すみませんとちょっと失礼と通してくださいの三つを駆使してボランダストリートを抜けた僕は、ふぅと一息吐いた。ようやくだ。ここまで来るのに、ヌードルを軽く十杯は食べられるほどの時間がかかってしまった。
さてと。
「一番近い病院ってどっちだったかな」
「こっちです。あそこの信号を左……」
これまで一言も喋らなかった少女が、ちっちゃな声で言いながら指を差す。なんとなく照れのある口調だった。
「あっちね」
西寄りの区画には明るくないので、彼女の指示に素直に従うとしよう。よっせと少女を背負い直し、僕は指し示された交差点に向かった。
「ところで、ご家族には連絡しなくていいの?」
病院への道すがら、無言でいるのもどうかと思ったので、僕は努めて軽い調子で切り出した。右耳のすぐ後ろで、少女のあっと呟く。
「そうですね。すっかり忘れてました」
僕の首筋に回した片腕を後ろに回し、少女はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。手馴れた操作で番号を呼び出して、スマートフォンを耳に当てる。
「もしもし? うん、私。ごめんなさい。ちょっと怪我しちゃって、お買い物できなくなっちゃったの。お夕飯の支度、遅くなるかも」
申し訳なさそうに少女が言う。電話口から心配そうな男性の声がした。
「……え? いいよ迎えに来てもらわなくても。親切な人に送ってもらってるから。それに、お店の方、空けられないでしょ? うん、大丈夫。たいしたことないから。……うん。……うん。それじゃ」
ぴっと通話を切って、少女はスマートフォンをポケットに仕舞う。ちょっとした緊張も、身内との電話で少しは解れたようだ。声音が柔らかかった。
「親御さん?」
「いえ、祖父です。両親はいないので」
「あ……ごめん」
「いいんです。気にしてません。……次は、あの看板を右です」
少女は、もう慣れた、といった風に僕の謝罪をさらりと流して、行く手にある立て看板を指差した。示された通りに交差点を折れると、道の先に病院らしき建物があるのが見える。
状況に慣れてきたのか、彼女の受け答えがはきはきとしている。人見知りなのかとも思ったけど、存外そうでもないようだ。こうしていると、本当に普通の女の子だった。ボランダストリートでのあの眼差しは、僕の先入観による錯覚だったのかもしれない。
近寄りがたい雰囲気も思い込みだと分かり、普通に話しかけられるようになった僕は、まだ少女の名前も知らないことに気付いた。
「そういえば、まだ自己紹介もしてなかったね。僕はカイト。カイト・ミヤネ。カイトでいいよ。君の名前はなんていうの?」
「ミクです。ミク・ハツネ。ミクって呼んでください」
「ハツネ?」
つい昨日、ケンジロウさんに渡された名刺の字面を思い出す。もしかして……。
「さっきの電話の相手って、ケンジロウさん?」
「おじいちゃんを知ってるんですか?」
ミクの声に驚きが混じる。知ってるも何も、つい昨日会ったばっかりなんだけどな。
「覚えてない? ケンジロウさんにも君にも、昨日の夜に会ってるんだけど」
「昨日の夜……あ! あの時の?」
どうやら思い出してくれたみたいだ。暗い場所だったし、ほとんど擦れ違ったみたいなものだから、覚えていなくても仕方が無いといえばそうだろう。
「今日は買い物? 夕飯がどうとか言ってたね」
でこぼこした石床を踏みしめて、僕は新たな話題を持ちかける。足の痛みを忘れさせるためにも話は途切れさせない方がいいよな、と思ってのことだった。
「そうです。お夕飯の材料を買いに」
「そっか」
それじゃあ、どのみち彼女はイベントに参加する気はなかったのか。僕のぬか喜びだったわけだ。
いまだ途切れない、ボランダストリートへ向かう人の流れに逆らいながら、僕はふと疑問を感じた。
「あれ? ボランダストリートに食料品店ってあったっけ?」
あの辺りは、食料品店より娯楽施設の方が圧倒的に多かったと思ったんだけど。
「それは……友達が今日のイベントに出るって言ってたので、それで」
独り言として出た僕の呟きに、ミクが答える。尻すぼみになった返答は、何故だか少しだけ後ろめたそうな響きを含んでいた。
「ああ、あのベストシンガーコンテスト? へぇ、君の友達が出たんだ?」
その口調に若干のつっかかりを覚えたものの、寄り道をして怪我をしたことに対する引け目だろうと解釈した僕は、納得の声を上げた。
「そうなんです。飛び入りで優勝して、皆をびっくりさせてやるって張り切ってましたよ」
その様子を思い出したのか、ふふっとミクが笑った気配がした。
「面白そうな友達だね」
思わず笑みがこぼれる。そういえば、飛び入り参加大歓迎って書いてたっけ。イベント案内の看板に書かれていた内容を思い出しつつ、僕はふっと頭に浮かんだ質問を、ミクに投げかけてみた。
「君は?」
「えっ?」
言ってから、端的過ぎて分かりにくい訊き方だったと気付いて言い直す。
「君は出るつもりなかったの?」
微かに息を呑む気配がした。
「私は……出ません」
言いよどむ少女の口から、吐息のような呟きが漏れる。
「歌っちゃいけないんです、私は」
沈んだ声で吐き出された返答。思わぬ反応に何故と尋ねようとして、僕は首に回されたミクの腕が強張っていることに気付いた。彼女の雰囲気の変化を察した僕は、何も言えずに口を噤む。
なによりもミクの言い回しが気にかかった。
歌っちゃいけないだって? 歌わないでも歌えないでもなく? まるで、自分を戒めてるみたいな言い方じゃないか。
ボランダストリートで見た、ミクの切なげな眼差しが思い返される。あれは、やっぱり錯覚なんかじゃなかったんだ。普通の少女にはない影が、彼女にはある気がした。
冷たい沈黙が僕とミクの間に見えない壁を作る。これ以上の追求をミクが避けたがっているように感じた僕は、
「そう……。勿体無いね。せっかく綺麗な声してるのに」
とだけ言って、質問を重ねることを止めた。微かに期待を込めた言葉だったけれど、ミクは何も答えてはくれず、気まずい空気になってしまった。
道路の向こうで行われている痴話ゲンカ、オープンカフェで一家団欒している家族の笑い声、こんなところで音符を撒き散らす変わり者ミュージシャンの歌声、近所のおばさんたちの井戸端会議。そのどれもが実感に乏しいただのノイズのようだ。
四部音符すれすれを滑空していった鳥の翼が、赤い線をぴっと横切った。そういえば、あの音符は質感を伴ったホログラムだって誰かに聞いたな。ぼんやりとそんなことを思う。
二人とも口を閉じたまま歩いて、ほどなく僕らは病院に辿り着いた。
「カイトさん。ここまでで大丈夫です。下ろしてください」
「うん」
微妙な居心地の悪さを取り繕うように、ミクはなんでもない風に僕に告げ、僕は僕で素直にミクを地面
に下ろした。
「じゃあ、帰りも気を付けて」
「はい。ありがとうございました」
答えて、ミクは白に近いクリーム色の壁に続くガラス扉に手を掛ける。が、そこで思い止まったように動きを止めた。
「あのぅ、とっても不躾で失礼なことかもしれないんですけど……」
振り向いて、ミクはもじもじと指を絡め、
「一つだけ、カイトさんに聞きたいことがあるんです。いいですか?」
窺うように上目遣いで僕の眼を見、躊躇いがちに訊いてくる。
「いいよ。何でも訊いてよ」
僕の声のトーンが上がり、笑みが零れる。驚きと一緒に、僕は嬉しさも感じていた。気まずい雰囲気のまま別れてしまうのが嫌だったので、彼女の質問は渡りに船だ。
躊躇いがちに目を伏せたミクは、意を決したように僕の目を真っ直ぐに捉える。
「昨日の夜、カイトさん、泣いていましたよね? どうして、ですか?」
ぅおっと。そうきましたか。
「あっ。ええと、すみません。私、男の人があんなに泣いているのを見るの、初めてだったから、気になってしまって。つい……」
ぴしりと固まった僕の表情を見て、慌ててミクが弁解する。
「失礼でしたよね。ごめんなさい! 今の質問、忘れてください」
「待って!」
衝撃から復帰した僕は、身を翻して病院に入ろうとするミクの手を取った。振り返る彼女の手を離し、苦笑する。
「あぁいや、その。違うんだ。怒った訳じゃなくて。なんで泣いてしまったのか、僕も正直よく分かってないから、ちょっと動揺しただけだよ」
どう言ったら良いのだろう。僕自身、未だにあの涙の理由をはっきりと理解できていない。相応しい言葉を必死に探して、それでも僕は、結局シンプル極まりない台詞を口にした。
「やっぱり、綺麗だったからかな。君の声も、あの場所も。心が洗われたっていうか。弔われた曲たちが報われて良かったって思ったのもあると思う。僕の曲のために歌ってくれた。それが嬉しかったのかも」
「そう……ですか」
僕なりに言葉を尽くしたつもりだった。でも、彼女の心に響いたかどうかは分からない。後ろめたさを押し隠した瞳が晴れて、明るい気持ちを持って欲しい。そう思うけど。
「改めて、お世話になりました。……あと、綺麗って言ってくれてありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞だなんてとんでもない。ほんとのこと、言っただけだよ」
精一杯見栄を張った僕の言葉に淡い微笑みを返して、少女は病院の扉に再び手を掛けた。僕の胸がずきりと痛む。駄目だった。届かなかった。その実感だけが、現実として心に残る。扉の向こうに消えるミクの背中を、僕はただ突っ立って眺めるしかなかった。
僕は、なんて無力なんだ。
空しさと寂しさを噛み締めながら、僕はとぼとぼと来た道を戻り始めた。
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