「うわあ。うわあうわあ。ありえねえ。ありえないですってこの数字」
たった今カイト先生から返却された模試の結果を見て、俺は苦々しく呟いた。
「ありえないなんてことはありえないんだよ鏡音。つうか明らかにお前のこれは数学が足を引っ張り過ぎだ」
「はあ。そっすね。さよなら先生」
「おいおい本当に分かってんのか。…まあいい。次のやつ呼んだら帰っていいぞ。気をつけて帰れよ」
「うぃっす」
後ろに向けて手をひらひら振りながら廊下を歩く。
K大D判定という文字をいくら睨み付けてみても、そのDはAに変わらない。
「うはー…。数学ヤバいなこれ。こんな偏差値この世に存在するんだな…うわなんかガチでへこむ。ヤバいヤバい」
ありえないなんてことはありえないか。いやまさしくその通りだわ。
「「なんかもうマジでどうしよう…」」
「ん?」
「え?」
不意に声がハモったので振り向くと、クラスメイトの鏡音リンが目を丸くして立っていた。
「なんだリンかよ」
「なんだとはなによ…はあ」
「人の顔見てため息吐くなばか」
「うるさいアホ。今へこんでるの。なのにあんたの顔見ちゃったの。この残念な気持ち…伝わる?」
「知らねえよアホ。叩かれたいか」
きゃー暴力はんたーい。真顔でそう言って、リンはこっちに近寄ってきた。なんとなく、二人で廊下の窓枠にもたれかかる。
「お前もあれか。模試の結果にへこんでた口か」
窓から顔を出してぼんやりと雲を見ながら尋ねる。
「まあねー…」
そう答えるリンの声はやはりどこか暗い。
「なかーま」
なんとなくハイタッチ。テンションがただ下げるだけのハイタッチになった。
「はー。志望校D判定よ。カイト先生にこんなバカなとこ見せるとか…もー最悪」
「D判か。さらになかーま」
いえーい。やはりテンションの低いハイタッチである。リンの発言で俺のテンションがもっと降下したし。
「もうあれだー!これはあれしかないわ。俺とお前でD判定同盟でも作るしかないわ」
「あは、なにそれ」
ようやくリンは少し笑った。リンの方を見ると、彼女は下を向いてクスクス笑っていた。
「リンちゃんの笑顔かーわい」
「ばーか」
リンはそう言って半歩下がると、顔を上げてこっちを見た。
「あんたって実はいいやつだよね…たまーに」
「『実は』と『たまーに』は余計だっての」
「はっはっは」
サンキューばーか。早口でそう言って、リンは昇降口の方に歩いていった。
「サンキューねえ…」
別に俺はただ好きな女の子の笑顔を見て元気を貰おうとしただけだよ、利己的だろ?
なんとなく何かに言い訳して、俺は教室に向かった。
次の出席番号のやつに模試返却の順番がきたことを告げサムズアップで見送ってから、俺はバッグを掴んで教室を出た。
昇降口まで行くと、そこでさっき別れたばかりの顔を見つけた。
「リン何してんの?」
「ん…んー通行量調査?」
「何言ってんだお前」
「ま、まあいいじゃん!一緒に帰ろ」
ふと思いついたので口走る。
「…俺と帰りたくて待ってたっしょ?」
「…違うし」
「嘘だー?」
「…っ。…もー、そうだよ。ねえ、一緒に帰ろ?」
「え?」
「はずいからこっち見んなばか」
…嘘だー。完全に冗談のノリで言ったのに。嬉しいっつーかビックリなんですけど。いやでもやっぱり嬉しいな。うわ超嬉しい。
「ねえレン…うわなんでそんな超ニヤニヤしてんのキモい!」
「へこむ」
ニヤニヤしながらへこむ俺。シュールう。
「もう」
少し笑って、リンは歩き出した。俺もそれに並んで歩き始めた。
「ねえ、レンはさ。何かやりたいことがあって大学目指してるの?」
それは唐突な問いだった。綺麗な夕暮れがあたりをぼんやりと赤く照らしていて、川を流れる水はキラキラと光っていた。
「…なんだよ、どうした」
「ん、なんとなく」
リンはそう言ってなんでもなさそうに笑ったけど、その声と表情から真剣な問いだと思った。
「…あるよ。やりたいこと」
「そっか…やっぱあるんだ」
「やっぱってなんだよ」
だってさ、とリンは言う。穏やかに。そう装うように。
「同じD判定って言っても、私のは偏差値50ちょっとの私大で、レンのは偏差値65の国立大だよ。数学の偏差値だってレンはダメだって言うけど、私よりずっと上じゃん」
この差はなんなのかなぁって。考えちゃってさ。足元を見ながらリンはそう言う。
「で、目標のあるなしじゃないかと」
「…ん」
小さくリンは頷いた。
「そっか」
「……」
俺はよく考えてから、自分の考えをリンに話し始める。
「たしかに、目標があると勉強のモチベーションになるよ」
「……」
あえてリンの表情は確認しないで続ける。
「ぶっちゃけていいすか」
「え?」
リンの視線を頬に感じる。
「俺のな、大学でのやりたいことなんてのは正直二番目にできた目標なんだよ。最初の目標はな、不純だ、超不純」
「そうなの?」
「ああ。…聞きたい?」
リンは軽く頷いた。
「俺な…高一ん時好きな女の子いたの。その子とは仲良くて、テスト前は一緒に勉強したりしてたんだよ」
リンに向かって話すのが恥ずかしいので、ひたすら川の方を見ながら話し続ける。
「んで、ある日のそいつとの学校でのテスト勉強でさ。そいつに聞かれたんだけどどうしても分かんない問題があったんだよ。そん時にさ、カイト先生が通りかかって…先生はあっさり解いちゃってな」
今でも思い出すと少しプライドとか、なんか傷つく。
「その子はそん時からカイト先生を大好きになっちゃって。俺はそん時その問題解けなかったのが本気で悔しくてさ」
好きな女の子から頼りにされて。期待に応えられなくて。挙げ句他の男にあっさりこなされてしまう。ヘタレの数え役満だ。
「そっからだったな。本気で勉強にはまりこんだのは」
そして、リンを見る。色々と察したようで、その頬は赤い。夕陽のせいかな。きっと違うな、これは。
「レ…レンは今でも、その女の子が好きなの?」
「ああ。好きだ」
たとえお前が他の男を好きでも。
「好きだ、リン」
今このタイミングで言えないようなら、俺にキンタマは付いてない。
「あのね、レンはね…誤解してるよ」
「ん?」
そういうのいいから返事を。振るなら早く振って。気持ち的にキツい。これ心臓に悪い。
「私ね、カイト先生のこと好きだけどそういう対象として見たことなんて一度もないよ」
返事を…ん?
「私が…キスしたいって意味で好きなのは」
リンが顔を赤くしながら、その先を言う。
「レンだけだよ」
「……」
レン?リンの好きな人ってレン?レンって誰だよそいつ羨ましい妬ましいちくしょう。
…いや俺だよ。レンって俺だよ。
「…なんか言え。ばか」
リンがデコピンしようと手を伸ばす。
その手を掴んで引き寄せて。力の限り抱きしめた。
「…報告します、リンさん」
「…なんでしょう、レンくん」
なんだこの喋り方。でもどっちも突っ込まない。
「信じられないことに、僕たち両思いらしいですよ」
「マジですか」
リンと顔を合わせる。彼女の顔は照れてるのか泣いてるのか笑ってるのかもう分からない。
「マジです」
そう言って俺はリンの唇に自分のそれを重ねた。
肌寒くなり始めた10月後半のある日の夕暮れ、河川敷でのことだった。
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