――神威っ!
「お久しゅうござる、お頭」
男に心中、神威と呼ばれた男は、その細面の顔に冷たい笑いを浮かべた。
しかし、それがぞっとするほど美しい。
「我が弟子の妙技、ご満足いただけたようで実に何より」
言葉からも山なまりが消え、その低く深い声が、座敷にしんしんと響き渡る。
「紹介いたそう。我が弟子、凛にござる」
りん、と神威に呼ばれ、少女が乱れた衣のまま、その隣に控えた。
神威の肩に頭を寄せ、猫のように頬ずりをする。
神威は、凛のするがままにさせながら、男に向かって冷徹な笑みを浮かべたまま、言った。
「お頭、それがし大殿に申し上げたき儀がござる。しかしながらお頭をはじめ一党どもが、それをどうしても邪魔いたすゆえ、ことここに至り、止む無く退ける事に致した。どうかご了承くだされ」
――ばかなっ、貴様、自分が何をしようとしているのか分かっておるのか。
さるぐつわをかまされた口では声は出ない。
しかし神威はその喉の動きと、不完全な口の動きだけで、男の言葉を読み取った。
「大殿に、神威家お取り潰しは間違いであったことを理解していただいた上、再興を願い出るだけにござれば」
――そんな勝手が、本気でまかり通ると思ってか。
「まかり通らねば、まかり通すまで」
微笑みのまま、こともなげに答えたが、その目は僅かばかりも笑っていない。
――大殿を弑し奉るつもりか!
神威の返答を待つつもりは無かった。
男の四肢の関節全てが一斉に異様な音を立て、その身体が軟体動物のようにグニャリと歪んだかと思うと、どさりと音を立てて座敷に落ちた。
一瞬にして、全身の関節を外し、束縛から逃れて見せたのだ。
それだけでは無い、本来ならこの短い落下の間に再び全ての関節を入れ直し、すかさず目の前の獲物に襲いかかることも可能だった。
しかし男の身体は、陸地に打ち上げられた蛸のようにぐにゃぐにゃの四肢のまま、力無く熊の皮の敷物の上に倒れ伏していた。
男の眉間には、三寸ほどの鉄の釘が打ち込まれていた。
「大殿、大殿と…。己の保身のために我が一族を売ったは貴様であろうが」
神威は手元に残していた数本の棒手裏剣を懐にしまいなおすと、すっと立ち上がった。
その手には、座敷に入る前に男から渡された金剛杖がある。
傍らの凛が、支えを失って不満そうに神威を見上げた。
「退くぞ、凛。彼奴らが上がってくる」
神威が呟くや否や、次の瞬間、その背後の階下へ続く階段から、巡礼姿の男たちが杖を振りかざして駆けあがってきた。
「おのれ、神威かっ!?」
「気付くのが遅い」
神威が振り向きざまに金剛杖から仕込み刀を引き抜き、真っ先に駆け上がってきた男の脳天を叩き割った。
ぎゃ、と呻き声をあげて仰け反った男の身体が、階下では無く、逆に座敷に向けて勢いよく突っ込んできた。
背後から駆けあがってきた仲間が、神威めがけ力任せにその背中を蹴り飛ばしたのだ。
神威は刀を持った手で突き飛ばされてきた男の身体を払うと、残る片手で傍らの凛を抱え上げ、座敷の奥へと下がった。
それを追って、座敷に四人の男たちが踏み込んでくる。
いずれも仕込み刀を抜刀し、切っ先を神威と凛に向けていた。
「もはや逃がさぬぞ」
「我らの刃にかかるか」
「己で腹かっさばくか」
「選ぶがいい」
しかし、神威は片眉を上げたのみ。
片腕に抱き寄せられた凛が、神威の耳に顔を寄せ、何事か呟いた。
「ふむ、では凛、ひとり頼むとしよう。拙者はそちらの二人を相手する」
神威が抱いていた凛の身体を離した。
凛は神威から離れると、何のてらいも無い足取りで、刀を構えた男たちに向かって歩いていく。
男たちはその少女の行動に一瞬あっけにとられた。
まったくの無防備なのだ。
だが、すぐにこれは何かのたくらみに違いない、と気を引き締めた。
しかし凛は相変わらず無造作に歩み寄ってくる。
その目には警戒の色も、殺気の色も無い。ただ、無邪気な翡翠の色が浮いているだけである。
その目に、男たちの気がとられた。
男たちに生じた、一瞬の知覚の空白。
凛が手を伸ばし、四つ居並ぶ切っ先のその一つを指先でつまんで、軽く手前に引っ張った。
「あ」
その男はまろび転げるように前へつんのめり、凛の元へと倒れ込んだ。
凛は切っ先をうまくかわすとその男の身体を包み込むように抱き寄せ--
--まるで鞠のように跳ね跳んだ。
艶やかな小袖が男を包みこみ、もろともに天地を逆さまにしたかと思うと、それは色彩の渦となって座敷の奥まで撥ね飛び、板壁を突き破り、外の谷川の急流へと飛び込んで行ってしまった。
「あ、あ」
残る三人もその衝撃的な光景に、同じような声を上げた。
そして、ほとんど反射的に目の前に立つ神威めがけ刀を振りかざした。
神威はひとりの刃をかいくぐると、次のひとりの刃が振り下ろされる前にその身体に組みついた。
二人密着したそこに、三人目が容赦なく刀を振り下ろす。
神威は刀を頭上に掲げてそれを受け止めた。
「では、二人、もらっていこう」
神威がそう呟いた瞬間、組みついていた男ごと、その身体が宙を舞い、凛と同じように谷川へと飛び込んで行った。
いや、組みついていた男どころか、刀を打ち合わせていただけの男ですら、その刃同士がニカワで接着されたかのように離れずに、もろとも川へと引きずり落とされたのだ。
「あ、あ、あ」
座敷にたったひとり残された男は、慌てて突き破られた壁に駆けより、眼下の急流を見下ろした。
「あ――!?」
そこで目にした光景に、男は呆けた様な声を上げることしか出来なかった。
燃えるような山紅葉がなだれ落ちる急斜面の脇、無数の葉を浮かべながら激しく流れる急流の上に、凛を抱えた神威が、沈むことなく寂然として座したまま下流へと流れて行く光景が、そこにはあった。
神威の膝の上から凛の纏った艶やかな小袖が花のように周囲に拡がり、まるで水面に落ちた一輪の花が流れて行くようだった。
その凛と神威の周囲を、舞い落ちた紅葉と、三つの死体がうつ伏せになって半分沈みながら流れて行く。
……神威忍法、流れ椿……
谷川を渡る風に乗ってしんしんとした声が、座敷に残る男の耳に届いた時、その眉間に棒手裏剣が突き刺さっていた。
谷川に四つ目の死体が落ちた音を聞きながら、神威は凛と共に晩秋の谷川を下って行った。
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