師の責務を果たさないと」
開かれる教材の上を伝う彼の指先。
レンズ越しの視線は優しく、口元に柔らかな笑みを浮かべている。
言葉の一つ一つを拾い上げて、一分一秒でも長い時間で。
世界の広さと彼だけの色を、どうかもっと教えてほしいと願いながら。
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