結局、日曜日は一日ぼんやりとして過ごしてしまった。そして、次の日。月曜になっても、気分は晴れない。
「リン、ちゃんと食べないと駄目よ。昨日もろくに食べてないでしょう?」
 お母さんにそう言われたけれど、わたしは食が進まなかった。お父さんがいないのをいいことに、わたしは朝食を半分以上残して、席を立った。通学鞄を持って、家を出て車に乗る。
 ……考えちゃだめ。考えたらだめ。普通にしていないと。
 しばらくすると、学校についた。校門で車から降りて、校舎へと向かう。その時、声をかけてきた人がいた。
「おはよう、巡音さん」
 ……鏡音君だ。
「あ……おはよう、鏡音君」
 普通にしてなくちゃ。普通に、普通に……。
「週末にあれ見たんだ。巡音さんが貸してくれた『ラ・ボエーム』」
 ……そう言えば貸していたっけ。
「そうなんだ……」
「姉貴が暇だったらしくて一緒に見たんだけど、見ていたら姉貴が怒り出しちゃってすごかったよ。『こんのヘタレ男』って、ロドルフォのことを怒鳴りまくっちゃって。うちの姉貴、感情の起伏が激しいもんだから。何もそんなに怒らなくてもいいと思うんだけどさ」
 鏡音君にもお姉さんがいるんだ。ルカ姉さんみたいな人でも、ハク姉さんみたいな人でもないみたい。……って、わたし、一体何を考えているんだろう。
「…………」
 お父さんはルカ姉さんを成功作だと思っていて、ハク姉さんのことは失敗作だと思っていて。でも……わたしは……。
 だから、いらないことは考えないの。考えたら駄目。とにかく駄目。
「巡音さんはどう思う?」
「……お姉さんのこと?」
「そうじゃなくて、『ラ・ボエーム』のこと」
「プッチーニの代表作の一つよね。彼の作品の中では一番ロマンティックと言われていて、現代でも人気が高いわ」
 確かそうだったはず。
「俺が訊きたいの、そういうのじゃないんだけど」
 鏡音君はそんなことを言い出した。もっと専門的なことが知りたいのだろうか。
「だからさあ、巡音さんは『ラ・ボエーム』をどう思っているわけ?」
 どうって……。あれはオペラだ。十九世紀のオペラ。プッチーニが作った傑作で。
 だから、わたしがどうこう言っていいものじゃないの。
「…………」
「何も評論家みたいなこと言わなくてもいいから。『こんな恋愛してみたい』とか『ミミよりムゼッタの方がすてきだと思う』とか、そんな単純なのでいいんだってば。なんならうちの姉貴みたいに『ロドルフォのヘタレ顔を洗って出直してきやがれ』とかでもさ。なんかないの?」
 言葉が、周りを舞っているような気がする。わたしには、絶対に捕まえられない。
「別に……」
「巡音さんには自分の意見ってものがないの?」
 鋭い声が飛んできた。思わず顔をあげる。正面から目があった。
 自分の意見……?
「そんなこと……訊かないでよ……」
 わたしに意見を求めたりしないで。そんなこと訊いてほしくないの。だって、わたしは……。
「……巡音さん?」
「それに……そんな言い方しないでっ! 言われても困るの! わたしは……わたしはっ……!」
 気がつくと、わたしは叫んでいた。頭がくらくらして、手足が冷たい。
「ちょっと巡音さん、落ち着いて」
 わたしの両肩に、鏡音君の手がかかった。……え? 今、わたし、何をしたの?
 胸の奥がしめつけられるように痛い。痛くて、苦しい。周囲が回っているような気がする。頭上の空がガラスみたいに思える。ああ、あれがきっと落ちてきて、わたしは潰れてしまうんだ。
「ガラスが……」
「巡音さん? ちょっと、巡音さん!?」
 そして、わたしの意識は途切れた。


 気がつくと、保健室のベッドの上だった。
「あれ……?」
「あら、気がついたのね」
 校医の先生がこっちに近づいてきた。
「二年C組の巡音リンさんね。校門のところで貧血を起こして倒れたとかで、同じクラスの男子生徒があなたを運び込んで来たのよ」
「鏡音君が……?」
「そう言えば、そんな名前だったわね。あなたのことを心配していたわよ」
 わたしは、気を失う前のことを思い出した。確か頭の中が真っ白になって、鏡音君の前で大声で叫んでしまったんだ。それも、言っても仕方のないようなことばかり。……どうしよう。
「巡音さん、朝ごはんはちゃんと食べてきたの?」
「……いいえ」
「食事はきちんと取らないと駄目よ。あなたはまだ成長期なんですからね。無理なダイエットなんてしなくていいの」
 先生、ダイエットじゃありません。ただ単に食欲が無かったんです。
「それで、今の気分はどう?」
 わたしは起き上がろうとしたけれど、ひどいめまいのせいで、結局起き上がれなかった。
「めまいがします……」
「今日のところは、無理はしない方がいいかもしれないわね。おうちに連絡を入れておきましょう」
 わたしは先生に自宅の電話番号を告げた。先生が電話をかける声が聞こえてくる。……お母さん、ショックだろうな。無理してでも、食べておけばよかったかも。
 電話を終えた先生が戻って来た。
「巡音さん、お母さんがすぐに迎えに来るそうです。担任の先生には、私から早退すると伝えておきますから」
「……わかりました」
 わたしは保健室のベッドに横になったままで、お母さんが来るのを待った。どれぐらい経過しただろうか。あわただしい足音と共に、お母さんが血相を変えて保健室に飛び込んできた。
「リン!」
 お母さんはわたしが寝ているベッドに駆け寄ってきた。その後で校医の先生に気づいて、慌てて頭を下げる。
「巡音さんのお母さんですね」
 それから先生はわたしの状態について話し、この年頃の女の子は血液が不足しやすいので、栄養バランスの取れた食事を三度食べさせるようにと付け加えた。
 バランスの取れた食事自体は与えてもらっている。食べなかったのはわたしで、お母さんのせいじゃないのに。
「リン、立てそう?」
 わたしはめまいをこらえて、何とか起き上がった。
「ふらつくけど……多分大丈夫」
 家に帰るぐらいなら、何とかなるはず。わたしはお母さんに支えられながら、保健室を出て、迎えの車に乗った。
「……怒らないの?」
 家に帰る途中、車の中で、わたしはお母さんに訊いてみた。
「何を?」
「朝ごはん食べなかったことと、それが原因で倒れて、手間をかけさせたこと」
 お母さんは、何故かため息をついた。
「起きてしまったことは仕方がないから……リン、家に着いたらおかゆを作ってあげるから、それを食べて、今日は横になってなさい」
 わたしは頷いて、目を閉じた。やっぱりまだくらくらする。


 帰宅すると、お母さんは言葉どおりおかゆを作ってくれた。さすがにもう残すわけにはいかない。それを全部食べてから、部屋に戻る。制服を脱いで寝巻きに着替え、わたしはベッドに横になった。
 学校ではお昼休みぐらいの時間になった頃、携帯に着信があった。メールだ。差出人はミクちゃん。「どうしちゃったの? 学校に来てないけど、具合でも悪いの?」と書いてある。……しまった。連絡を入れてなかった。「一度登校したんだけど、貧血で倒れて早退したの。連絡しなくてごめんね」と返信する。すぐに返事が来た。「大丈夫? 無理しちゃダメだからね」と書かれていた。
「ありがとう」とミクちゃんに返信した後で、わたしは鏡音君のことを思い出した。心配させた上に迷惑をかけたわけだし、一言謝っておいた方がいいかもしれない。……でも。
 わたしは鏡音君のメールアドレスを知らない。ミクちゃんも……多分、知らないだろうなあ。ミクオ君なら同じ部活だし、知っているかもしれないけれど……。ミクちゃんに、ミクオ君にそのことを訊いてもらうのも気が引ける。
 ……それに、鏡音君に下手にメールをすると、携帯をチェックされた時に気づかれてしまうかもしれない。お父さんは時々抜き打ちでわたしの携帯を調べるから、見慣れないアドレスへの送信履歴があったら問い詰めるだろう。そうなると、ごまかす自信がない。
 また気分が重くなってきた。わたしはため息を一つつき、鏡音君に連絡することは諦めた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第十一話【冷たくもなく、熱くもない】

 普通はこの状況になったら、後に待っているのはクラッシュだけなんですが……。
 クラッシュされると話がそこで終わってしまうので、無理にかなりの好条件を重ねて、そうならないようにしています。

閲覧数:1,146

投稿日:2011/08/26 19:00:52

文字数:3,354文字

カテゴリ:小説

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