通された居間もまた、随分と広かった。床に敷き詰められた畳の枚数は二十枚程。激しさを増す雨粒が縁側と部屋を隔てる硝子戸に当たり、単調な音色を奏でている。暖簾(のれん)で仕切られた隣の部屋は、台所のようだ。ちゃぶ台や座布団など、必要最低限の家具しか設置されていない事が殺風景さを醸し出し、より部屋を広く感じさせた。
「本当に広いですねぇ…」
流架は呆れたような声を漏らした。実際、この家の広さに大分呆れていたのだが。
「うむ。恥ずかしながら、あまりに広すぎるので良く使う部屋以外は然程掃除しておらんのだ」
「こんなに広いのに、二人だけで住んでるんですか?」
ぴくっ、と、楽歩とぐみの眉が僅かに動く。だが、それは刹那の出来事だったので、部屋を見回すのに夢中だった流架は気づく事が出来なかった。
「まあ、な。昔はそうでもなかったが…」
楽歩の声が、陰る。漸く異変を感じ取った流架が振り返るより早く、ぐみが、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、ボクは流架さんの着替えと布団を用意してくるから」
部屋を去る際、得意げにピースサインをしてから、ぐみは襖を閉めた。途端に静かになった空間に、雨音だけが木霊する。
息が詰まりそうな静寂の中で、流架と楽歩は互いに顔を見合わせたまま、動けずにいた。流架は、先程の発言があまり良いものではなかったかもしれないと気まずくなり、楽歩は楽歩で、そんな流架を見て客人に気を使わせてしまったと内心で頭を抱えている。二人共、この沈黙を打破する為に話をふろうとするが、中々言葉が見つからないのだ。
「る…流架殿…」
そうして一分程続いた静寂も、突如響いた低い声音に敢え無く掻き消された。
先に口火を切ったのは、楽歩だった。
「その…すまなかった流架殿…突然不躾な頼み事をして…」
視線をうろうろとさ迷わせながらも、必死に次の言葉を探している。流架と同じで、耳が痛い程の沈黙に耐えられなくなり、何とか会話を繋げようとしているのだろう。
堪えきれず、流架はぷっと吹き出した。
急に笑い出した流架に、楽歩はきょとんと目を見開き、流架を見る。
「自分の家なのに、何縮こまってるんですか」
恐縮したいのはこっちなのに、家の住人である楽歩がおどおどしている。それが可笑しくて可笑しくて、流架は人様の家で感じる息苦しさも忘れて、くすくすと忍び笑いを溢した。
流石に、そこまで笑われると恥ずかしいのだろう。楽歩は恥ずかしさと少しの悔しさに、むぅ、と唇を尖らせた。
「笑わないでくれ…女子(おなご)を家に泊めるのは、ぐみ以来だから…」
「どういう意味ですか?」
目元の涙を拭い、流架は楽歩を見る。あの少女は楽歩の妹の筈なのに、『泊める』なんて他人行儀な。
それじゃあ二人はまるで…。
「……実は、我とぐみは兄妹でも何でもない。赤の他人同士なのだ」
再び、居間が静寂に包まれた。即座に膨れ上がった懸念と疑問が流架の喉に集まり、我先にと飛び出していこうとする。
「だ…だったら何で一緒に住んで…」
慎重に言葉を選び、やっとの事で絞り出した声は、掠れていた。
「ぐみは…唯一の家族である母親に…捨てられたと言っていた」
雨音に掻き消される事無くしっかり届いた楽歩の台詞に、流架の言葉の続きは喉につっかえてしまった。
「半年くらい前だったかな…あの日もちょうど今日と同じように雨が降っていた…」
楽歩は遠い記憶の紐を解くように、スッ、と目を細めた。
「吐く息も白くなるような雨の夜に、傘もささずに家の前で蹲っていたのだ。黄緑色の髪の、くすんだ目をした女子が」
足を抱え込み、塀に体を預けた彼女。濁った空から滴る涙のような雨が、彼女の体を伝い、温もりを奪っていた。
死にたい、と。
死んでもいい、と。
暗く澱(よど)んだ瞳が、そう訴えていた。
「……同じ目をしていたのだ」
ゆらゆら揺れる水面を覗き込んだ時に映った、長い紫色の髪の少年と。
「だから、家に連れて帰った。初めは嫌がっていたが、無理矢理な。その後、四十度の高熱を出したぐみを三日三晩看病させられる羽目になったが」
無理もない。
もう十一月になろうと言うのに、彼女は氷のように冷たく、刺すように降る夜の雨に、長時間当たっていたのだから。
「漸く熱も引いた四日目の朝、意識もはっきりしてきたぐみはこう言ったのだ。『あなたはなんでボクを助けたの?』と」
放っておいてくれれば良かったのに。
ぽたりと布団にしみ込んだ雫が、そう語っていた。
「だから我は言ってやった。『そんな顔をする者には教えれん』とな」
教えて欲しければ、笑えばいい。
悔しければ、幸せになればいい。
「そう言ったら、また泣き出してしまってな。『ボクは幸せになんかなれっこない』と言って」
『卑怯だよっ…!』
熱は引いた筈の顔を真っ赤に火照らせ、彼女はただただ嗚咽を漏らした。
『ねえ、だったら親に捨てられたボクはどこで生きていけばいいの? 家族の居ないボクはどうやって生きていけばいいの?』
まで、あの時の自分を見ているようだった。
自分の世界を他者に作って貰う事を願う、滑稽な三年前の自分を。
「幸せは与えられるものではない、自分から掴み取っていくものだ。幸せになれないのではない、傷つくのが怖くてお主は只それに背を向けて逃げているだけだ」
こんな簡単な事に気がつくのに、自分も随分時間がかかったが。
「偶然にも、我が家は沢山部屋が空いているから、誰かが住み付いても分からんだろうな。加えてここに、お主と同じような境遇の者が一人居るから、もしかしたら打ち解ける事が出来るかもしれんぞ」
その時、きょとんとした顔で自分を見上げた彼女の瞳に、初めて『光』が宿った。
「と言ったら、また大泣きしてな…。その後はぐみを泣き止むまであやして、栄養をつける為に粥を作って食べさせて、服が無いから急いでぐみの着替えを買いに行って…」
まったく、騒がしい一日だった。なんせ家には和服しか無いし自分は毎日それしか着ていなかったので、女物の服…特に下着を買う時にはかなり迷った記憶がある。序でに言うと、その下着を持って支払いに行くと店員に軽蔑の籠った疑いの眼(まなこ)を向けられ、穴があったら入りたい気分に駆られた記憶もあった。
「確かに我とぐみは血こそ繋がっていないが、我にとってぐみは世界に二人と居ない大切な妹だ」
ぴっちり閉められた襖に目をやり、楽歩は、ふっ、と口元を綻ばせた。
その笑顔は温かくて優しくて、彼がぐみをどれだけ大事に思っているかを悟るには、十分だった。
「……そうですか」
つられるように、流架の口元も緩んだ。経緯は分からないが、楽歩もまた何らかの形で両親を失い、一人だったのだろう。だからこそ、苦しんでいるぐみを放っておけなかった。
一人ぼっちの二人は、二人ぼっちの『家族』になったのだ。
直後、スパーンと音をたて、閉められていた襖が真横にスライドした。
「流架さ~ん! 着替え用意出来たから先にお風呂入ろ?」
手に持つ服を見せびらかすように、ぴっと腕を突き出し、ぐみが満面の笑顔で言った。その目元が、僅かに赤くなっている。
「あ…うん、ありがと」
「じゃあねお兄ちゃん。夕飯よろしく!」
「な!? こらぐみ! 今日の当番はお主だろう!」
流架を引き連れてさっさと退出しようとするぐみの背中に、楽歩が慌てて声を投げかける。
「ボクは流架さんとお風呂入るので忙しいの。それともお兄ちゃんが代わりに入る?」
「ばっ…!?」
「ちょっとぐみちゃん!?」
「冗談だよ。二人共直ぐ本気にする」
顔から火を出しそうな楽歩にぺろっと舌を見せてから、ぐみは同じく顔を紅潮させた流架の背後に素早く回り込み、その背に手を当てる。
「ありがと、“お兄ちゃん”」
未だに顔に熱を宿した流架の背をぐいぐい押して、ぐみは部屋から出て行った。
* * *
ざあっ、と桶の中のお湯を体に滑らせる。ぽたぽたと雫が滴る桃色の髪を軽く絞り、手早くゴムでお団子に結い上げた。
他の部屋に負けず劣らず、浴室も呆れる程の面積だった。石畳の床、桧の壁、教室並みの大きさの浴室に、その半分の面積を占める浴槽。一家族の風呂にしては、立派すぎる。
「いーなぁ流架さん…胸大きくて」
指をくわえたぐみが、じぃ、と流架の胸元に視線を固定している。いきなり投げかけられた唐突すぎる質問に、リアクションに困った流架はぽかんと口を開けた。
「えっと…ぐみちゃんも結構大きいわよ?」
何とか頭から捻り出した台詞で、あまり効き目が無さそうなフォローを入れる。が、純粋なぐみには効果があったようだ。
「そう…?」
「そうよ」
そっかぁ、と自分の真下を見つめて、えへへ、とはにかむぐみ。流架はぐみの見えない所でほっと息を吐いた。
「何か、流架さんってお母さんみたいだね」
「どうして?」
「お兄ちゃんから聞いたでしょ? ボクは捨てられたって」
流架は、言葉を詰まらせた。肯定するのも気が引けて、かといって否定すれば嘘になるので、首を縦にも横にも振れない。結局、流架は逃げるようにぐみから視線を逸らし、俯く事しか出来なかった。
「気なんか使わないでよ。ボクのお母さんはボクを娘だなんて思ってなかったらしいし、ボクだってもう全然愛着無いし」
ちゃぽん、と。温度を確かめるように足だけを湯船の中に差し入れ、ぐみは、ふぅ、と息を吐いた。
「でも、やっぱり…一緒にご飯食べたりとか、一緒にお風呂入ったりとか、一緒に寝たりとか…一度で良いからお母さんとしてみたいなぁって、ずぅっと思ってたんだ」
その瞳は、浴室に立ち込める熱気に体が温まったからなのか、それとも願いの成就に心が温まったからなのか、潤んでいた。
「だから、流架さんとお風呂入れてすっごく嬉しいんだ、ボク」
「ぐみちゃん…」
先程見た楽歩の笑顔と今のぐみの笑顔が、重なる。その顔は、例え二人が兄妹だと言われても違和感が無い程、とても良く似通っていた。
似た者兄妹か…
きっと、この二人の絆は普通の兄妹のそれより強くて固い。一人っ子の流架にとっては、彼らは何だか眩しくて、少し羨ましくて…。
なんて、そんな事をちらりと思いながらも、髪と体を洗い終えた流架は、ぐみと同じように湯船で体を温める為に腰を浮かした。
その時だった。
「あ~いす、溶けてしまいそお~」
ガチャリと入口の扉が開け放たれ、高らかな歌声と共に一人の男子が風呂場に足を踏み入れた。
「好きだな…ん?」
流架の脳が、瞬時にフリーズした。
時間が止まる、とはまさにこういう事を言うのだろう。あまりに予想外な出来事のせいで、流架は何が起こったか理解出来ず、湯煙の向こうの青色を呆然と見つめた。
「え? 何で流架ちゃんがここに?」
時間の経過と共に固まっていた思考回路は徐々に融解され、同時に今自分がどういう状況に置かれているかを把握しようとしてみる。
流架は今、体に何も身につけていない。
やっとの事で事態を把握した刹那、恥ずかしさを塗りつぶす程の膨大な怒りの感情が、流架の全てを支配した。
「You pervert!!」
ほぼ反射的に、流架は傍にあった風呂桶を青い頭目掛けてぶん投げた。
「ぶふぉっ!?」
桧で出来ている為かなりの質量を持ったそれは、ガツッ、と鈍い音をたてて彼の鼻面にクリーンヒットした。その鼻から流れた赤い雫と共に二秒程宙を舞った彼の体は、ガラゴシャアアン!とこれまた派手な音をたてて、石鹸や詰め替え用シャンプーなどが置かれた棚を突き崩した。
「はあ…はぁっ…」
忙しなく肩を上下させながらも、流架は傍にあったタオルを素早く体に巻き付ける。桶を投げるのに全ての体力を使ったので、流架の息は弾んでいた。
何で、このクラスメイトがここに!?
疑問だけが流架の頭をぐるぐると駆け回る。取り敢えず一旦落ち着こうと、流架は大きく息を吸い、吐き出した。
だが、
「何事だ流架殿!?」
混乱する流架に追い打ちをかけるように、招かれざるもう一人の来客が木刀をしっかり握りしめ、風呂場に踊り込んで来たのだ。
さっきの数百倍以上の羞恥の念が、瞬時に流架の体を焼き上げた。
「ggrks!!」
訳の分からない英語を叫びながら、流架はその紫色にも桶を叩き込んだ。
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