授業が終わり、クミはいそいそとカバンに教科書やノートを詰め込んでいた。
放課後は美術部で部活動がある。夏休みに行われる同人誌即売会DO・SAN・COに配布する為の作品作りが佳境に入り、部員達、特にイラストを受け持つクミは大忙しだった。実際には日数にまだ余裕があるのだが、期末試験などが控えている為、スケジュール前倒しで作業を行っているからである。クミの担当は表紙絵、挿絵数点、デザイン上のレイアウトなど15点に及んだ。
同人誌の内容は、ボーカロイド初音ミクが題材の小説とイラストの小冊子。
よくある製本などは部員達にとっては未知の産物。したがってPC出力の綴じ込み本、いわゆるコピー本という形を選んだ。
クミにしてみればマンガやイラストっぽい作品を描くのは初めてだった。だが、それが功を奏したのだろう、個性的で味わい深いイラストが描けて、部員達に評判がすこぶる良い。
クミは今まで、誰にもイラストを殆ど見せた事が無かった。
誰に見せる訳でもない絵を描き続けていたのだが、人に見てもらい感想を貰う事がこんなにも気分を弾ませる事だとは知らなかったのだ。
「良さ身が深まるイラストですぞ!」
「ブヒっ! なまらめんこいミクさんでヤンす!」
「ふふっ・・・俺の目に狂いは無かった」
彼等の感想は簡単な言葉だったのだが、クミにとっては花束を受け取るよりも嬉しい事であった。部屋や部室でイラストを描く時も、書生、ヤンス、俺氏の言葉を心の中で何度も反芻し身を奮い立たせる。そして、心を込めて鉛筆を走らせ、筆を躍らせた。同時に、頭の中で流れるのはこの部室で初めて聞いたボーカロイド曲『ミラクルペイント』。クミにとって現在、この曲はより一層、身近に感じられるものになっていった。
「ねえ、クミさん」
クミがカバンのラッチを閉めた時、横から声がかかる。
クミが振り向くと、そこには涼しげな瞳をした髪の長い美少女が立っていた。
「い、委員長さん・・・?」
長い髪の美少女は、このクラスの委員長であった。クラスのリーダー的存在で、男子は勿論、気遣い上手で女子からも人気が高い。見た目が地味なクミにしてみれば天上人の様な存在だ。そんな存在である彼女から声がかかったのだ。クミは思わず身を強ばらせる。
「あのね、クミさん。今度クラスの皆でカラオケにでも行こうって話になって、今度の日曜日とかどうかなって?」
クラスの皆でカラオケ・・・大人しい性格のクミにとっては地獄のイベントである。
隣の人に気を使い、何か話題を探しながら会話し、マイクが突如巡ってくる・・・。
考えただけで油汗が滲むのだが、ちょうど今度の日曜日は、美術部で制作中の同人誌の追い込みである。言い訳するのには丁度良い都合であった。
「ご、ごめんなさい! その日は部活があって・・・」
「ふうん、そうなんだ・・・残念。そういえばクミさんの部活、何だっけ?」
「えっと・・・美術部です。はい・・・」
「美術部! そこってさ、俺氏君っているよね!」
委員長は身を乗り出してクミを見つめる。
「俺氏―――君・・・」
『君』という呼び方が気になったが、クミは頷く。
「あたしね! 俺氏君と昔からず―っと一緒だったの。近所で幼馴染ってやつ」
クミは相槌をし、愛想笑いを浮かべるが、委員長の「昔からず―っと一緒」という言葉が更に気になる。だが今は急いで部活に向かわなくてはならない。今日は部室の鍵当番。職員室に行かなくてはならないからだ。きっと書生もヤンスも美術室の前で待っている筈。
「あ・・・あのっ! ごめんなさい、私ちょっと急いでて―――」
クミはスケッチブックを小脇に抱えようとした時、委員長と手がぶつかり、スケッチブックは広がりながら床に落ちた。丁度、初音ミクの完成したイラストのページが開いてしまい、委員長の目に入った。
「これってさ―――」
委員長が声をかけるが、クミはイラストを見られた毛恥ずかしさからスケッチブックを速やかに閉じ「ご、ゴメンなさい! 急いでるので・・・」と言い捨てるように教室を小走りで出た。
その後姿を見つめながら委員長が呟く。
「アレって・・・初音ミクだよね。俺氏君が好きなヤツ・・・」
委員長の口元は、少しばかり強ばっていた。そして小さな声で呟く。
「ちょっとイラつくかも・・・ふん」
先ほどまでの涼しげな委員長の瞳は消え去り、険を帯びた視線を、クミの後姿に送っていた。
クミは職員室に向かい、鍵を受け取り美術室に急ぎ足で向かった。
「ご、ごめんなさいっ! 遅くなって」
ずれたメガネを直し、クミは申し訳ない表情を浮かべる。
美術部の前に、既に書生とヤンスが何やら興奮気味で話しこんでいた。
「こ、これはまた歴史に名を残す名曲が―――っ!!」
「クミさん! 大変でヤンす!! オスター様がまた新曲を―――!!」
「ほんとっ! 今観れますか?」
「勿論である。書生が例によって、こっそりPCを持ってきてる故」
「さっそく鑑賞会でヤンす! 今度はナース服のミクさんでヤンす!!」
この時期、毎日の様に名だたるボカロP達が、ワクワクする動画を世に送り出していた。そして憧れや、楽しさを共有できる仲間達がいる。
クミと部員達は、そんな輝きの様な毎日を享受していたのである。
非常口と自動販売機の明かりだけが灯る暗いロビー。
消毒薬の香りが、病院であることを忘れさせてはくれない。
白髪頭の書生と、白い顎鬚を貯えたヤンスが、病院のロビー室で座り込み、昔話をしながら気を紛らわせていた。
「俺氏さん突然、同人イベントに出店するなんて言い出してね・・・」
「あの人、絵も描けない、文章も書けない人でしたが・・・プロデューサー気質でしたからね。書生さん、覚えてますかな? あの頃、ちょうどオスターさんの新曲、恋色病・・・うん?」
ヤンスは耳を澄ます。遠くに何か感じたのだ。
ずずうぅ―――ん・・・。
「・・・ヤンスさん。何か聞こえませんでしたかな?」
ずずうううぅ―――ん・・・。
「・・・ええ、書生さん。何か地響きの様な―――」
地響きは止み、背後から恐ろしげな声が響く。
「あなた達。ご家族以外は―――この時間、他の入院患者に迷惑です!」
書生とヤンスが振り向くと、山の様な巨躯のナースが立っていた。
「うひゃぁぁぁ~~~~っ!!」
2人は思わず抱き合いながら声を上げた。
巨躯なナースは口元に人差し指を立て「し―――・・・」と、沈黙を強く求めた。
ナースはいかにもベテランの域に達する・・・と言うより、定年も越えた熟達の域だろう。おそらく書生やヤンスと同じ位の年齢に見える。
「今日はお帰り下さい。外もほら」
ナースがガラスの向こうの外を指差す。白い綿切れの様な雪が、降り始めていた。
書生とヤンスは抱きついたまま頭を下げた。
「ど、どうもすみません」
それを聞き届けると、ナースは「・・・ふん」と息を溢し、背を向け、再び地響きを起こしながらそこから立ち去る。
2人は身体を離し、身支度を整える。クミに一言伝えてから立ち去ろうと書生が振り向くと、今度は女の子が立っていた。
2人はゆっくりと頷き、書生は女の子に言った。
「君は・・・リンちゃんだね」
リンはこくりと頷き、2人に温かい缶コーヒーを渡す。
「これ、ばあちゃんが渡してって」
ミルク入りのカフェオレを受け取ると、リンはポケットに忍ばせていた自分が飲むコーヒーを出す。
書生が駐車場に止めた車を取りに行く間、ヤンスとリンは病院の玄関先でコーヒーをすすった。外は暗く、外灯の明かりが降りしきる雪を照らす。
無音の夜、コーヒーのすする音が途切れた時、リンはヤンスに尋ねた。
「・・・じいちゃん、なんで初音ミクが見たいなんて言ったんだろう?」
ヤンスは苦笑いし、リンに答えた。
「うん・・・初音ミクはね、私達の青春だったんだよ」
「初音ミクが?」
リンは怪訝な表情だ。もちろん初音ミクくらいは知っている。
現在、初音ミクはボーカロイドの枠を跳び越し、家電ロボット音声カイダンスや、医療の為に人口声帯にまで及んでいる。
最近のキャッチコピーなどはこうだ。
『もうすぐ還暦! だけどもまだまだ16歳!』―――である。
ヤンスはコーヒー缶を手の平に大事そうに包み、その温もりを感じていた。
そしてリンに語る。
「・・・うん、初音ミクは私達の憧れだんったんだよ。そして・・・」
「・・・そして?」
「クミさんは―――名の知れた”初音ミク”だったのだから」
「はあ?」
リンは意味不明なヤンスの言葉に、大いに首をかしげた。
そして彼は、クミと初音ミクとの関わりを話し始めるのだった。
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