彼女の瞼が二、三度瞬いた。
数秒遅れて傾げられた首と、いっぱいにクエスチョンマークを浮かべたようなその表情さえ愛おしい。


「いやいや、人にものを教える仕事をしているキヨテルさん?今が何月か言ってみようか?」
「ええと、六月も終盤に差し掛かる頃ですね」
「良かった。時間の感覚が急激にズレたのかと思った」
「すっかり暑くなってきて扇風機が必須の時期ですから、アイスがとても美味しく感じますよね」
「そこまでしっかり季節を認識しているのに、さっきなんて言ったの?私の聞き間違えかもしれない、ちょっともう一回聞かせてよ」
「僕、サンタクロースになろうと思いま、ちょっと待ってリリィさん拳は無しですって」


飛んできた拳を避け、その腕を掴んでひとまずの攻撃を中断させる。


「この手はなんですかリリィさん」
「いやあ、まだ寝惚けてるのかなって思ったから、一発お見舞いしてあげたらしっかり目も覚めるのかなーって」
「寧ろ先に起きて君の寝顔をゆっくり眺めていたところで、ついさっき君が起きたんじゃないですか」
「今サラッと恥ずかしいこと言ったよね?ねえ今そんなことを聞いている場合じゃないよね」


「ふざけないで」と顔に書いてある彼女をなんとか宥め、二回目の戦いのコングが鳴る前になんとか朝食の準備をして、僕は傷を負うことなくご飯にありつくことができた。
彼女はずっと何か言いたげな視線を此方に寄越していたが、「食事中には喋らない」と彼女が自分に(そして勿論食事に同席する僕にも)ルールを課していることを知っていたので、今日一日の天気予報を伝えるニュースキャスターが映るテレビ以外に、音声を流し続けるものは存在しない。

焼きたてのトーストと少し焦げた卵焼き、そしてやっつけサラダ(不揃いに切り分けられた野菜を見た彼女が命名)を口に運ぶ。
簡単なメニューではあるが、朝食を作るのは僕の担当だ。今日は珍しくすんなりと起きたけど、普段朝の弱い彼女が台所に立つのは、安全の都合上非常に宜しくない。
そして朝食後の後片付けを彼女が行い、その間に僕は出かける準備をして、そのまま職場である小学校へ向かう。
彼女の大学は電車で十五分ほどの距離にあり、僕よりは出かけるまで時間に余裕がある。
もっと遅くまで寝ていてもいいのにと以前伝えたが、おはようを言えないのは困るのだとか。

先に起きた僕が朝食の準備をし、出来上がる頃に目覚める彼女と共にご飯を食べ、出かける準備をしてそのまま出て行く──場合によっては朝の挨拶以外に会話がないこともある。
それでもそんな生活になって三ヶ月、僕らは朝のルールを曲げることはないまま現在に至る。


「ご馳走様。最初の頃よりは料理上手になったよね」
「それでもどうやっても毎回卵を焦がしてしまうので、お世辞にも上手いとは思えないのですが」
「最初の頃よりはって言ったでしょ。今度の休日にでも教えてあげるから、空けておいてよね。…ああ、土曜日の夜は歓迎会に誘われてるんだっけ?」
「ええ、なので申し訳ないのですが、夜ご飯は一緒には食べられないです」
「それはいいけど、お酒弱いのに大丈夫?」
「早く抜けられるようにはしたいんですが…遅くなったらごめんなさい」
「いや、遅くなるのはいいけど、潰れたテルを介抱するほうが大変…」


僕が酔った時のことを思い出しているのか、ため息をつきながらしばらく深刻な顔をした後、ぽつりと独り言のように呟いた。


「早く上手になってほしいのにな」
「料理がですか?」
「…なんでもない!それより、玄関の植木鉢、しばらく水をあげちゃダメだから、そっとしておいて!そこ!如雨露替わりのペットボトルを持たない!」
「ああ、まだダメなんですか?」
「しばらく土に植えて放置!」


つい先日、彼女が花の球根をホームセンターで購入したかと思えば、「花壇がないから植木鉢でなんとか育てよう」と言い出した。
小さなアパートを借りて暮らしている僕らが花壇なんて所有している筈がないのに、どうして突然球根なんて買ってきたのか。
わけもわからないまま水やりの担当を曜日で割り振られ、流されるままにこの植木鉢を見守ることになった。

僕がこの花について解説をされたことで、聞き漏らすことなく覚えたことは二つある。
まず、秋植えの球根をうっかり今植えてしまったが、開花が十一月ごろの花だということ。
そして、この花は切り花にすると長持ちする『ネリネ』という名だということ。



突然理由の説明もなく僕を巻き込むことがある彼女だが、そんな彼女とどうして共に暮らすことになったのか。
僕らが出会ったのは大学のサークルで、新入生の彼女が隣の席に座ったのが話すきっかけだった。
僕はその時大学三年生、先輩としていろいろ教えていくうちに仲良くなった。
その年の冬、三年生が最後に参加する飲み会(未成年にとっては食事会)で、次から次へとお酒を勧められる僕を連れ出したのが彼女だ。


『先程はありがとうございました…かっこ悪いですね、僕』
『断れなかったんでしょ、お酒。氷山先輩はお酒弱いんだから、皆遠慮しなきゃダメなのにね。…おかげで連れ出す口実ができたから、私はいいけど』
『…口実?』


彼女が僕を連れ出したのは僕を見かねたのもあるが、そもそもの目的は僕に告白するためだったらしい。
サークルメンバーとして会えるのはこれが最後だから、今後も会える保証がほしい、と彼女は語った。


『言う相手とタイミングを間違えていませんか』
『今言わなきゃいつ言うのよ。何度でも言うわよ、私は氷山先輩が好き、だから付き合ってほしい』
『僕今若干ながらお酒入っちゃってますけど、万が一僕が何かしたらとか考えなかったんですか』
『氷山先輩そういう人じゃないもの。ずっと側で見てきたからわかる』


二人になってから一緒に暮らし始め、より互いを知ることができた。
苗字から名前へ呼び方が変わり、それに応えるように距離感も近くなっていく。

僕が教師として働くようになってから、彼女は僕に料理を教えてくれるようになった。
生活の仕方も大きく変わり、それでもなるべく一緒にご飯を食べようと彼女は言った。
嫌がらせをしてくる先生がいたら私が文句言ってやるから、と息巻く彼女に支えられた。
彼女のいる生活が当たり前になっていた。彼女との未来を思い描いていた。


だからその診断書を見つけた時、僕はその内容を信じられなかった。
彼女の引き出しの奥深くに隠されていたそれには、彼女がもう長くないことが書かれていた。
息の仕方も忘れ、目の前が暗闇に覆われるような感覚だった。




「リリィさん、なんですかこれ」
「飲み会じゃなかったの?」
「こんなもの見つけたらそれどころじゃないでしょう、それより、どうして僕に教えてくれなかったんですか」
「…見つかっちゃったか」


診断書を机に避け、ソファへ座り彼女を手招く。
観念したような表情で隣に座る彼女。


「重荷になると思ったんだ。たった二年だけど一緒にいて、ようやく夢を叶えたその年に…恋人を亡くしたら、それはどんな悲劇だろうって」
「それでもずっと隠し通せるものじゃないでしょう。いつから知っていたんですか」
「テルが先生になってから。だから料理とか、私が教えられるものは全て伝えるつもりだったし、それが終わりかけたら話すつもりだったの。私がいなくなっても、ひとりで生きられるように」
「残念ですが、僕はそんなに強い人間ではないんですよ」


彼女を引き寄せ、背中に腕を回す。
一瞬その身が怯えたように震え、その感情を乗せた声で彼女が絞り出す。


「テルにはまだ未来があるじゃない。私を忘れて違う人と生きてよ。幸せでいてくれれば、私は何もいらないの」
「ご飯の作り方、好みの映画、上手な写真の撮り方。ふとした動作全てに君の面影を残して、だけどどれだけ探しても君本人は僕の周りから消えてしまう。これから先、どんな方法で生きようと、似通った君の生き方が僕の人生に大きく絡みついてくるんです。リリィさん、ご自分がどれだけ酷なことを言っているのかお分かりですか」


彼女が作ってくれた卵焼きの甘さ、嬉しそうに僕を呼ぶ声、温もりを分け合った夜、…頭をめぐるのは彼女との思い出ばかり。
ふとした日常に彼女を求めて、仄暗い現実との落差に気づいてしまえば、あとは転がり落ちていくだけだ。


「だって…誰に対しても細かく気を配ることができて、どんな相手にも丁寧に受け答えをするテルは、誰よりも優しくて頼りになる人で。そんなテルをこの先ずっと側で支えて生きたい気持ちがある反面、その優しさを私以外の誰にだって向けて欲しくない一方的な願望があって。私はなんて愚かで醜いんだって」
「大切な人の我儘の一つや二つ、僕にとってはどうということはないですよ。変に気を使って遠慮するより、時々困ったことをお願いして、ずっと僕を振り回してください」
「その気持ちを利用してしまえば、優しいテルは私をどんな思いで見ることになるの?可哀想な私のために、無理をしてでも望みを聞き届けてあげようっていうなら、私はそんなの望まない」
「僕はそれでも構わないんですよ」
「私が良くないの。束縛はしたくない、だけどそれでも、私が知らないテルを知っている人が羨ましい。この先どんな風に歳を取っていくのか、私に知る権利はない」


震えた手が伸ばした先、そっと触れた僕の背中に爪が立てられる感触。
僅かに与えられたその痛みは、今彼女が抱えているものの何十分の一程度のものなのだろう。

僕は大丈夫だと伝えても、何度気にしなくていいと言っても、彼女は嫌々をする子供のように首を振って僕を拒む。
ああ、どうして彼女は僕の言うことを聞いてくれないのだろう。
僕の受け持つクラスの生徒たちの方がよっぽど素直でまっすぐだ。

我儘を、要望を、願望を聞き入れることの何がそんなに不満なのだろう。
僕はどんなものだって与えたいのに。


「私が告白しなければ、優しい氷山先輩は誰にも縛られることはなかったのに」
「リリィさん、ちょっと一回離していただけます?爪が当たって…というか多分もうけっこう痕が残ってると思います」
「え、あ、ごめん…なさい。そんなつもりじゃ」


執拗に僕の背中を攻撃していた細い手はすぐに離された。
負い目を感じたのか彼女が身を引こうとしたそのタイミングで、腕を掴んで頭上へ持ち上げ、そのままクッションへと押し付ける。
押し倒した彼女の右腕だけが、重力に従うようにソファから垂れ下がる。


「では、どんなつもりなのか教えていただけますよね。困らせたがりのリリィさん」
「こ、困らせたがり?」
「君の弱気な台詞なんて聞きたくなかったんですよ。その上僕の言葉は全て否定で返されて、じゃあ何が良いか聞いても、君の言葉はまともな返答になっていない。ではいったい君は僕に何をしてほしいんですか?」
「だって、テルを縛り付けたくなんかないから、私は…」
「聞き分けのない子ですね」


顎を捉えて反論を覆い隠すように唇を塞ぐ。
彼女が身をよじろうと、時々唇の端から苦しそうな息が漏れようと、僕はその行為を止めなかった。
数分経った後、離した唇から滴れる微量の唾液を拭い取ると、彼女の視線がどこか気まずそうに逸らされる。


「…はは、こんなに乱暴なキスをする人だったっけ」
「少し落ち着きましたね。無理やりにでも黙らせないと、僕の話は聞いてはくれないだろうと思いまして」
「いいの?教師がこんなことして」
「やだなあ、リリィさんだけにするんですよ。知らないかもしれませんが、僕は最初に目が合った時から、真っ直ぐで純粋な君に憧れていたんですよ。告白こそリリィさんからですけど、僕だって一目惚れした君に、ずっとずっと触れたいと望み続けていたんです」


瞼にそっと口付けて、掴んでいた腕を離してから、そういえばと先日言いそびれたことがあったのを思い出す。


「あのですね、僕が先日サンタクロースになると言ったのは、別に本気で言ったわけではないんですよ」
「え?いきなり何の話…ああ、この間の。そういえば聞くの忘れてたっけか」
「僕らが付き合って二回冬が来ましたけど、お互いにバイトがあったり抜けられない都合があって一緒にいられなかったでしょう。だから今年は絶対に都合を合わせようと思って、今までの分も含めて君だけに何かをしてあげたいと、そういう意味合いで言ったんですよ」
「てっきりそういうバイトでもするのかと思った」
「教師は副業ができませんからね」


互いに乾いた笑いを漏らしながら、だけどもうこれ以上未来の話なんてしなかった。
僕らは結局、たったの一度もクリスマスを共に過ごすことはない。
それが現実。確定した決して抗えない未来。





深夜の静けさが染みる中、隣ですっかり寝息を立てている彼女に反し、僕の頭の中は今日の記憶を再生し続けていた。
世間一般的には、今日の僕らの出来事はただの言い争いに過ぎないだろう。
だけど付き合う前も後もずっと穏やかな暮らしを続けてきた僕らには、きっと最初で最後の大喧嘩になる。
彼女が消えるまであと半年もない。その時、僕は耐えられるのだろうか。
一つのパーツを抜き取るだけで崩れてしまう積み木のように、僕の支えさえ全て崩れ去ってしまうかもしれない。

どうにも眠る気分になれず這い出した布団からは、涼しさを求めてはみ出した彼女の細い足が見えている。
その脛も足の甲も爪先も、いつか歩みを止めて彼女を動けなくするだろう。


「何度も言いますけど、僕は君の我儘に振り回されても全然構わない人間なんですよ。だけど君がそれを望まないのなら、僕は君の視界に入らない場所で付き従い、抗うこともなく君の言うことすべてを聞き、君という存在を崇拝するでしょう」


白い素肌に唇を落とし、夢の中にいる彼女へは決して届かない感情を囁く。

立ち上がって、月明かりの道標を辿って玄関の植木鉢へと足を向ける。
眠る直前、彼女が言ったことが気にかかったのだ。

『玄関の花、きちんと育てないと許さないから。これはどうしてもお願い』

その花に執着する意味がわからず考え込み、先程ようやくネリネの花言葉と別名を思い出した。
彼女は違う人生を歩む世界に生まれたとしても、僕に会う日を楽しみに生きてゆくのだろうか。

この花は、彼女を失うことになる僕への形見だ。
再会を望む花言葉。幸せな思い出。

ネリネの別名──ダイヤモンドリリー。
それは彼女の名を冠する花。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【キヨリリ】砂上のネリネ

最初は花言葉で選んだ花だったのですが、別名を知って「これは絶対にキヨリリだな」と思って書きました。
真冬に咲く花ですが開花はおろか作中で発芽さえしていないのは自分でもどうかと思います!
それはそうと我が家の先生は、毎度キスをしている気がしますね!

タイトルは慣用句「砂上の楼閣」と同名の花から。
お題は診断メーカーから、「病を抱えた女子大生と、自称『サンタクロース』の男、彼らの最初で最後の『大喧嘩』の話」(https://shindanmaker.com/151526)

閲覧数:165

投稿日:2018/06/30 23:25:07

文字数:5,995文字

カテゴリ:小説

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