「いらっしゃい。」
そう男が微笑んで店内に招き入れてくれた。室内に一歩足を踏み入れると、暖かい空気が、凍えたルカを優しく包み込む。強張っていた体から余分な力が抜け、はぁ。と思わずルカがため息をつくと、横で男がくつくつと笑った。
「そんなに寒い思いをして、それじゃあ満足いく演奏ができなかったでしょう。」
男の言葉にルカも苦笑しながら、はい。と頷いた。
「寒くて、体に力が入らなかったです。」
そう応えると、男はやっぱり。と笑う。
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
男の言葉に、ルカは紅茶をお願いします。と答えた。
 ルカの言葉を受けて男はカウンターの中に入り、お茶の用意を始めてくれた。かたかたと、風が窓ガラスを揺らす音が聞こえてきた。あの寒さなど嘘のように、屋内は暖かく穏やかな空気に満ちていて。カウンターの椅子に腰を下ろし上着を脱ぎながら、男の作業する姿をなんとなくルカは見つめた。
 今までシルエットでしか見たことのない男は、20代後半から30代くらい。シルエットどおり細身で、けれど弱々しい感じではない。シンプルでこざっぱりとした感じの恰好。すっきりとした涼やかな目元が印象的な顔立ちで、物腰は綺麗で丁寧。とルカが男の様子を観察していると、不意に男が視線を上げてきた。
「生姜は大丈夫ですか?」
「え、あ、は、生姜?」
と不意を衝かれてルカが素っ頓狂な声を上げると、男はくすり、と笑った。
男の涼やかな顔立ちは、笑うと人懐こい。そんな事をルカが思って見つめていると、男は照れたように、そんなに見ないでください。と言ってきた。
「君みたいに綺麗な若い子と2人きりで、こっちは緊張しているんだから。」
と男は冗談とも本気ともつかない口調で言ってくる。ごめんなさい。と慌ててルカが不躾な視線を逸らすと、くつくつと男が喉で笑うのが聞こえてきた。
「それで、生姜は大丈夫?」
くつくつと笑いながら、穏やかな口調で尋ねてくる。その言葉に、大丈夫です。とルカが赤くなりながら答えると、よかった。と男は頷いて、再び手を動かす。
 この人は、言葉通りにどきどきなんかしていないのかもしれない。私をからかいたかっただけなのかもしれない。こういうのを、大人の余裕と言うのかもしれない。
 この人は、私のいる位置からふたつみっつ上の場所にいるんだ、きっと。
 そんなことをルカが思っていると、はい。とミルクティがなみなみ入ったカップを男は差し出してきた。ありがとうございます。と、ルカが受け取ると、男も自分のカップに手を伸ばし、こくり、と飲んだ。
 温かな湯気の立つミルクティをルカが一口飲むと、芳しい紅茶の香りのほかに、蜂蜜の優しい甘みとほんの少し舌を刺激する風味があった。温かくて美味しくて、自然に口元が綻びる。
「体を温めるように、生姜を少し入れたんです。」
そう言う男の言葉に、ルカは美味しいです。と微笑んだ。
「それはよかった。」
と男も嬉しそうに微笑んだ。
 カウンターの脇に並んでいた大振りのガラス瓶の中からクッキーを取り出して、男はこれもどうぞ、と差し出してくる。薦められるままに、ルカはそれを手にとって齧るとバターの風味と、ブラウンシュガーの素朴な香りがした。ルカが再び口元をほころばせながら、美味しいです。と言うと男も嬉しそうに微笑んだ。
「このお店はあなたが店長なのですか?」
そうルカが店内を見回しながら問いかけると、男はそうです。とほんの少しはにかむような表情を見せて頷いた。
「やっと軌道に乗った感じですが。店を持つのは夢だったので。」
男の言葉に、ルカは店内を見回した。テーブルが6卓にカウンターに5席と、小さな規模のお店だ。しかし、椅子が不揃いながらも統一感のある感じだったり、飴色の棚に不揃いの壜や舶来物っぽい缶や古い装丁の本が並んでいたり。男の趣味なのだろう、レトロな感じが可愛らしい。
「凄いですね。」
まだ若いのに、こんなに立派な店を持っているなんて凄い。そう思ってルカが言うと、男は凄いのは君のほうだ。と笑った。
「こんな寒い中うたを歌うなんて、なかなかできないよ。」
そう茶化すような男の言葉にルカも苦笑しながら、確かに今日はとても寒くてどうしようかと思いました。と答えた。
「聞いている人もいないし声は震えるし、寒いし。今日は特に、何やってるんだろ自分。って思いました。」
ルカの言葉に、男が微かに首を傾げて優しげな眼差しを向けてきた。
 見守るような、受け入れるような。このお店の雰囲気と同じ暖かさを含んだ男の瞳に、心が緩くほどけていくような感じがした。
「けど、やっぱり、好きなことだから。」
緩んだ解け目からころんと転がり落ちるように、そう、呟くようにルカは言っていた。
「私がやっている事は、無駄で空回ってるだけの行為かもしれない。本当ならば就職とかちゃんと考えなくちゃいけなくて、歌う事は、どうやっても仕事にすることができなくて、馬鹿な事だって分かっているんです。それでも。好きなことだから、自分で回ることを止めたくないんです。好きなことに対して、背を向けたくないんです。自分に正直でいたいんです。」
解けた先からころころと転がり落ちてくる自分の感情を、制御することなくそう口にして、はっきりと言葉に現わして。こうありたい。と言い切って、ルカは、何で初対面の人にこんなことを語っているのだろう。とはたと気がついた。
 瞬間、かぁ、と恥ずかしさで頭に血が上った。
 普段、友達にも言わないような青臭いこんな言葉を、初対面の年上の人に語るなんて。しかも相手は大人の男の人。子供の理想論を大人に語るなんて。きっと、そんな現実を見ていない夢見る時期も若い頃はあったよね。なんて内心で鼻で笑われている。
 口をつぐみ、ルカは誤魔化すように手にしていたカップの紅茶をすすった。だけどいたたまれない。そろそろおいとましよう。とルカがミルクティを飲み干して顔を上げると、男はゆったりと微笑んでいた。
「俺もこの店を始めたとき、同じようだったな。」
そう懐かしむような笑顔で言う。
「といってもまだ3年しか経っていないんだけど。それでも沢山のことがあって、ずっとくるくるまわり続けているような気分だった。ずっとくるくるまわっているのは大変だけど、から回ってるんじゃないかって、自分で不安になったりもするけど。結局、好きなことだから頑張りたいんだよね。」
そう楽しげに笑いながら言う。温かな、その感情を慈しむような同調の言葉に、ルカは胸の辺りがくすぐったく感じた。
 この人は、経験を積んでも初心の気持ちを失くさない。むしろ大事にしている人だ。そう思ったら勇気が湧いてくるようで嬉しかった。しっかりした感じの大人の人も自分と同じなんだ。と嬉しくて。自分がなりたいな。と思っている姿を見せてもらえて更に嬉しくて。
 私もあなたのようになりたいです。と言いたかったけれど、流石にそこまで調子に乗れない。代わりに、はにかむようにルカが笑むと、男も共犯者のような子供みたいに柔らかな笑顔を見せてくれた。
 きっと、つい語ってしまったのはこの男の空気のせい。なんでも許してもらえるような穏やかな空気のせいだ。
「それにしても、なんだか変な感じです。」
男は楽しげな笑顔を浮かべて、カップを手のひらでもてあそびながらそう言った。カウンターの中、作業台に寄りかかりながら屈託のない笑顔をルカに向けてくる。
「君とは顔見知りだったけれど。まさかこうやってお茶を飲むことになるとは思っていなかった。」
「確かに、そうですね。」
男の言葉に、ルカは頷いた。
 確かに、男は常に見上げた先の場所にいて、うたを歌っている自分のいる場所と、なんだか繋がらないような感じがしていたから。
「ちょっと足を踏み出せば、人は簡単に繋がるものなんだよね。」
そう男は面白そうに呟いた。その表情がまるで子供のように無邪気で、そうですね。とルカもつられて笑いながら言った。
「お互い名前も知らないのに。」
そうルカが言うと、そうだったね。と男は作業台に寄りかかっていた視線を正して、きちんと背筋を伸ばしルカに向き直った。
 男の眼差しが穏やかで暖かな色を湛えてルカを見つめる。
「俺は、ここのカフェの店長で、鳥海。っていいます。」
男の丁寧な佇まいに、ルカも慌てて姿勢を正した。
「私は巡音ルカと言います。よろしくお願いします。」
そう言って頭を下げると、男も釣られたのだろう、深々と頭を下げてきた。
 まるでお見合いみたいだ。そう可笑しく思ったルカが顔を上げると視線がかちりと繋がった。くすぐったそうに男が微笑んだから、ルカも男と視線を合わせたまま破顔した。
 
 くるり、とほんの少しだけ世界が回ったような気がした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

はなうた、ひらり・2~ダブルラリアット~

閲覧数:171

投稿日:2010/02/04 22:40:05

文字数:3,605文字

カテゴリ:小説

  • コメント1

  • 関連動画0

  • wanita

    wanita

    ご意見・ご感想

    初めまして。wanitaと申します。
    ダブルラリアットが好きになり、この話にたどり着きました。
    「くるり、とほんの少しだけ世界が回ったような気がした」で、ぐいっと惹かれました。
    続きも楽しみに読み進めていきたいと思います☆

    2010/02/28 03:06:02

オススメ作品

クリップボードにコピーしました