『怒った顔も、笑った顔も、大好きでした』

           歌詞より






カン、カン、カン、カン、カン。


登る時、その古ぼけた階段はそんな音を響かせる。僕はその音を聞くのが、なかなかどうして好きだ。ちょっとだけリズミカルで、なんか悪くない。


肩に食い込むリュックの肩掛けが小さく弾むのを感じながら、僕は廃ビルの階段を登っていた。


田舎の中でも更に片隅にあるそこは元は商社ビルだったらしいが、今となってはその面影すらない。皆無と言ってよろしい。


僕は週末に、そのビルの屋上にこうして一回は赴く。


星が好きで少しだけ変わっている親友ーー…巡音ルカと天体観測をするためである。


ああ、ついでにもう一つ彼女のプロフィールに付け加えるとすれば。


彼女は幽霊である。


それにしても、今日はいつもより随分と空気が冷えている。鼻から入る空気はツン、と痛いぐらいで、これは今冬の最低気温を更新したかもしれない。天気予報は見たのだが、気温が何度かまでは見るのを忘れていた。


まあ、それは大した問題ではない。


「結局のところ、気温が何度なのかは大した問題じゃなくて、私たちがどう感じるのかが重要なのよ。それはつまり、私は君が側に居さえすればこのぐらいの寒さはどうってことないっていうことなの」


そんな恥ずかしいことを真顔で言われても僕としてはサムい思いをするばかりだし、そもそも君は幽霊なんだから寒いも暑いもないだろう。


僕がそう反論すると、彼女は「それもそうね」とちょっとだけ悲しそうに笑った。


たしか、一年前の冬のことである。


ギギィぃ……。


そんな錆付いた音と共に扉を開くと、彼女はいつものように屋上の中心に立って冬の夜空を見上げていた。


本当に、綺麗な後ろ姿だ。特に肩甲骨とか。


この場所で初めて彼女を見た時もそう思ったことを、僕は昨日のことのように思い出せる。


「やあ、巡音。今日は綺麗に星が見えるね」


ずっとその後ろ姿を見ていたい衝動に駆られたが、この寒空の下でそんなことをしたら間違いなく凍死してしまうので、僕はいつものように声をかけた。


「そうね。空気が痛いぐらいに澄んでいるわ」


突然僕から声を掛けられたことに対して、特に驚いたようなリアクションも見せずに彼女は返答した。


僕はそんな彼女の側まで歩いていって、いつもの場所に愛用の寝袋をセットする。


セットを終えると、寝袋に入って蓑虫のようにくるまることで暖をとった。でも、この寝袋は少し幅が小さくて、どちらかの腕を出さなければならない。どっちでも構わないけど、今日はなんとなく右腕を出した。彼女も僕のように屋上に横になる。実体を持たない彼女に、寝袋のようなものは必要ないけれど。


「二日ぶり、ね。記録更新だわ。しばらくは一人で星を見れると思っていたのに、残念」


皮肉がきいた彼女の言葉は、会話の良いスパイスになる。


たしか、会って三回目ぐらいに僕はそう割り切ったのだ。


だから僕は「まあ、そう言わないでくれよ」と苦笑するに留めた。苦い笑い、と書いて苦笑であるが、この場合の僕の表情はどちらかといえば明るいものの方が大きい。


「大学に受かったんだ。だから、今日は君にその報告もしようと思ってここに来たのさ」


「そう。君が受かったことを祝福してあげたいのはやまやまだけれど、こんな素晴らしい星空の日に来ないでよ。今の私は星空優先よ?」


「承知してる」


また、僕は苦笑した。僕が彼女の前で見せる笑顔の五割は、苦笑のような気がする。いや、きっとそうだろう。


「…………これでやっと、東京に行けそうだ」


「…………」


「また君は、僕がこの話をするといつもそんな顔をするね。そんなに、僕が東京に行くのが嫌かい?」


「まさか。何を言っているのよ。君が私のこの屋上にもう入って来ないなんて、考えただけでもワクワクするわ。何度も言っているでしょう?私は、一人で星を見るのが大好きなのよ。君のことはその次の次ぐらい」


「はは、そうだったな。この世に残した未練が『星を見たりない』なんて幽霊は、きっと君くらいのものだろうさ」


「だって、天国にいったら星を見れないでしょう?」


「それはまあ、空よりも上にいくんだからね」


「残念よね。ちょうど雲の上のところに天国があったら、いつでも満天の星空を見上げることが出来るのに」


「そんなに毎日満天の星空を眺めていても、風情がないだろう」


「それもそうかもしれないわね」


それもそうかもしれないわね。


その彼女の言葉を皮切りに、僕らの間に沈黙が広がっていった。いや、これは沈黙というよりは、静寂が広がっていった。と表現する方が似つかわしいだろう。少なくとも僕は、この静謐に満ちた空間で彼女と夜空を見上げることをとても嬉しく思っていた。沈黙なんて、気まずいイメージを生む言葉は遣いたくない。


それから、しばらく。


牡牛、ぎょしゃ、キリン、エリダヌス、オリオン、うさぎ、ちょうこくぐ、鳩、双子、子犬、一角獣、大犬、とも。


夜空に輝くそれら全ての星座を確認し終えて、世界の全てが静寂に包まれたような錯覚を受けた頃。


改めて、巡音は口を開いた。


「おめでとうと」


「うん?」


顔を巡音に向けると、今日の夜空のように澄んだ瞳が僕を見据えていた。


その瞳からはどんな感情も読み取ることが出来なかったし、あるいはどんな感情でも読み取ることが出来た。


「一応、おめでとうと言わせてもらうわ。」


それが大学に合格したことを指しているのだと、数秒遅れて僕は気付いた。


「あ、ああ。ありがとう」

「…………いつ、こちらを出発するのかしら?」


「一週間後のつもりだけど」


「そう。……少しだけ、急な話ね」


彼女の瞳は揺れている。


多分、今の僕と同じ感情で。


「……そうだね」


だから僕は肯定した。


「思い返せば、早いものね。歳月人を待たずとは、実際良く言ったものよ。君と出会ってから、もうすぐ六年も経つなんて」


「初めて会った時は、僕はまだ中学生になったばかりだったね。巡音を見上げて見なければいけなかった」


「ふふ。あの頃の君は、まだ可愛げがあったわ」


「可愛げ?いらないさそんなもの。僕は生粋の日本男児だ」


「はいはい」


「巡音はまたそんな呆れたように僕を見るし。その小さい微笑みをやめなさい」


「うん」


「やっぱり、まだ笑ってるし」


「うん、ごめんね。ふふふ」


「まず、笑うのをやめなさいって」


「うん」


最後にもう一度笑いながら頷くと。


彼女は視線を星空に戻した。


「君とこうして夜空を見上げるのも、今日で最後というわけね。…………ねえ」


「ん?」


「人はどうして、星を見上げるのかしらね」


「…………また、随分と唐突だね。君は」


…ーーやはり


僕はまた、苦笑した。


「どうしてだと、思う?ちなみに、『理由なんていらないのさ』なんて格好付けたら呪うわよ」

この人怖いよ!


「ん、と。…………やっぱり、宇宙に憧れがあるからじゃないかな」


「つまり?」


「なんつーか、ほら。星空っていかにも、『宇宙!』って感じがするじゃん?人は未知に憧れるからさ。宇宙なんて未知の塊だし。だから見上げるんだよ」


「……ふうん。だとしたら、私にとっての宇宙は、この屋上以外の全てね」


「………」


「私は、地縛霊だから。この屋上からは少しも出れないし。まあ、外に憧れがあるのかって聞かれたら、それも微妙なのだけれど」

「……んん」


なんて答えたらいいのか本当に分からなくなって、僕は曖昧に頷いた。


「なんとなく頷く癖は、とうとう治らなかったわね」


「……ごめん」


「何を謝っているのか、よく分からないわよ」


それはそうだろう。僕にだって良く分からない。


「……ねえ」


「……ん?」


「………もし、もしも私が君のことを──」


「流れ星だ」


小さく呟いて僕が見上げた夜空には、沢山のほうき星が流れては消えていた。


「流星群、今日だった」


「……凄い」


「………うん」


「凄い、わね」


「………うん」


それから、僕らは黙って夜空を見上げ続けた。


その中の一つに、僕は思った。


また、こうして彼女と夜空を見上げたいです。


こんなに沢山流れているんだ。僕の願い一つぐらい、聞いてくれるだろう。ああ、きっと聞いてくれるさ。


そして彼女も時折、何かを願うように目を瞑っていた。


その横顔は涙が出るぐらい綺麗で、僕は抱き締めたい衝動を必死にこらえた。


その時、僕の右手に何かが触れたような気がする。


視線を向けると、彼女の華奢な左手が、文字どおり僕の右手に重なっていた。


透き通るように、美しい手だと思った。


自分の胸が、ドキドキと高鳴っているのを感じる。


顔が少し熱くなったような気もする。


それは、彼女も同じだろうか。


もしそうだとしたら───


僕は───


「東京に」


「え?」


突然、彼女が口を開いた。


「東京に行っても、星見てね」


「…………」


────ああ。


「ね?」


「ああ」


ああ。






「カイト」


妻の声に、ハッとして僕は目を開いた。


「もしかして僕、寝てた?」


「それはもうぐっすり」


そう言って妻は悪戯っぽく笑う。


酷く、懐かしい夢を見た。


もう、三十年以上も前の話だ。


あの日以来、彼女に会ったことは一度もない。どうやらあの時の流れ星は見事に僕の願いを逆さに叶えたらしい。


分かってる。言い訳だ。


実は故郷を離れる前日、どうしても巡音に伝えたいことがあってあの屋上に赴いたのだ。


でもそこに彼女の姿はなかった。


もう消えたのか、それともまだあの屋上で星を見ているのか。


それすらも知らない。


「カイト?」


「あ、ごめんぼーっとしてた」


「もう、まだボケるには早すぎるって」


「ははは、手厳しいなぁ」


そうですよ、手厳しいんですよ。


目の前の妻はそう言って笑った。


僕は妻が本当に好きだ。


世界で一番愛している。


誰に憚ることなく、そう言える。


ただ、何故だろう。


毎回、毎回、星空を見上げるたびに、思う。


「………もし、もしも私が君のことを──」


あの時の彼女の言葉を遮っていなければ、僕の、僕たちの今頃は、きっと───


それは淡く苦い後悔となって、僕の喉元まで込み上げてくるのだ。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります

君の知らない物語。

季節の設定をミスったのに気づいたのは、回想が終わってからでした。
俺のバーカ!

閲覧数:284

投稿日:2009/10/31 15:32:48

文字数:4,473文字

カテゴリ:小説

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  • ゆっきー

    ゆっきー

    ご意見・ご感想

    >>ムシュカサン
    メッセージありがとうございます(*^_^*)
    僕の文章からそう感じてくれて、とてもとても嬉しいです(>_<)

    2009/10/31 15:36:54

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    ご意見・ご感想

    す、す、すごいです!!(;Д;*)
    なんか、少し、切ないような…ルカ……
    ブクマします><

    2009/10/31 12:15:19

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