注意書き
これは、拙作『ロミオとシンデレラ』の外伝です。
外伝三十二【そして終わりの幕を引こう】のガクトを書いたものです。
よって、外伝三十二までの、巡音家関連の外伝全てに目を通してから、読むことを推奨します。
【誰が為の嘘】
待ち合わせに向こうが指定してきた、都内の洒落たバー。俺はそこのカウンターで、特に何かするわけでもなく、ぼんやりとしていた。現在、時計は午後八時を指している。
ルカには、帰宅は遅くなるから、俺を待たなくていいと言ってある。多分今頃は、夕食を終えて風呂にでも入っているだろう。
「お、もう来てたのか」
声をかけられて、俺は振り向いた。二つ上の兄、ヤマトが立っている。俺が何か言う前に、兄は俺の隣の椅子に座ると、バーテンに酒を注文した。
「で、聞いてほしいことってのは何だ?」
注文したものが来た後で、兄は突然そう言った。
「俺はまだ何も……」
「嘘をつけ。結婚してから、お前が俺と二人で飲みたいなんて言いだしたのはこれが初めてだ。どう考えても、何か話したいことがあるからに決まっているだろう。それも、父さんや母さんには知られたくないことだ」
普段は安穏と構えて笑っているくせに、妙なところで察しが早い。
「嫁さんと喧嘩でもしたのか?」
兄はのほほんと笑っている。俺はやや苛立ちを覚えつつも、話をすることにした。
「実は……巡音の両親が離婚することになった」
兄の顔から笑みが消え、驚愕の表情に変わった。それを少しさめた気持ちで眺めながら、俺はグラスに口をつける。
「ルカさんの両親が離婚?」
「ああ」
兄は信じられないといった表情で、首を捻っている。
「一体なんでまた……」
「どうも、『子育てが済んだので出て行きます』ということらしい」
兄は言葉も出てこない様子だった。所在なさげに、グラスを手でいじっている。
「……熟年離婚という奴か? でも、そんなに仲が悪かったか?」
しばらくの沈黙の後、兄はかすれた声でそう言った。俺は首をわずかに傾ける。肯定と否定、この場合、どちらがふさわしいのだろうか。
「俺にもよくわからない」
少なくとも、俺は、義両親の仲が悪いと思ったことはなかった。義母は口数の少ない人で、一緒にいてもあまり言葉をかわしたことはなかったが。それは義母が慎ましい人だろうからだと、そう思っていた。
「巡音のお義母さんは、大人しい人だったよな。どちらかというと『夫を立てる妻』って感じで」
兄の言葉に、俺は頷いた。
「それがいきなり離婚か……わからないものだなあ」
全く同感だ。一体どんな不満があったというのだろう。俺は義母の顔を頭に思い浮かべた。声を荒げて怒鳴るとか、そういうことはしない人だと思っていたのだが。
……それなのに。あれは、裏切りだ。
「兄さん、うちの両親は」
「離婚なんかしないだろう……と言いたいところだけど、わからなくなったな。子はかすがいといっても、リュウトだって後十年もすれば家を出るだろうし」
実家の両親のことを考える。俺ののところも、父親は亭主関白の傾向があり、母親は夫を立てるタイプだった。だから不安になってしまう。
「ま、父さんと母さんのことは、俺がしっかり見ておくから、お前は心配するな。お前はルカさんのことを考えてやれ。両親の突然の離婚で、きっと動転しているだろう」
なんなら今すぐ帰ってもいいぞ、そう続けたそうだった。だが、まだ俺の話は終わっていない。
「そのルカのことなんだが……」
「ルカさんがどうかしたのか?」
俺はどう言葉を続ければいいのかを考えながら、視線をグラスに落とした。
義母が突然我が家に来て「離婚した」と告げたのは、ほんの数日前のことだった。腰を抜かさんばかりに驚いている俺の隣で、ルカは慌ても騒ぎもせず、淡々と「そう」とだけ答えた。
「……ルカ、お父さんとは離婚したけれど、あなたとの離縁届けは出してないわ。だからルカとはまだ親子なの」
突然義母が始めたその話の意味が、俺にはわからなかった。離縁届けとは一体、何の話をしているのだろう。
「ルカはそれでいい?」
「ええ」
ルカの答えはやっぱり淡々としていた。義母はそれから連絡先だの何だのの話を始め、ルカはそれを機械的に頷きながら聞いていた。俺は唖然としすぎて、言葉すら出てこなかった。
「それじゃあ、何かあったら連絡してね」
そう言って、義母は帰ろうとした。俺は慌てて義母を引きとめた。
「待ってください。離婚って、どうして」
「子育てが終わったからです」
「子育てが終わったって……」
一番下のリンちゃんが、今年の初めに成人式を迎えたとは聞いている。だが、彼女はまだ大学生だ。後二年は責任があるのではないだろうか。
「リンも、ハクも、もう、家にはいません。私だけ残っていても仕方がない。だから、離婚したんです。もう、引越しも終わりました」
何がなんだかわからない。呆然とした俺を残して、義母は帰って行ってしまった。ルカがお茶道具の片付けを始める。その傍らで、俺はただ立ち尽くしていた。
「お義父さんに連絡してみる。ルカ、少し待っていてくれ」
我に返った俺は携帯を取り出して、義父の番号にかけた。やがて出た義父に、離婚のことを尋ねると「ああ、離婚した」という、不機嫌そうな返事が返ってきた。
「……離婚したって、いつです」
「成立したのは昨日だ」
「どうして俺たちに何も言ってくれなかったんです」
おかげで、俺もルカも驚いた。ルカはさっきからほとんど喋らないが、それだけショックなのだろう。……俺は、そう思っていた。
「夫婦のことだ。お前たちには関係ない」
「でも! せめて相談くらい!」
「相談したからって何になる」
それは……。確かに、何もできなかったかもしれない。だが、やはり相談ぐらいしてほしかった。離婚するまで思いつめていたのなら。
ここで、俺はルカには二人の妹がいることを思い出した。上の妹のハクさんは、身体が弱くてどこかで療養しているとのことだった。下の妹のリンちゃんは、大学生。英文学か何かを専攻していたはずだ。
「ハクさんとリンちゃんは? どうしたんです?」
「あの二人なら、縁を切った。育ててもらった恩も忘れおって」
縁を切った!? お義母さんの方についていったということだろうか。だが、だからと言って縁を切らなくても……。
「それは……」
「とにかく、この話はもう終わりだ」
義父は、一方的に電話を切ってしまった。あまり離婚のことをつつかれたくないらしい。こう言ってはなんだが、義父は気難しく、扱いにくいところがある。この分だと、離婚を切り出したのは義母の方のようだ。いきなり出て行かれて、プライドが傷ついたのかもしれない。
「お父さん、何か?」
「離婚したとだけ言われた。ハクさんとリンちゃんは、お義母さんについていったらしい」
「……そうですか」
ルカの答えはそれだけだった。その静かな声を聞いて、俺は自分で自分が情けなくなった。離婚したのは、ルカの両親なのだ。それなのに、俺の方が取り乱している。俺は、ルカを励ましてやらなくちゃならないんじゃないか。
「あ……ルカ。ショックだとは思うが、気をしっかり持とう。お義母さんには、きっとお義母さんの事情があって……」
「今頃出て行ったの。もっと早く出て行くかと思っていたのに」
静かな口調で、ルカはそんなことを言った。関係ない? ルカは、何を言っているんだ?
「ルカ?」
「ずっと前から、そんなにしないうちにあの人は家を出て行くんだろうと思っていたわ。それにあの人が出て行ったところで、私には関係ない。本当の母親ではないもの」
俺は、まじまじとルカの顔を見つめた。冗談を言っている顔ではない。そもそも、ルカは冗談など口にしない、真面目な性質だ。
「どういうことだ?」
「さっきの人は、父と再婚しただけの人だから」
義母は、ルカの実の母親ではない? どういうことだ? そんな話は、初めて聞いた。
「ルカ、ルカのお父さんは、前にも離婚しているのか?」
ええ、とルカは頷いた。表情一つ変えずに。
「そして、さっきの人と再婚した」
ルカはまた頷いた。ふっと、あることが引っかかる。ルカには、妹が二人いる。下の妹のリンちゃんにしか会ったことがないが、リンちゃんとルカは、外見が全く似ていない。
兄弟姉妹が似ていないのはよくあることだ。俺だって下の弟のリュウトとは似ていない。父親似の俺に対し、リュウトは母親似なのだ。だが、ルカは義父にも義母にも似ていない。一方リンちゃんは、どちらかというと義母に似ている。
俺はこめかみを揉んだ。なんとなく、事実が見えてきたような気がする。おそらく、二人の妹は義母の子で、ルカだけが先妻の子なのだ。ルカとすぐ下の妹のハクさんとの年齢差は、三歳か四歳。そんな小さい頃に両親が離婚を……。
訊きたいことは、他にも山ほどあった。淋しくなかったのかとか、辛くなかったのか。でも、どれも口にすることはできなかった。
俺は、他の人間――両親やリュウトも含む――には絶対公言しないように何度も念押しして、兄にルカの事情を話した。本来話すべきことではないとわかってはいるが、自分一人で抱えるのは重すぎたのだ。
話を聞き終えた兄は、難しい表情で考え込んでしまった。基本的に気楽な性質の兄だが、必要な時はちゃんと真面目になってくれる。それがわかっているからこそ、俺も話す気になった。
「それはまた……厄介な事情だな……」
「ああ」
俺は頷いた。こんな事情があるだなんて、思ってもみなかった。
「で、ガクト。お前は一体何が引っかかってるんだ。ルカさんのお母さんが継母だったというのは、ショックかもしれんが、無理に話さなくてはならないことではないだろう。ルカさんのせいで、ルカさんの実両親が離婚したんじゃないんだから」
それくらいのことはわかってる。ただ、何かが釈然としないのだ。
「ルカに何をしてやればいいのかわからないんだ。ルカは普段どおりにしていると、なんだかやりきれなくて……」
「それは、お前の方がしっかりするしかないだろ。自分がルカさんを支えてあげるんだ、ぐらいの心構えでいかなくて、どうする。お前は夫なんだぞ」
兄はそう言って、俺の背を勢い良く叩いた。言われるまでもないことだ。……今が、普通の状態なら。
「どうした、まだ顔が暗いぞ」
「実を言うと、問題はそれだけじゃないんだ」
「うん? 今度はなんだ?」
「昨日、ルカが倒れた」
兄は、大きく目を見開いた。
「倒れたって、まさか……」
「いや、心労とかじゃない。すぐ病院に連れて行って診てもらったんだが、『おめでたです』と言われた」
兄はほっと安堵の息を吐いたが、すぐにまた難しい表情になった。
「普通なら『おめでとう』と言うところだが……厄介なことになったな」
「……ああ」
なんでよりにもよってこんな時に、と思わずにはいられない。義母には義母の事情があるのだろうが、離婚するのなら、せめて、もう少し考えてからにほしかった。
「で、ルカさんのおめでたについては、もう報告したのか?」
「いや、まだだ。もう少し落ち着いてからにしようと思っている」
義父は苛立っているし、出て行ったばかりの義母にこんな話をするのは、あてつけがましく感じる。俺はこっちの家に入っているわけだから、実両親への報告を先にするわけにもいかない。
「そうか。それなら、俺は黙っていよう」
兄の口調はあっさりしていた。
「助かる」
「気にするな」
そう答えた後で、兄は、何事かを思いついた表情になった。
「そういやガクト、ルカさんの実の母親には、会ったことがあるのか?」
俺は首を横に振った。一度も会ったことがない。どういう理由で離婚したのかすら、聞いていない。そもそも、離婚の理由はルカも知らないようだった。
「探してみたらどうだ。仮にも母親だろう。血の繋がった娘のことが、気にならないはずがない」
どうして、今までそれを考えなかったのだろう。
数日後、俺は時間を作って区役所に行き、ルカが生まれた時の戸籍謄本を見せてもらった。それによると、ルカの実母は「茅野ルミ」という名前だった。
実母の名前がわかったのはいいが、彼女の所在をどうやって突き止めたらいいだろうか。一番簡単なのは、実母の戸籍を取り寄せてもらうことだ。だがルカ本人ならともかく、配偶者の俺に、戸籍を取り寄せる権利というのはあっただろうか。
今一自信がない。かといって役場の窓口でごちゃごちゃ質問して、変な視線で見られるのも嫌だ。ルカ本人に取り寄せを頼めば確実だが、実母を探していることは、まだルカに知られたくない。
散々悩んだあげく、俺は、あまり褒められない手段に出ることにした。ルカの委任状を偽造したのだ。……バレはしないだろう。印刷だし、印鑑はルカのものだ。引き出しに入っているのを拝借したのだ。そもそも夫婦は一心同体なのだから、これくらい構わないはず……と、理論武装はしてみたが、気持ちはすっきりしなかった。
そういうわけで、ルカの母親の戸籍を取り寄せることには成功した。だが、それを見た俺は、驚愕で凍りついた。ルカの実母は離婚後実家に戻っていたようなのだが、そこにははっきりと「死亡」と書かれていたのだ。
死んだ? 年齢を見ると、ルカの実母は俺の母より少し若いぐらいの年齢だ。もちろん、人は年齢などには関わりなく死ぬ。だが……。
俺は戸籍の附表を送ってもらい、それで判明したルカの実家の電話番号に電話した。まだここに住んでいるとは限らないが、かけてみるぐらいいいだろう。
「もしもし」
電話口に出たのは、年配の女性だった。
「もしもし。茅野さんのお宅でしょうか?」
「はい、そうです。そちらは?」
どうやら、ルカの母親の実家はそのままのようだった。同姓の別人……という可能性は低いだろう。俺は用件を告げることにした。
「俺は巡音ガクトと言います。実は……」
いきなり派手な音を立てて電話が切られてしまい、俺は呆然と手にした電話を見つめた。一体、何が起きたんだ?
俺はリダイヤルのボタンを押した。何がなんだかわからないが、もう一度かけてみよう。先ほどと同じ女性が出る。
ロミオとシンデレラ 外伝その三十三【誰が為の嘘】前編
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