それからレンは、今まで会えなかった間、手紙を寄越さなかった間のことをつらつらと話した。
毎年冬場には風邪をひいていたが、昨年はひかなかったこと。
以前は低いと悩んでいた背も、この数年で随分伸びたこと――実際、別れた時はリンの方が背が高かったくらいなのだが、今は目線も同じくらいになっていた。
陰間茶屋と言っても案外に女性客も多く、どこそこの華族の召し使いだという女もいたこと。
それらは二人にとって下らないことばかりだった――下らないこと位しか口にすることなど出来なかった、というのもあった――が、それでも会うことが許されなかった長い時間を共有出来ることは、リンにとって幸せだった。
レンの話が終わると、リンも自分自身の話をした。
しかし結局、大切なことを二つ言うことが出来なかった。
一つは神威のこと。
彼はリンにとって初めて、遊郭の中において心を許してしまった人物である。
認めざるを得ないことは分かっているのだ、彼のことを思って身請けの話に否定的な気持ちになるなどと。
廓に来る以前のリンならば、何かあれば全てレンに話をしていた。
誰が自分にとって、また自分たちにとって信頼に足るべき人物であるかは幼いながらも感じとることが出来たし、それを共有することはあの広い屋敷の中で生活するにおいても必要だったからというのもある。
――生まれてから売られるまで、金の苦労もせずのうのうと暮らしてきたとはいえ、その程度の自己防衛は本能的に身に付けていた。
しかし、今回ばかりは言うことが出来なかった。
レンに言ったところで、もしかすれば神威の心を否定されるかも知れないし、仮に共感などされたとしても、どうしようもないことであるのだから。
もう一つは、レンにはこれまでの文でも言うことはなかったし、これからも決して言うことはないだろう。
もしもレンが言ったようにダールベルクという夫妻がリンを身請けしてくれるなら、それも必要がなくなることなのだ。
そうでなくてもリン自身も整理出来ていないことで、それを言葉にすること自体が憚られた。
「あ…悪い、リン。俺、今日はリンにだけ会ったら早く帰るようにって言われてるんだ」
どれくらい経ったか、鐘の音にレンは窓を見た。
鳴ったのは、五ツ時を告げる鐘。
色街の夜にはまだ早いが、宴の引きには丁度良い時刻である。
「そう」
まるで普通の家の少年のように帰宅時刻を気にするレンに、リンは置いて行かれてしまったような複雑な気持ちになる。
しかし当然なのだ、身請けされた今のレンには“家族”がいるのだから。
少しばかり目を伏せつつも、客にするように笑んで返事をすると、レンはリンを見据えて静かに言い聞かせるように言った。
「大丈夫だって、俺が絶対にリンのことも出してやるから」
そこに強い意志を感じてリンが泣きそうな顔で頷くと、レンは少女を安心させるように微笑んだ。
二人は暫しそのまま見つめ合っていたが、どちらからともなく視線を外し、帰る支度をする。
レンは必ずまた迎えに来るからと言って立ち上がり、見送りは要らないと言った。
この廓では客を見送るのも仕事のうちであると言っても、今日は構わないと言い放ち戸を開ける。
「少し用があるから」
背中から発された声は思いの外に冷たく、リンは一瞬反論を躊躇した――今まで、レンがこのように有無を言わさぬ声を出したことがあっただろうか。
立ち上がったまま動けないでいたリンに代わり、レンの開いた戸の向こうから声がする。
「だ、だあるべるく様…楼主がお会いしたいと」
丁度、二階番が来たところだったらしい。
普段は呼ばれた部屋に行き雑用を行うのだが、レンを買った男の名前を呼ぶと――きっと、レンがその名前で登楼したのだろう――楼主からの言葉を伝えた。
「…なに?」
しかしレンにはこの呼び出しは予想外であったらしく、訝しげな声をあげる。
今日はリンに会いに来ただけだと言っていたし、まさか今回は楼主と話をしようとは思っていなかったのだろう。
先程言っていた用事が何なのかはリンには分からなかったが、それがある限りはレンも急ぐであろうが。
「お時間はとらせないと申しております、楼主がお客人に会いたいと仰るのは稀なこと――どうか…」
二階番も楼主からきつく言われているのか、拒まれる前にと畳み掛ける。
廓の主の申し出にどうするのかとレンの背中を見つめていると、分かったと静かに低い声がした。
「レン」
「まあ丁度良いし、会ってくる」
思わず名を呼ぶリンに、レンは顔だけ振り向いて笑いかけ、戸を閉めた。
楼主の思惑も分からなければ、レンがあの男に何を言われるのだろうかと不安になるが、リンにはどうすることも出来ない。
ただ、その場に座り込んで俯くだけだった。
店の者について行けば、一階奥のに襖で仕切られた部屋があった。
「失礼します」
先行する男は中の者に断ると、屈んで襖を開ける。
「入れ」
室内から低く深い声がして店の者に促されるままに入ると、文机の前に座っている男と目が合った。
その瞬間、レンは両の目を見開く。
レンのいた茶屋の店主は、いかにも夜の街に精通しているといった風貌の初老の男だった。
それは、どこの茶屋でも遊郭でも同じだと思っていたのだが――明らかに若い。
年齢不詳の外見だが、その表情から二十か三十程度だろうと推測出来る。
誰が見ても楼主には若過ぎるだろうと思う男だが、レンが驚いたのは男があまりに若いから、というだけではなかった。
「アンタ、が…此処の楼主?」
目を見開いたまま茫然と言うレンに、男はその驚愕までを意図し、理解しているのだというように笑んだ。
「そうだよ」
心底楽しそうな目で、狐のように口の端を吊り上げる。
男がこれ程までに感情を表すのは非常に稀なことなのだが、レンにはそのようなことが分かる筈もなかったし、またどうでもよいことだった。
彼にとって考えるべきは楼主の正体であり、男がリンを働かせている人間だということだけだ。
「その様子じゃあ、君は私を覚えているようだね…レンくん。リンはどうしてか――」
「リンは」
可笑しそうに笑いながら姉の名を呼ぶ男に吐き気のような嫌悪感を催し、レンは男の言葉を遮るように言おうとした。
“リンは俺が連れて行く”と。
しかし楼主はレンの言葉を更に遮ると、先程までとは打って変わって感情の一切篭らない目をして、口だけ歪めて言った。
「リンは、売らないよ」
それは自嘲にも似た、底冷えのする声で。
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