「ふたりでひとつ」なんて言葉を信じられなくなったのはいつだっただろう。
「ねえ」
「うん?」
「そこってどんな感じ?」
「…入ってみればわかるけど」
「それはやだ」
会話は、鏡越しにひそやかに交わされる。
「っていうか、そこって入れるの?」
「二人一度には無理。居場所の交換なら可能かも」
「とか言って私の立ち位置が欲しいだけだったり」
「あ、ばれた?」
「筒抜けですー。レンって意外と表情に出るから」
くすくす、と二人の口から忍び笑いが漏れる。
でもその姿はシンメトリー。同じ姿で笑うから、その笑いがどっちのものかもわからない。
鏡に向かい、少女はにまっと笑みを浮かべた。
「私を欺こうなどと一億年早いのだよ、はっはっは」
少年はそれに対して鏡の中で肩を竦める。
「いや普通にリンは騙されやすい方だと思」
ばん!
とんでもない勢いで平手が鏡に激突する。
瞬間、少年はのけ反った…だけに留まらず、勢いに負けたように後ろ(鏡の中にもあればの話だが)に仰向けに倒れた。
平手をかました少女は、もう片方の手を腰に当てて満足そうに息を吐いた。
そして勝利の一言を呟く。
「ざまぁ」
「ざまぁ、じゃ、ねえッ!」
「え、じゃあ…ざまをみなさい!」
「略さず言えってことじゃないからな!?」
「えー?うーん、じゃあ、えーと」
「考えんな」
「感じろと?」
「全力で違うし!ああもう、なんで俺こいつの鏡像やってんだろう」
「うわぁ失礼だぁ」
つい、と少女が手を伸ばす。
つい、と少年も手を伸ばす。
でもその手が触れ合うことはない。二つの掌は、薄いけれども絶対的な壁を挟んで合わさった。
そして伝わるのは温もりではなく、硝子の冷たさ。
ぴたりと掌の付け根を合わせれば、手の大きさは多少ではあっても違うことが見て取れる。
「そうやって私に何か責任があるみたいに言うのやめてくれる?」
「いや、あるだろ責任」
「なんで」
「わかんねえの?」
二人の視線は交わらない。
ただ、見つめている場所は同じだ。
永遠に触れ合えない掌。
少女は、軽く首を傾げた。
よく梳かれた金髪がさらりと肩から零れる。
「わかんないよ。だって」
私とレンは、こんなに違うじゃない。
ぽろりと空気を震わせた、言葉。
少年は彼女を一瞬驚いたように見つめ―――続いて複雑な顔をした。
安堵、羨望、悲哀の等分に混ざったような表情。それは、今の状態に対する少年の葛藤を非常に分かりやすく表していた。
「リン」
少年の言葉に少女はぴくりと肩を震わせた。どこか焦点の曖昧だった瞳が鏡に映る姿を捉える。
「俺はリンでリンは俺。鏡に写った異性の自分同士なんだよ?違うところなんてないじゃんよ」
優しい言葉。
それを聞いて、少女はかすかに微笑んだ。
そう、その言葉が一番私達を表すのに相応しいのだと信じていた日もあった。
確かに、あった。
でも…
「…そんなの本当じゃないよ、レン」
「……」
「どこが同じなの?特別似てるって言える位に似てるのかな…わかんないよ」
視線をまっすぐ鏡に向ける少女。
その震えるような瞳を見た少年は反射的に口を開く。
でもそこから言葉が流れ出ることはなかった。
しばしの逡巡の後に少年は苦い面持ちで開いた口を閉ざす。何も言えないまま。
そう、もしも「同じ存在」ならばそもそも二人の間に言葉なんて必要としないはずなのだ。
鏡の中の存在。本来なら実像と鏡像は左右逆なだけのそっくりさんの筈。でも、二人はまず外見さえも違う。既にその時点で「完全に同じ」ではあり得ないのは分かり切っている。
だからそう、結論はこうだ。
少なくともわたしとあなたは鏡の関係ではない。
「―――レン」
少女は呼ぶ。
躊躇うようにゆっくりと少年は鏡に凭れかかる。。
少女もそれに合わせてぺたりと鏡にくっ付くが、別に何も起きはしない。
界面が曖昧になるわけでも、その先に行ける訳でもない。その冷たい境界線は、動じる事なくただ淡々とそこに在り続けるだけだ。
物心ついたときから当たり前の関係だった。
当たり前すぎて、時におかしな事だと忘れてしまうほどに当たり前の関係だった。
けして交わることはなく、だからこそ変わらないことを信じていられる。それはとても優しい関係だ。
だからこそ、もしも目の前から相手が消え去ってしまうようなことがあれば。
或は、「向こう」から「こちら」に来てしまうようなことがあれば―――それは、どちらにとっても非常に恐怖を誘う想像だった。
変化なんて、この安定した世界を壊す不確定要素だとしか感じられなかったのだから。
だから少女も少年も、相手の存在に何かの意味を付けようとした。時には自分の存在に何かの意味を付けようとした。
だから、一番変わりにくそうで、一番分かりやすい意味を探した。
もしもこの平衡が崩れる日が来ても、心が常態を保てるように―――依って立てるだけのもっともらしい何かを。
でも結局、どちらも正解なんて知らないままなのだ。
どうして鏡に映るのは自分でない誰かなのか。あまつさえ鏡を挟んで会話なども出来てしまうのか。有り得ないことだ。有り得ないことの筈だ。
だとしても、今こうして成立してしまっているのは否定のしようがない。
「あれだよね。きっと小説とかなら、最後はレンもこっちに来てハッピーエンドなんでしょ?」
「…どうかな。ホラーならリンもこっちに引きずり込まれてジ・エンドかも」
「でも怖くないなぁ、そこレンいるし」
「実際同じ場所に来たらバケモノに見える、って可能性もあるだろ。言葉通じなかったり。あと考えられるのは、」
ぷつりと言葉が切れる。
言わなくても続きはわかる。
最後の可能性は、引き離されてしまうことだ。このまま。鏡を挟んで、触れ合うことも出来ないまま。
暫く沈黙が続く。
それを破ったのは、少女のため息だった。
「恋、じゃあないと思うんだけど」
「うん」
優しく少年が相槌をうつ。
それに笑んで、少女は続けた。
「でも恋みたいな」
「うん」
「ね」
「多分私レンがいなくなったら死んじゃう」
「多分俺もリンがいなくなったら死ぬかな」
「誰よりも好きだよ」
「俺だってそうだよ」
「でもたまに嫌にもなるの」
「うん、近すぎるのかもな」
「出て来て欲しいなあ、こっちに」
「いやいやそれは無理な相談だろ」
「駄目?」
「だーめ」
「じゃ今日のブリオッシュ全部もーらいっ」
「は!?あ、ちょ、おま、卑怯だぞそれ!」
「卑怯じゃありませーん」
「明らかに卑怯ですよ?」
鏡を挟んでの軽いやり取りは、端から見ればパントマイムでもしているように見える。
不毛な一人遊び。
もしも本当に二人が鏡合わせなら、そうとも言えるのかも知れない。
「れーん」
「うん?」
ぱすん、と鏡を手の甲で叩いて、少女は笑った。
「勝手にどっか行ったら許さないから」
一泊遅れ、少年も吹き出す。
「大丈夫、俺だって普通に命は惜しい」
「私のジョセフィーヌが火を噴くわよ」
「火…それは多分故障じゃないかなー」
「大丈夫、何度でも蘇るから」
「お前の愛機は不死鳥なのか」
触れた先から温もりが伝わることなんてない。
肌の柔らかさも、髪の感触も、決して知ることは無いのだろう。
相手をそこに居るものとして認識できるのは、この目とこの耳だけ。
それはどれだけ不確かな平衡状態だろう。
―――それでも平気だ、と思う自分がいる。
もしもこの絆が断たれても、きっとまた見つけ出すことが出来る。
もしかしたら夢の中や物語の中に見つけ出す、なんてことにもなるのかもしれない。でも、絶対に断たれたままにはならない。絶対に。
相手も同じように思っているのも、分かっている。
それでも、
(変わることが怖いと思うなんて、臆病者なのかな)
(絶対に大丈夫だって分かっているけど)
(訂正。思っているけど。感じているけど。信じているけど)
(それでも、千に一つか万に一つを怖がる自分が確かにいる)
(ずっとそこで笑っていてほしい)
(ずっとそこで言葉を紡いでいてほしい)
(側に来てほしいとか、側に行きたいとか、考えない訳じゃない)
(でもそれだって、そう、変化には違いないんだ)
(ああどうか、このまま変わらないでいて。お願いします)
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@片隅
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