最終章 白ノ娘 パート7
ハク、一体どうしたのだろう。
その日の夜、リンはそう考えながら、ベッドの上、周囲を見渡すことも困難な漆黒に染め上げられた部屋の中で、一つ寝返りを打った。ハルジオンを摘むのに夢中で気が付かなかったが、途中からハクがとても気分が悪そうに、顔が青ざめ始めたのである。暑気にやられたのだろうか、とも考えたが、ハクはリンに対して口を閉ざしたまま、何も語らなかったのだ。一体、ハクに何が起こったのか。夕食も、夜の礼拝も無難にこなしていたから、多分体調を崩している、ということではないだろうけど、それならばそれで気にかかる。気を使って色々と話しかけてはみたが、リンに対してハクは何かを思いつめたようにただ曖昧な生返事を繰り返しただけだったのである。
眠れない。
もう一度寝返りを打ったリンは思わず、そう考えた。あたしが何か悪いことでもしたのだろうか。ハクに嫌われたのだろうか。そう考えると、途端に胃が底に落ちる様な不安を覚える。もし、ハクを失ったら。そう考えて、リンは思わず目頭が熱くなる様な感覚を覚えることになった。あの時、あたしの我儘であたしはレンを失った。大切なお兄様を。レンはあたしの為にどんなことでもしてくれた。あたしの為に戦に出て、あたしの為に略奪を働き、そしてあたしの身代わりとして、あたしの目の前で処刑された。そのレンと同じ様に優しく接してくれたハクを、あたしはいつの間にか友達だと考える様になっていたのに。ハクの中で、何かが起こったのだろうか。それとも、あたしがまた何か我儘を言ったのか。何を言ったのかも分からないが、それが原因でハクはあたしに対して興味を失ってしまったのか。悪いことを考えると思考がまるで流れる小石の様に底へ、床へと流れてゆく。もう、一人ぼっちは嫌だよ。形ばかり豪奢な王宮の中、孤独な私室でいつも呆然と王都の様子を眺めていた頃の自身を思い出す。あの時のあたしは誰も友達はいなかった。いたのは、レンだけだった。そのレンは、もういない。
もう一度その事実を思い起こし、リンは無意識に右手に巻きつけたままのリボンを上着の上から握りしめた。あたしとレンの唯一の違い。右手の痣を象徴するつもりで巻きつけた、レンから預かった大切なリボン。そのリボンを握りしめても、不安は消えない。神様、と思わず呟いてから、リンは不意に身体を起こした。このまま、一人で悩んでいても寝つける気がしない。それなら、いっそ神様にお祈りをした方がまだ気が晴れるかもしれない。リンはそう考えて、そのままベッドから降りることにした。小さな蝋燭を点灯させて、最低限の灯りだけを確保したリンは、そのまま部屋の外に出る。宿舎の隣、修道院の二階に併設されている懺悔室に向かおうと考えたのである。
眠れない。
マリーと同じようにハクもまた、自身の私室、ベッドの上で寝返りを打った。そして、もう一度あの時の情景を脳裏に思い浮かべてみる。マリーの右腕に巻きつけられていたもの。あれは確かにミクさまのリボンだった。見間違いを検討はしてみたものの、どう考えてもミクさまのリボンであるとしか考えられなかったのである。一体、彼女がどこであのリボンを手に入れたというのだろうか。そもそも、マリーは一体何者なのか。洗練された身のこなしは庶民のそれとは明らかに異なる。あたしと同じように王侯貴族に仕えた経験を持っているのだろうと推測を立ててはいたが、それ以上の問いを放ったことは未だにない。それが身寄りの無い女達が集うルータオ修道院における絶対の不文律であったからだ。だが、それでも訊ねたい。マリーが何者で、そしてどこであのリボンを手に入れたのか。
ハクがそう考えた時、小さく扉が開く音がした。
時計を見る。既に午前二時を回っている時刻であった。こんな時間に、一体誰だろう、と思わず考え、ハクはそのまま耳を澄ませた。扉はそのまま、周りの人間を起こさないように最大限の配慮を放つような小さな音を立てて、再び閉じられる。音の方向は、丁度あたしの部屋の真向かいか。その部屋はマリーの部屋として宛てられている。どうしたのだろう、と考えながら、ハクはそのまま耳を澄ませた。続いて、小さな足音が深夜の宿舎に響く。そろりと、できるだけ音を立てない様な忍び足で。こんなに遅い時間に、マリーは一体どこに向かうつもりなのだろうか。ハクはそう考え、いても経ってもいられなくなりそのままベッドから身を起こした。そして静かに私室の扉に向かい、音をたてないように注意しながら扉を小さく開き、そして廊下を見渡した。その先、玄関口の辺りで小さな蝋燭の光がハクの目に留まる。その光に当てられたのはマリーの横顔。蒼い瞳が小さく輝き、そしてその蝋燭は玄関から外へと向かって移動して行った。後をつけては悪い、という気分と、もしマリーがどこであのリボンを手に入れたかを訊ねるなら、皆が寝静まっている今程都合のいい時間はない、という二つの思考が幾度かせめぎ合った後に、ハクは結局マリーの後を追いかけることを決意する。そのまま、静かに、マリーに気取られないように後をつける。玄関が開いて閉じた音を耳にしたハクは、そのままマリーと同じように廊下を歩き、そして玄関の扉に手をかけた。先程と同じように小さく扉を開いて、涼しげな夜風に自らの肌を晒したハクは、丁度そのタイミングでマリーが宿舎の隣に併設されている修道院の扉を閉じたことを確認して、そのまま全身を闇夜の中に押し出すことにした。そのまま、静かに宿舎の玄関を閉じる。小さな響きは上手い具合に夜虫の音にかき消された様子だった。その夜虫のオーケストラの中をハクは踏みしめ、そして修道院の扉を開く。礼拝堂でお祈りでもするつもりだろうか、とハクは考えて、慎重にその扉を開いたが、その礼拝堂を見渡しても、先程確認した蝋燭の灯りは見えない。代わりに響くのは、礼拝堂の右手奥にある階段を上ってゆく足音。二階に向かったのか、とハクは考え、二階には懺悔室があるけれど、そこに行くつもりなのだろうか、と推測を立ててから、ハクもまた静かにその両足を礼拝堂の中に踏み入れた。小さく床が響く。出来るだけ、静かに。自らを戒める様にそう考えたハクは、極力足を床から離さないように、擦り足のように礼拝堂を歩んで行くことにしたのである。そのまま、二階へと続く階段にゆっくりを足を載せる。階段の手すりを掴んで重量を分散させるようにバランスを取りながら、ハクは階段をゆっくりと上って行くことにした。二階は合計三つの懺悔室が用意されている。マリーはどの懺悔室に入ったのだろうか、とハクは考えたのは一瞬、直後にハクの耳に入った言葉に、ハクは静かに耳を傾けることにしたのである。
「神様、あたし、友達が出来ました。」
籠った様なマリーのその声は、どうやら一番奥の懺悔室から響いている様子だった。それならばと一番奥にある懺悔室の扉の前にまで向かったハクは、そのまま懺悔室の前でリンの言葉に耳を傾けることにしたのである。
「ハクと言う人です。でも、昨日はとても具合が悪そうで、もしかしたらあたし、何か悪いことを言ったのかも知れません。」
そのまま、マリーは言葉を続けた。
「神様、お願いします。ハクとはずっと友達でいたいの。もう、嫌なんです。あたしの我儘で大切な人を失うなんて。もう、レンの様な人を二度と作りたくない。」
レン。その言葉に、ハクは僅かに脳裏にある記憶を刺激されることになった。レン。どこかで聞いたことがある。その少年は、確か遊覧会の時に、そうハクが考えた時、マリーは決定的な言葉を放った。
「神様、レンはご存じの通り、あたしの代わりとして、悪ノ娘リンの代わりとして、青の国に処刑されました。あたしはこうして生き長らえているけれど、もしあたし自身が生きていることに問題があるというのなら、いくらでも懺悔して、いくらでもお祈りをします。だから、せめて、ハクと一緒に居させてください。」
だが、最後のマリーの言葉は、ハクの耳には届くことが無かった。悪ノ娘。その言葉が、ハクの脳裏をナイフで突き刺す様に刺激したのである。他に何も考えられなかった。ああ、なんということだろう。ハクはそう考えて、胃の底が焼けるような感覚を覚えた。彼女はマリーではない。純粋で、寂しげな表情をした彼女の姿は仮の姿。本当の彼女は人々を奈落の底に陥れ、緑の国を滅ぼした、なによりも、あたしの仇。あたしが怨んでも怨み切れない、ミクさまの仇。
彼女こそ、あたしの大切な友人を奪った、悪ノ娘リン・・!
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