小さな王子様
国王夫妻が崩御し、王子の後見人となった宰相が権力を握ると、周りの環境に明らかな変化が訪れた。異常と言っても過言ではないとリリィは述べる。
「王様がいなくなったのを境にして、似たような境遇の人が増えていったんだよ」
上級貴族達が代わりに政務を行うようになってから、貧民街や道端の住人が見るからに増加した。情勢が乱れた影響による失業者。親を失った者や捨てられた者。そんな人間が最下層へ流れ込んだのだ。
貧富の差が目に見えて二極化したにも関わらず、国は救済処置を取ろうとしなかった。安穏を貪るしか頭にない連中にとっては、民の嘆きなど耳障りでしかなかったのだろう。
振り返ってみれば、国王夫妻は黄の国のタガだった。二人の崩御をきっかけにして歯車が狂い始め、いつしか歪んだ状態で回るのが常となっていた。
尤も、当時は国の内情など知る由もなかったが。
貴族達に怒りや不満を覚えてはいた。しかしそれにかまけて抗議活動に参加する余裕などない。政治の腐敗を正す事などより、その日食べるパンの方がよっぽど大事。まず今日を生き延びるのが最優先だった。
苦しい生活は相変わらず。だが時間と共に慣れてしまえば否応なしに日常となる。異常を異常として捉えられなくなり、感情や思考が麻痺して心を蝕む。
そんな生活に転機が訪れたのは三年前。人も国も見限って心を閉ざしていた頃、運命は再びリリィに牙を剥いた。
宰相一派による焼き討ち。放たれた炎は貧民街を飲み込み、夜を昼と錯覚させる程の激しさで王都の一地区を焦土に変えた。現在でも生々しく残る焼け跡は大火災の凄まじさを如実に伝えている。
「いきなりだったよ。騒がしくて起きた時にはそこら中が燃えてた。夜中なのに空が赤くて、夕方まで寝ちゃってたのかと思った」
火事が起きている。家が焼ける音と煙の臭いに飛び起きて、リリィは即座に逃げ出した。猛る炎に立ちはだかれ、黒煙に視界を遮られながら避難したが、火の海と化した街に逃げ場は無く、とうとう力尽きて倒れ込んだ。
「煙に巻かれて、火に囲まれて、死んじゃうんだって思った」
もう生きたくない。薄れる意識で静かに考えた。このまま助からなくて良い。救いなんて最初から諦めている。
「戦争の後はどこにも居場所が無かった。生きてて良いんだって言ってくれる人はいなかったよ」
希望を持つのはとっくに止めていた。期待してもそれだけ裏切られる。するだけ無駄だ。自分が優越感に浸りたいだけと気付きもしない偽善者に何度落とされたか。己が率先とはみ出し者を白眼視して人を煽っている癖に、全く無自覚の愚か者にどれ程苦しめられたか。
救助者を探す叫びが微かに聞こえた気がした。しかしそんなのは幻聴に決まっている。この世に大した未練も無い。家々が爆ぜる音を自分の葬送曲にして、そのまま気を失った。
ここにいる。独りじゃない。
二度と目覚めないと確信していたにも関わらず、聴覚は誰かの声を認識した。閉じた視界の中で、手を優しく握られている感触がした。
「間違いなく焼け死ぬはずだったのに、気付いたら病院のベッドに寝かされてた」
傍らにいたのは見知らぬ少年。訳が分からずに混乱するリリィに挨拶をした彼も、どうすればいいのか分からない様子だった。
「レン様があたしを助けて、一晩中付き添ってくれてたんだ。燃え映らないように髪を切り落としたのを謝られてさ。あたしは状況を把握しようと内心大慌てだし。初対面は妙な感じだったよ」
まだお互いの名前も知らず、事情の説明もされていなかった。ただでさえ気まずい雰囲気の所へ更に事態をややこしくする人間が現れた。どこで聞き付けたのか知らないが、宰相スティーブがわざわざ王宮から出向いて来たのだ。
思い出すだけで腹が立つ。権力者特有の高慢さと尊大さを余すことなく体現した宰相は、身勝手な理屈を露ほども恥じずに口にしていた。
その時だ。レン王子が激怒したのは。
「恥を知れ! って宰相を真っ向から批判して、大火災の生き残りは俺が預かるって叫んだんだ。信じられる? レン様はあたしが貧民街の人間なのを知ってたのに、王子の名において保護するって宣言したんだよ」
助けても何の得にもならない、むしろ王子の顔に泥を塗るような者を、彼は体を張って守ってくれた。十一歳の子どもの気迫に尻尾を巻いて逃げる宰相は傑作だったと、リリィは声を立てて笑う。
だけど、王族への不信感からレン王子に疑いの目を向けていた。所詮見せ掛けだと決め付けて、そう思い込んでいた。感謝よりも反発心が先行して、どうして死なせてくれなかったと内心悪態も吐いた。
「後から知ったんだけどさ、あたしを直接助けたのもレン様だったんだよ。倒れたあたしを背負って、安全な所まで運んでくれたらしいんだ」
命の恩人に対して礼も言わず、試すように不服を投げ掛けた。
何故王子の癖にあたしを助けたのかと。哀れみなら相手を侮辱している。そんな人間に恩を着せられるなんて冗談じゃない。
「国の為だの使命だのって綺麗事を唱えたら、さっさと逃げて王子の面目を潰すつもりだった」
どうせ世間受けするお題目を言うだけだ。だが、黄の王子の答えはリリィの予想を遥かに飛び越えてくれた。
放っておくのが嫌だっただけ。立派な理由なんて無い。飾らない返答は先の宣言と相まって、リリィを呆然とさせるには充分過ぎた。
同情を寄越さなければ軽蔑もせず、慈善をひけらかす真似もしない。彼の真っ直ぐな偽りの無い姿勢は、荒んで頑なだった心を動かした。
「自分でも不思議だったよ。ずっと誰も信じないで頼らずにいたのに、この人を信じてみようって気になれた」
そう思った時、自然とレン王子へ名前を告げた。差し出された手を取り、素直に感謝を口にする事が出来たのだ。
生きる意味も価値も見出せず絶望していた人間に手を差し伸べ、当たり前に生きられる場所を与えてくれた。
悪ノ王子? それが何だと言うのだろう。世間の評価なんて無意味だ。彼の所業が悪と呼ばれても、許されない罪を犯したのが事実でも、恩義と信頼は塵ほども欠けはしない。
国に突き放され、社会に拒絶され、誰からも見捨てられていた者達を救い、人々の意識を変えようと尽力しているのは、あの小さな王子様だ。
「レン様はあたしの……あたし達の運命を変えてくれた。こうして話せるのも、この国で生きられるのも、全部レン様のお陰なんだ」
王子へ感謝の意を示し、リリィは残っていたお茶を飲み切ってカップを置く。彼女が背負っていた過去と現在に至る経緯の重さを受け止め、リンの顔が泣き出す寸前まで歪んだ。苦笑したリリィが潤んだ目に映る。
「また泣かないでよ。さっきも言った通り、あたしは今幸せなんだしさ」
そうやって屈託なしで言えるようになるまで、どれだけの苦しみを味わって来たのだろう。どん底で生きる辛さや理不尽を知っているから、リリィは強く優しくいられるのかもしれない。
「あの大火災、生存者があまりいなかったって聞いてた」
リンは驚嘆を込めて言う。数少ない生き残りが身近にいるとは思いも寄らなかった。レンの勇気がリリィを助け、巡り巡ってリンを励ましている。
「世間じゃ貧民街の住人はほとんど犠牲になったって言われてるけど、ほとんどって事は助かった人も当然いるって事だよ」
含みを持たせた物言いが引っ掛かり、リンは怪訝にリリィを見つめた。
「それは分かるよ。他の人はどうなったの?」
知りたいのは助かった人達のその後だ。新しい人生を歩く事が出来たのか。
「どうって、今でもレン様の傍で働いてるし、リンベルも良く知ってるよ」
リリィはからかうように意地の悪い笑顔を見せ、リンが不服を露わにする。
「それはリリィの事でしょ。他に助かった人はどうしたの?」
再びの質問にリリィは小声で笑う。いい加減にして欲しいとリンが言いかけた時、リリィは制するように片手を上げた。
「ごめんごめん。あたしも入れて十人いなかった生存者は、傷が癒えてからレン様の下で働く事になったんだよ」
身寄りも無く王宮の作法など知りもしなかった者を引き取り、レン王子は嫌な顔一つせずに彼らと接した。読み書きも出来ない者がいて驚きはしていたが、それでも見放さずに根気強く付き合った。
レン王子を支援し、癖のある新人達を教育したのがトニオとアルだった。二人の協力が無ければ、レン王子は過労と心労で倒れていたに違いない。リリィは王子付きのメイドとして身の周りの世話を行っていた。
やがて生き残りの彼らが授かったのは、黄の国で久しく見なくなっていた赤い鎧。トニオを隊長、アルを副隊長に任命して新しく生まれ変わった部隊。
「あたし以外の生き残りは、王子直属の近衛兵になったんだよ。トニオさんとアルさんは元々王宮の兵士だったけどね」
始めは貴族出身のトニオに反抗する者もいたが、彼は隊長として模範を示し、上手く取り成すアルの存在もあって、間もなく信望を寄せるようになった。
「一人、名前すら無かった人がいてさ。レン様はその人に名前も与えたよ」
本人は名無しのままで構わないと言っていたが、レン王子はそれを認めなかった。「名前が無いのは困る。俺が呼べない」と主張して、尊敬する人達に因んだ名前を命名した。
「あたしもだけど、近衛兵隊の人達は国や王子に仕えてるんじゃない。レン様に仕えてるんだ」
自分達の居場所はここにある。リリィは満面の笑みを見せて言い切った。
下手な小説よりも壮大な話を聞かされたリンは、テーブルに目を落としてから尋ねた。
「聞きたい事があるけど、良いかな?」
「どうぞ」
まだ残っている疑問と知りたい事があり、リンは承諾してくれたリリィに質問する。
「棒を使った武術。あれはいつから習っていたの?」
リンが知っている限り、リリィが稽古をしている姿を見た事が無い。おそらく知らない所で鍛錬していたとは思うが、それを差し引いても相当の腕前だ。レンと比べても遜色がない。
「子どもの頃に親から教わったんだよ。ちなみに剣術や馬術も教えて貰ってた」
王宮に来てから基礎をやり直し、勘を取り戻すのが大変だったとリリィは答える。レンがリリィを傍に置いていたのは、護衛も兼ねていたからのようだ。
「最後に一つ良いかな?」
「何?」
リンは僅かに逡巡し、一呼吸置いて訊く。
「リリィの本当の名前は何て言うの?」
彼女が貴族だと知った時から気になっていた。もしかしたら同じように偽名を使っている可能性もある。たとえ偽名で無くても、姓も含めた名前を知りたかった。
リリィは微笑み、悲しみを誤魔化すような笑顔でリンに告げる。
十年前に置き去りにした名前を。
「リリィ・アーシェ」
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