華やいだ楽が奏でる音と、金糸や銀糸を多分に用いた刺繍で縫い取られた煌びやかな衣装、眩い金の屏風に、趣向を凝らした装飾に、贅を尽くした食事の数々。座敷を彩るそれら全てが、どこか作り物めいて、嘘くさく感じるけれど、そこは人々に浮世で或る唯一の極楽と呼ばれる。みくにはもう慣れ親しんだ場所。
部屋中に立ち込める酒気と、ほろ酔いの人々のどこか浮ついた、熱を持った瞳。それらをどこか醒めた瞳で見渡しながら、それを悟られぬように巧妙に長い睫毛を伏せ気味に、唇は笑んだ形で静止させる。上機嫌の人々の笑い声も、酒に酔っての大言も、全て受け止めているようで、右から左へと流れて行くだけのもの。ただみくは、人形のように微笑んで、酌をして、相槌を打っていればいい。それが、今ここで与えられた役割だ。
「初音太夫は、退屈と見える」
低い、腹の奥にぞわりと響くような声が斜め右上の頭上からして、みくは軽く顔を傾けて、上目遣いに隣に座る人物を見上げた。
「とんでもございません、殿。初音は楽しゅうございます」
にっこりと笑ってそう言って見せたらば、相手はみくを見下ろして、何もかも見透かしたような目で、軽く唇の端を上げてみせた。そこに皮肉な色を読み取って、自分の演技も、腹の底さえ見透かされた様な気まずさを覚えて、みくは反射的に、目をそらして視線を畳へと落としてしまった。
この殿は、店一番の上客で、どこぞの一国の殿様だと言う話だった。廓の中では娑婆(しゃば)での身分や規則は無用だから、詳しい事は知らされていなかったけれど、普通では言葉を交わすことさえ畏れ多い人物、という話はあちらこちらから聞こえてきた。
訪れる度に大枚をはたいてくれるこの客は、当然、どなた様よりも大切にすべき客で、しかもみくを目当てに訪れてくれている客であるのだから、大事に扱わなければいけないのであるのに、みくはどうしてもこの殿が苦手で、接する度にぎこちない態度になってしまうのが常だった。それなのに、どこが良いのか毎度毎度、殿は飽きもせずにみくの元へ通ってくる。それはもう、廓中の者が、いや、この花街に住むもの皆が殿はみくに狂っているという噂するくらいに。
「そうか。お前が楽しいというのならば、私は嬉しい」
低く響く声は、見透かしたような顔をしたのは裏腹に、こう答えた。みくは空になったその手の中の杯に、静かにゆっくりと、酒を注いだ。透明な液体が、するすると金の縁取りのある海老茶の杯に満ちて、微かに小刻みに震えていた。みくは自分の動揺がそこに表れているのを知って歯がゆく感じる。
「楽しいのなら、ひとつ、唄ってくれるか?」
「は?」
「唄を」
みくは一瞬躊躇(ためら)って、それから静かに頷いた。
「何の唄にしましょうか」
「恋の唄を一つ」
「仰せのままに」
帯に挿した不必要に煌びやかな扇子に手を伸ばし、ゆっくりと心を落ち着かせる。喉が強張らないように、声が震えないように。頭の中を空っぽにして、何も考えないように。
身を寄せていた殿から離れて、みくが立ち上がると、一座は期待に満ちて、沈黙した。殿の傍らを離れると、少し肩の力が抜けるのを感じた。静々と足を滑らせて座の中央に進み出て、ゆっくりと呼吸を整えると、目を閉じで、澄み渡る声で今一番この花街で流行っているという悲しい恋の唄を歌い始めた。
★・★・★
空が白み始める頃、勤めを終えたみくが部屋に戻ってまず見たものは、頬に大きな引っかき傷と額に青痣を作り、ついでに唇の端から血を流したりんの姿だった。
「どうしたの?」
「どうもしてない」
りんは不貞腐れたような声で答えて、みくの洗顔の水を貰いに行くと、部屋を出てしまった。部屋に残ったはくが苦笑して、しょうがない、というように軽く首を横に振った。
「どうも、るか姐さんの処の子と喧嘩をしたらしくて」
「喧嘩を」
「ねるちゃん、みく姐さんをどうも敵視しているところがあるでしょう? それだから……。おりんちゃんは、売られた喧嘩は買ってしまう質(たち)らしいですし」
「あらまあ」
「でも、名誉の喧嘩なんですよ」
言いながら、はくは含み笑いをした。
「名誉の」
「みく姐さんを侮辱されて買った喧嘩だという噂を他のところから聞きましたから。本人はそんな事、一言も言いやしませんが」
その時、けたたましい音を立てて、りんが障子を開けて入ってきた。いまだ不貞腐れた様子で、険のある瞳をはくに向ける。
「はく姐さん、余計なことを言わないで」
「余計かしら……?」
「余計。あたしは別に、みく姐さんを庇ったとか、そういうのじゃない。ただ、ああいう風に隠れてこそこそ陰口を叩く連中が大っ嫌いなだけ」
腹を立てたようにそう言いながら、湯の入った桶を少々乱暴しぐさではあるが、みくの前に置く。それから、手早く道具入れを探って、化粧(けわい)の落とし粉を取り出した。
手際の良いその調子に、みくは内心で少し感心する。元々が、利発な子なのか、みくの元に来て、はくの元で仕事を習って数日で大抵のことはすんなりとこなしてしまった。
それまで繰り返していたという脱走も、みくの元では不可能と感じたのか、そもそもはじめから薄々それを知っていたのかもしれないが、今のところ、しようとする様子は見受けられない。態度が悪いにしても、そういうことをしなくなっただけでも、廓の主人にはみくは感謝された。みくの「おねだり」を聞いて、りんをみくに付けたのは正解だった、と。みくとしては、最初にひとつ、一喝した以外に何もした覚えはないのだけど。よほど、あの一発が聞いたのか。それとも。
それとも、ここに来て最初の日にみくが言ったあの言葉を信じているのかもしれないけれど。
みくは確かに、りんに対して、ここから出られる可能性を示唆した。言葉では「いいえ」と否定はしたけれど、表情で、声色で、確かにそれを示唆したのだ。
自分に従えば、もしかしたら、と……。
⇒第三話へ。
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