今日という日も、いつも通りありふれた朝を迎える筈だった。
しかし、目覚めと共に何気なく覗いたPDAに届いていた、一件のメール。
それが、ありふれた朝を非日常のものへと変貌させた。
メールの中身は、一件の動画と僅かな言葉が綴られた文章。
文章を先に目にした俺は、見れば分かる、という言葉のせいか、動画への興味が注がれ、迷うことなくその動画を再生した。
そのとき、大体の予想がついていた送り主のことは、もはや意識から抜け落ちていた。
しかし、再生が始まり、最初の一瞬から、俺の思考が凍りついた。
そこに映っていたのは、同業者であり、数日前に海外出張という知らせが届いたはずの、和出明介の姿だった。
彼は、いつものカジュアルな格好ではなく、ビジネススーツの上から白衣を纏っていた。
そして、何処かの施設のような場所をいつも来ている場所のように悠々と歩いていく。
その映像は一度途切れると、次にとある機械類が並べられたモニタールームのような場所へ移った。
そこにも、彼の姿。それともう一人、メガネをかけた若い研究員。
間違いなく、網走博貴博士の姿だった。
そして次の瞬間、明介は俺の想像を絶する行動に出たのだ。
明介の姿が一瞬で博士の目の前に出現し、それと同時に、明介の拳が、博士の懐に深く食い込んでいた。
ぐらりと傾き、床に倒れる博士の体。
博士が完全に気絶したことを確認した明介は、ホログラムモニターの前のコンピューターを操作し始め、数分後、何事も無かったかのように部屋を後にした。
ここまでの映像だけでも、俺はこの動画と自分の目を疑っていたが、動画はそこで終わってはいなかった。
明介は、更に信じがたい行動に及んでいた。
不気味な生き物がホルマリン漬けにされたものが並ぶ、とある研究室にて、隠し持っていた拳銃でその場にいた研究員を脅し、命令し、床に伏せさせ、重要なものを保存庫から持ち出し、立ち去った。
最後には、肩に赤い何かを抱えた彼の背中が、通路の奥に映っていた。
そこで、映像は途切れたのだ。
そこから、今日という日はおかしくなっていた。いや、狂い始めていた。
まさに、あってはならなかった筈の、最悪の事態である。
無論、この異常な映像がメールとなって俺の元に届いたとなれば、これだけで済むはずがないということは、火を見るより明らかである。
例の動画の送り主、初音ミクオ・・・・・・。
彼は今、俺の目の前で、雑音さんにあの映像の一部始終を、手取り足取り説明しようとしている。
理由はどうあれ、俺には考えるより先に「止めろ」という思考が用意されていた。
俺は雑音さんに向かって暢気に歩いていくミクオの肩を掴んだ。
「何するんですか?」
「貴様、正気か?そんなことをして何になる!」
そのやり取りを見逃す筈は無く、雑音さんはさっとこちらを視線で捉え、怪訝そうに視線を送っている。その右手は、ネルをかばっている。
「敏弘さん・・・・・・どうした?」
「あぁ、いや、なんでもない。」
この言葉は使ったときに限って信頼性が薄い。
明らかに大事なことを、知られまいと隠す言葉として使われることもあるのだから。
当然雑音さんも信用しなかったのか、その場に足を止めている。
ただ、ミクオがいるせいか、それ以上踏み出そうとはしない。
この前の騒動から丁度三ヶ月経つが、未だにミクオのことを警戒している。
「ぜんぜん、なんでもなくないですよ。雑音さん!」
「黙れ。」
言葉を重ねるごとに、雑音さんの興味を引いてしまう。
「博貴さんのことでちょっと・・・・・・。」
「えっ・・・・・・?」
「博貴さんですけど、もしかしたら・・・・・・。」
「黙れと・・・言っている・・・!」
彼の名は、完全に雑音さんの興味を引いた。
「いいの?雑音・・・・・・。」
「博貴の事だって言うから・・・・・・。」
一歩、また一歩と近づいてくる。
ダメだ。彼の話を雑音さんが聞いたらどうなるか・・・・・・。
「雑音さん!」
俺は、今まで彼女に向けたことの無い顔で、雑音さんをにらみつけた。
流石に、雑音さんもそこで足を止めた。
「先に調教室に行きなさい。」
「え・・・・・・でも・・・・・・。」
「行きなさい!」
語調を強くすると、雑音さんは不安げな表情で、ネルと共に調教室へと向かっていった。
まずい・・・・・・。
一度は遠ざけたものの、あの様子ではあとで質問攻めに会うだろう。
「ミクオ・・・・・・何故雑音さんに知らせる。そんなことをしてどうなる?!」
しかし、俺は先ずミクオに問い詰めた。
「だって、良く考えてくださいよ。あの様子だと、もしかしたら博貴さんは、帰ってこないかもしれないじゃないですか。」
ミクオはあっさりと最悪の発言をする。
だが、その可能性はゼロではない。むしろ高いほうなのだ。
あの映像を見る限り、明らかに刑事事件であり、大事件に発展する可能性もある。
博貴博士と、もう一人の研究員。この二人を人質に取り、クリプトンか、或いはそれに関係した何かと交渉するつもりなのか。
もし警察などに知られなどして、殺害してしまう可能性は大いにある。
しかし・・・・・・。
「だからなんだというんだ。余計なことはするな!」
「だから、ですよ。」
「何?」
「雑音さんは博貴博士の大切な人。その逆でもあります。事情を知っておくぐらい構わないでしょう?」
そう言ってミクオはまた笑みを浮かべる。
言葉とは似て非なる、黒く禍々しい企みを瞳の奥に隠し持っているような気がしてならない。
ミクオには、俺にあえて話していないことがあるはずだ。
「さ、もういいでしょう。離してください。」
俺は、ミクオの肩から掴んでいた手を離した。
ミクオには何を言っても無駄だ。
こいつの行動全てを、俺は監視していられる訳ではない。
そしてミクオは、自分の気の向くままに行動する。
何者でもミクオの行動を制御することは不可能に近い。
しかし、あのことを雑音さんに話すことは、予測できない事態を招く可能性がある。絶対にそれは避けたい。
「まぁまぁ、そんなに睨まないでくださいよ。大丈夫です。大事にはいたしません。貴方に約束します。」
「・・・・・・どういうつもりか知らないが、余計なことをしたら許さん。」
「だーかーら、大丈夫ですって。それじゃ、僕は畏月さんの所に調教に行きますので。」
それだけ言い残し、ミクオは俺に背を向けた。
「絶対に、妙なマネはするなよ!」
俺はミクオの背中に、それ以上の言葉をかけることは出来なかった。
「貴方も・・・・・・くどいお人ですね・・・・・・。」
ミクオは俺の前から去っていった。
今日という日は何という日であろうか。
そうだ。あのメールのおかげで、起床早々から頭を悩ませていた。
そして、そんな俺に追い討ちをかけるような、ミクオの行動・・・・・・。
本当に朝から悩ましいことばかりだ。
そして、このあとまでも。
ミクオが何かしでかさぬよう、祈るばかりだ。
それに俺は、少し落ち着いたほうがよいかもしれない。
ソファーに腰を下ろし、ズボンのポケットに手を入れる。だがそこにはいつもの硬い紙の感触は無かった。
煙草を切らしたままだった・・・・・・。
ああ、今日という日は煙草で一服することも出来ないのか。
まさに厄日だ。
ミクオを止めることも、煙草を吸うことも諦めた俺は、その足で、雑音さんとネルが待つ調教室へと向かっていった。
次に待つのは、雑音さんの質問攻め・・・・・・。
本当に、今日という日は、運が悪い。
何も分からなかった。
いや、話してくれなかったんだ。敏弘さんは。
気にしなくていいとか、大したことじゃないとか、わたしがいくら訊ねても、それしか言ってくれなかった。だから、仕方なく諦めた。
でも・・・・・・。
確かに聞こえたんだ。博貴って。
そう、ミクオが言っていた。
博貴は、もう三ヶ月も家に帰ってきてない・・・・・・どこでどうしてるか全く分からない。
もしかしたら、博貴になにかあったんじゃないかって、思うんだ。
それで、どこに博貴がいるのか、今どうしているのか、ミクオは知ってるのかも・・・・・・。
敏弘さんは、ミクオには近づくなといっていたけど、一応聞いてみたい。
嘘なら、嘘だって分かる。
今日は会えなかったけど、明日もう一度会いに行けば・・・・・・。
知りたい。今、博貴がどこでどうしているのかを。
それに・・・・・・博貴に何かあったら・・・・・・わたしは・・・・・・。
ミクオの言いかけたことが気になって眠れない。
充電器のケーブルはちゃんと繋がってるのに。
ネルに相談しても、あんなヤツの言うこと、気にすることないって言ったけど・・・・・・。
でも、気になるのはしょうがない。
だから、眠れない。ネルは先に眠ってしまった。
どうしても目が開いてしまう・・・・・・あのミクオの話そうとしていたことが気になって。
しょうがないから、わたしはネルを起こさないように、そっとベッドから起き上がった。
牛乳でも飲もう・・・・・・。
階段を、降りて一階に行くと、リビングから灯りがもれていた。
それは、月の光。
なんて明るいんだ・・・・・・。
わたしは電気をつけずにリビングに歩いていった。
その中に入っても、そのままふらふらと冷蔵庫の前に歩いていった。
「・・・・・・?」
何か音がした・・・・・・。
キィ・・・・・・という。
何だろう。
わたしは、音のした方向へ、ゆっくりと顔を向けていった。
・・・・・・?
・・・・・・・・・・・・?
・・・・・・えっ・・・・・・?
・・・・・・どうして・・・・・・?
それは、突然のこと。
体が震えるのが分かる。声を出そうとしても、口が動かない。
今・・・・・・わたしの目の前にあるものが、わたしには分からなくて、いや、分かるんだけど、どうして、こんなところにいるのか、意味が分からなくて・・・・・・。
どうして・・・・・・。
どうして・・・・・・。
どうして・・・・・・ここに・・・・・・。
「やぁ。こんばんは。雑音さん。」
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