日曜日、ルカ姉さんは仕事関係で一日出かけていたので、顔をあわせずに済んだ。月曜日になると、わたしも少し落ち着いてきて、一緒の食卓に着くぐらいのことはできるようになった。
 ……といっても、なんとかパニックにならずに席に着いていられるというだけ。話をするのはおろか、顔を見ることもまともにできない。下手に存在を意識しただけで、震えが来てしまう。
 わたしは下を向いて、とにかくルカ姉さんと視線をあわせないようにしながら、朝食を取った。ルカ姉さんの方は……いつもと変わりないみたい。やっぱり、わたしを突き落としたことは記憶から消えているのかな。それとも、どうでもいいことなのかな。……わからない。
 気分の悪さと戦っていたせいか、いつもより食事に時間がかかってしまった。自分の部屋に戻って鞄を持ち、車に乗って学校へ向かう。腕時計を見ると、普段家を出るのよりもやっぱり遅い時間だった。……とはいえ、いつもちょっと早めに出ているから、始業には充分間に合うわよね。
 予想どおり、普通の時刻に学校に着いた。車を降りて、昇降口へと向かう。……あ。
 昇降口に、レン君がいて、誰かと話している。……あれは確か、蜜音さんだ。演劇部の副部長の。
 二人は、楽しそうに話をしている。蜜音さん、すごく明るい笑顔だ。何の話をしているのかはわからないけど……。
 不意に、わたしの胸の奥が針で刺されたみたいに痛んだ。……今の何? 何なの? よくわからないけど、嫌な感じの痛み。
 何故か、今すぐに背を向けて去ってしまいたい気分に捕らわれた。……何を考えているの? これから一週間ぶりの学校なのに。行かなくちゃ。
 顔をあげる。蜜音さんはいつの間にかいなくなっていた。レン君は、下駄箱から上履きを出している。なるべく、普段どおりにしていれば大丈夫よね。胸の奥の嫌な感じ、まだ残ってるけど……。
「おはよう」
 わたしが声をかけると、レン君はびっくりしてこっちを見た。
「リン! もう平気か?」
「う、うん……もう大丈夫」
 わたしは何とかそう答えると、自分の下駄箱から上履きを出して履き替えた。レン君の様子は、いつもと変わりなく、わたしを気遣ってくれている。……いい人だもの。そのことは、前からわかっていたはず。
 いい人だから……わたしは、レン君の負担になりたくない。
「今日はいつもより少し遅いんだね」
「朝ごはんを食べ終わるのがちょっと遅れてしまって……」
「じゃ、教室まで行こうか」
 同じクラスだものね。わたしは頷いて、レン君と一緒に教室まで向かった。
 教室に着いて、わたしが自分の席に座ると、レン君は自分の席には向かわずに、自分の鞄を開けて、中からプリントの束を取り出した。
「リン、これ、渡しとくよ」
 わたしは、渡されたものを見て驚いた。……わたしが休んでいた間の、ノートのコピー。一週間だから、かなりの量がある。それを全部、コピーしておいてくれたの?
「これ……わざわざ……」
「わかんないところがあったら教えるから」
 どうして……そこまでしてくれるの? いつもいつも……思わずプリントの束を握りしめそうになってしまい、必死でそれをこらえる。
「……ありがとう」
 そう言うのがやっとだった。なんだか胸の奥が熱くて、泣きそうになってしまう。わたしは唇を噛んだ。
「それで、調子はどう?」
「体調の方は大丈夫」
「お姉さんは?」
 レン君の声は心配そうだった。わたしは少し迷ったけど、あそこまで事情を話したのに、この先を話さないのも変なので、説明することにする。
「……普段と全く変わらないの。朝起きると、普通に『おはよう』って言われるし」
 ルカ姉さんの様子を思い出すと、わたしの全身にまた震えが走ってしまった。震えを止めようと、自分で自分の肩を抱く。
「わたし……ルカ姉さんと目、あわせられくなっちゃった……。なんでだかわからないけど……ルカ姉さんの顔を見ると、気分が悪くなってしまって……」
 レン君は、心配そうな顔でわたしを見た。一瞬、しがみついて思い切り泣きたい衝動にかられる。……そんなことをするわけにはいかないけど。
「階段から突き落とされたりしたんだから、仕方がないよ。リン、それは、リンの心が無意識のうちに『お姉さんに近づきたくない。もう痛い思いをしたくない』って、悲鳴をあげてるんだ。リン、まずは自分を守らないと」
 レン君の言葉は優しい。わたしに対して、ここまでする理由も義理もないし、もっときついことを言ってもおかしくないのに。
 落としたわたしの視線が、レン君の手に止まった。わたしを何度も助けてくれた手。わたし、助けられてばかりじゃ駄目なんだ。
「う、うん……頑張るから」
 そう答えると、レン君は安心した表情になった。
「リンちゃんっ! もう大丈夫なの!?」
 あ、ミクちゃんだ。今登校してきたのね。
「じゃ、俺はこれで」
 ミクちゃんが来たのを確認すると、レン君は自分の席へと戻って行った。ミクちゃんが、わたしの許へと駆け寄ってくる。
「おはよう、ミクちゃん」
「具合は?」
「もう大丈夫よ」
 わたしは、なんとかミクちゃんに微笑むことができた。ミクちゃんが笑顔になる。
「良かった、心配してたのよ」
「う、うん……ありがとう。お見舞いのことも」
 ミクちゃんにもレン君にも、たくさん心配させちゃったのよね……。
「気にしなくっていいって。……ところで、それ何?」
 手元のプリントの束を指差して、ミクちゃんが訊いてくる。
「レン君がくれたの。休んでいた間の授業のコピー」
 わたしが答えると、ミクちゃんはまた笑顔になった。
「鏡音君って気が利くのね」
 気が利くとか、そういう話なのかな? なんだかちょっと違う気がする……。わたしは、プリントの束にそっと触れた。冷たい紙の感触だけど、不思議と温かく感じる。
「ところでリンちゃん、今週の終わりにはもう十二月になっちゃうのよね」
 ミクちゃんは、突然そんなことを言ってきた。確かに、今週末にはもう十二月だ。十二月に入ったら期末テストがあって、それから冬休み。 
 わたしは小さくため息をついた。今年の冬休みも、いつもと同じだろう。わたしは長期の休みが好きじゃない。こういうことを言うと大抵の人は妙な顔をするのだけれど、我が家では長期の休みも、平日は家庭教師を呼ばれて勉強漬けだ。これに冬休みは、年始のあれこれが絡んでくるので、むしろ学校に行っている時期の方が気楽だったりする。
「ミクちゃんは、今年の冬休みは家族旅行よね?」
 ミクちゃんの家では、家族揃って二年に一度は旅行に出かける。……羨ましいな。わたし、家族で旅行なんてほとんどしたことがない。
「うん。今年は二十九日から一週間ほどグアムに行こうって話になってるの。リンちゃん、お土産楽しみにしててね」
 ミクちゃんはいないし、今年も息の詰まるお正月か……。着物着てお客さんのお出迎え。なんだかよくわからないお父さんの仕事の関係の人たちの前で、良家の娘らしくしてなくちゃならない。
「……リンちゃん? 大丈夫?」
 ぼんやりと憂鬱な冬休みに思いを馳せていたわたしは、ミクちゃんの心配そうな声で我に返った。いけない、気をつけないと。退院したばかりだから、ちょっとしたことでもミクちゃんに気を揉ませてしまう。
「あ、うん、ごめんねミクちゃん。ちょっとぼんやりしちゃって」
 学校、終わらないといいのに。学校があれば、ミクちゃんやレン君に会える。
「ねえリンちゃん、クリスマスイヴは暇?」
 え? 急にミクちゃんにこう訊かれて、わたしは戸惑った。クリスマスイヴ? 暇といえば暇だけど……。
「う、うん……今のところは……」
 余裕があったらクリスマス公演を見に行こうかなと思っているけど、今年は何をやってたっけ? クリスマスの定番といえば、『くるみ割り人形』か『ヘンゼルとグレーテル』だけど……。
「じゃあ、クリスマスイヴはわたしの家に来ない? クリスマス映画を見て、一緒にお昼を食べましょうよ」
 そんな提案をされた。ミクちゃんの家でクリスマス映画と昼食会か……。でも、クリスマスのような日となると、ミクちゃんのご両親の都合もあるんじゃないの?
「ミクちゃんのお父さんとお母さん、いいって?」
「昼は好きに使っていいって」
 折角そう言ってくれたんだし、ここはミクちゃんの言葉に甘えさせてもらっちゃおう。そうだ、今度はケーキを焼こうかな。
「じゃあ、わたし、ケーキを焼いて行くわね」
「やったあ! 実は期待してたの」
 ミクちゃん、甘いもの好きだものね。わたしもだけど。
「何がいい? クグロフ? ブッシュ・ド・ノエル? ヘクセンハウス?」
 クグロフは、わたしだと失敗しちゃう確率が高いかな……。ヘクセンハウスがいいかもしれない。クッキーを全部わたしの家で焼いて行って、ミクちゃんに飾り付けてもらうとか。考えただけで楽しそう。お菓子の家って、この年齢になってもちょっとわくわくする。
「ヘクセンハウスにするんだったら、組み立てはミクちゃんの家でやりたいな。で、ミクちゃんに飾り付けてもらうの」
「うーん……ヘクセンハウスもすてきだけど、わたし、ケーキらしいケーキが食べたい」
 ケーキらしいケーキ……ふわふわのスポンジにクリームを塗ったケーキがいいってことかな。
「わかったわ。じゃあ、ふわふわのスポンジのにするわね」
 こういうケーキとなると、スポンジを前の日に焼いて、当日にクリームを塗るのがいいわよね。生クリームにするか、バタークリームにするか、それともチョコレート系にするか。飾りつけもいろいろあるし……どれがいいかな。
 なんだか気分が明るくなった気がする。ミクちゃん、ありがとう。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第五十話【すりきれた心は休ませなさい】

 ……遂に五十話。

 作中に登場するヘクセンハウスは、クッキーで作ったお菓子の家です。一般的にはレープクーヘンという生姜の入った生地を使いますが、別に普通のクッキーでも構いません。
http://www.cuoca.com/item/30554.html
 最近はこんな便利な道具もあります。使うとこうなるそうです。
http://recipe.cuoca.com/pc/index.php?cmd=rcpd01_pc&id=867

 この前お気に入りの犯罪ドラマを見ていたら、「嫉妬にかられて姉が妹を殺してしまった」というオチで、なんか見ていて自分の書いた作品を思い出してしまい、微妙な気持ちになりました。
 時々、物事って妙なタイミングになります。

閲覧数:1,018

投稿日:2012/02/03 18:49:45

文字数:4,012文字

カテゴリ:小説

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