今更怖いものなんて僕らにはなかった。人を殺してしまって、死ぬために逃げている僕らを怖がらせるものなんて、一体何があるというんだろう。
 ここ数日で長時間乗り続けることにも慣れた電車に揺られながら、窓の外の景色をぼんやりと見つめる。隣に座るリンも、同じく景色を見ているようだった。
「昨日、いろいろネットで記事を見たよ。でも、当事者だっていうのに、なんか全部どうでもよくなってきちゃった」
 そう語る声は電車の走行音にかき消され、隣にいる僕じゃないと聞こえないほどだった。
「いいんじゃないかな。僕もどうでもいいって思うし」
「ふふ、そっか。……ありがとう」
 これは、あぶれ者の小さな逃避行の旅だ。


 電車を降りて、本数の少ないバスに乗り込み、いわゆるローカル線というやつを走る列車に乗って、また降りる。そうして、田んぼが広がり、視界の七割程を緑色で埋め尽くされる風景が広がる場所──要するに、リンが望んだ田舎にたどり着いたのは昼時を過ぎたあたりだった。
 道中に寄ったコンビニで買った弁当を、駅舎の中にあるベンチで食べ始める。無人駅なので、人の目を気にする必要がなく、気楽だ。
「ついにこんな所まで来ちゃったね」
 割り箸を割る軽い音が鳴る。静かな環境ではそんな音さえよく聞こえた。
「行こうと思えば、どこにだって行けるもんだな」
 卵焼きを取り、口に運ぶ。おいしくもまずくもない、何とも形容し難い微妙な味がした。
「私、星空が見たい。空気が澄んでるし、明かりも少ないから、よく見えるよ」
「いいね。天の川もよく見えるんじゃない?」
「あと、まだおいしいもの食べに行ってないから、また大きい駅に戻って、何か食べたい」
「結局コンビニの弁当ぐらいしか食ってないしな」
「それで、最期に、海に行きたい」
 下を向いてた目線を、リンに合わせる。軽く微笑んでいるその顔はいつもと同じ顔で、だからこそ覚悟なんてもうとっくのとうに決めているんだとわかった。
「いいよ。海、行こうか」
 始まりがあるものには、終わりがある。逃避行の旅は、文字通り僕たちのこの手で、終わらせなければならない。


 昼ご飯を食べたあと、周りをなんとなく散策し、結局駅舎へと戻る。まさか民家に立ち寄って寝泊まりさせてもらうわけにもいかないし、公園もありそうにないので、ここで夜を明かすことにしたのだ。
「やっぱり、星、凄く綺麗に見えるね」
 リンがぽつりと言葉を漏らす。空は今まで見たことがないぐらいにきらきらしていて、今まで見てきた空とはまるで別物のようだった。視界を覆い尽くす星々を見ていると、自分の存在が空気に溶けてしまったかのような感覚になって、空と世界の境界さえ曖昧になる。
 このまま本当に消えてしまえたらどんなに楽か。
 そんな願いを見透かしたかのように、目の前を星が流れた。
「今、流れ星流れたよね?」
「やっぱり? 私も見えたよ」
 初めて見た流れ星は、一瞬よりは長かったけれど、願い事を三回唱える時間なんて到底なかった。それが当たり前だとわかっていても、願い事を言うことさえ許されないような気がして、星空を軽く睨んだ。
「……流れ星に願ったら、こんな僕たちも見捨てずに、救ってくれるのかな」
「そんな夢なら捨てた」
 噛みつくように言われ、思わずリンのほうを見る。不快にさせたのかもしれない、謝ろうと口を開いたところで、リンが慌てたように先に喋り出した。
「ごめん、嫌な思いがしたとか、そんなんじゃないの。ただ、私も、流れ星じゃないけど、誰か助けてって、願ってたことがあったから」
 僕の目から視線を外し、空を見上げ、リンは続ける。
「だって、どれだけ願ったって現実はつらいことばっかりで、シアワセの四文字すらなかった。今までの人生で身を持って思い知ったよ。願ったぶんだけ、虚しくなるだけだった」
 空を見つめるリンの横顔に、涙がつたう。リンの涙を見たのは、リンが僕の家に来た日以来だった。
「……誰もが自分が救われることを望んで、自分は何も悪くねえって思ってる」
 あいつだって、私だって、結局は同じなのかもね──そう、小さく呟いた声が聞こえた。
「それなら僕だってそうだ」
 さっきリンが強く言い放ったように、今度は僕が言い放つ。リンは少し驚いたような顔をした。
「僕だって、自分が救われることを望んでるし、自分は何も悪くないと思ってる。初音やリン、僕だけじゃなくて、人間誰しもがそう思ってるよ。だから──」
 自分だけを責めて、泣かないで。
 目尻からこぼれる涙を拭うと、柔らかく笑って、ありがとうと微笑んだ。


 一時間に一本しか来ない電車の線路の上を歩いた。水が澄んでいる川で水遊びをした。見た目が綺麗で立派なうどん屋でうどんとそばを食べた。他にも地元の店で美味しいものをたくさん食べた。当て所もなく歩いて、綺麗な景色をたくさん見た。
 海に、辿り着いた。
 今日は曇っていて少し肌寒い上に、元々海のシーズンより少し前ということもあって、砂浜に立っているのは僕たち二人だけだった。
「どこかで水着買っておけばよかった。そしたら、海に入れたのにね」
「どうせここで最期なんだから、服が濡れてもいいんじゃない? 僕、海に入ったことないから、入ってみたい」
「レンもないの? 実は私も入ったことないんだ」
 どうやら、お互い海で遊んだことがないらしい。となれば、やることは一つだけだ。にやりと互いの口角が上がる。
「よーし、遊ぼう!」
 リンが走り始めて、僕もすぐに後を追いかける。初めて入った海はどうしようもなく冷たく、その肌の上を風が撫でるから、よけいに寒い。それでも、二人でバカみたいにはしゃぎあって笑った。
 紛れもなく、この瞬間は、“シアワセ”だった。
 でも、そんな時間ほど、長くは続かない。


 ひとしきり遊んでから、荷物を置いてある場所に戻って、寒さに体を震わせながら身を寄せ合う。どうせ体を拭いたところで、髪や服から水が滴ってすぐに濡れてしまう。冷たい体でも確かに感じる微かな熱を手繰り寄せて、穏やかな波をただ見つめていた。
 波の音に混じって微かに喧騒が聞こえてきたとに、僕とリンは同時に顔を見合わせた。
 終わりはもう、すぐそこまで来ている。
 リュックからナイフを取り出し、しっかりと握る。思考は冷静なはずだが、手はカタカタと小さく震えていた。
「ねえ、レン。最期に、言いたいことがあるの」
 リンの手にも同じくナイフが握られており、その手は微かに震えている。しかし、僕を見るその瞳は、手を震えさせている感情を感じ取らせないほど強かった。
「レンが今まで傍にいたから、私、ここまでこられたんだ」
「それは僕もだよ。リンがいたから、僕も、ここまでこられた」
「つらいこと、たくさんあったけど、レンが全部聞いてくれたから、凄く救われたんだよ」
「その言葉、そっくりそのまま返す。僕もリンのおかげで救われた。ありがとう」
 笑顔を見せたリンの両目からは大粒の涙が溢れ、ぽたりと砂浜に吸い込まれていく。不謹慎だけど、その姿はとても綺麗に映った。
「こちらこそ、本当にありがとう。……最期に、わがまま、聞いてほしい」
「なに?」
 リンは少し逡巡したあと、意を決したように、涙を拭ってから僕をぎゅっと抱きしめた。
「残酷だってわかってる。散々引っかきまわして、都合が良すぎるって。それでも、言うね。──生きて、レン。生きて、生き抜いて、この世界に居続けて」
「なに、言って」
「レンがいたから、ここまでこられた。だからもういい。もういいよ」
 僕から少し離れたリンは、そう言って、ナイフを首に当てて──、

「死ぬのは私一人でいいよ」

 思いっきり、横に滑らせた。


 そのあとの記憶は、断片的だ。
 気がつけば警察署にいたし、気がつけば目の前に父さんがいて、静かに涙を流しながら抱きつかれた。叱られたって何もおかしくない、むしろそれが当たり前なはずなのに、何も言わないその優しさにただただ救われたのは覚えている。しかし、鮮明なのはその記憶ぐらいで、気がつけば家にいたし、気がつけば学校にも通い始めていた。行動は日常のものへと向かいつつも、心にはぽっかり穴が開いていて、日々を過ごしている実感がまるでない。
 ただ、同じクラスだったリンの姿が見えない教室に来るたび、もうリンがこの世に存在していないことを痛感する。どれだけ探しても見つからないリン。家族だって、クラスの奴らだって存在しているのに、なぜか君だけはどこにもいない。
 そうして、ただただ、時は過ぎていった。
 高校を卒業し、大学へ通うようになった。何年経っても、リンの姿を探している自分がいる。リンに似ている子を見かけるたび、まさか、とありもしない希望を灯し、首を振って打ち消す。そんな日々の繰り返しだ。
 夏休みに入ったある日、父さんが旅行に連れて行ってくれた。美しい景色を眺め、新鮮な野菜や魚を食べる。相変わらず無口だが、不器用な父さんの優しさに、少し心が軽くなるのを感じた。
 その日の夜、移動の疲れはあるはずだが、環境が違うせいかなかなか寝付けなかった。隣のベッドで眠っている父さんを起こさぬよう、静かに起き上がり、バルコニーへと向かう。カラリと窓を開けると、夜のにおいと共に、満天の星空が飛び込んできた。降るような星空は、リンと空を見たあの日を思い出させる。
 死んだ人は星になる──どこかで聞いた言葉が頭をよぎる。リンも、この無数にある星の一つになっているのだろうか。
「リン……」
 あのとき、僕は自分のことに必死だった。死なないで、という無責任な言葉を投げかけるよりは自分の行動は正しかっただろうが、ただリンと最期を迎えることしか頭になかった。
 美味しいものを食べたときのリンの笑顔。海で遊んでいるときに見せた無邪気な姿。それらが僕の頭の中を飽和している。
 あのときこの世界から逃げ出した行為そのものが、故意ではなくとも人を殺してしまったことによる罪悪感からだった。人を殺してはいけないだなんて、そんなの誰だってわかってる。逃げ出したところで、現実を切り離せるはずもなく、リンはいつも許されないことをした自分を責めていた。つらかっただろう。いつか出会えたら、あの日リンがそうしたように、ぎゅっと抱きしめよう。そして、いつもどこかで怯えながら過ごしていたリンに、あのとき送るべきだった言葉を、きちんと伝えるんだ。
「リンは、何も悪くないんだよ」
 あの日の僕たちは、責任を相手や自分に押しやって、自分が今している行動の意味を見失わないようにするのが精一杯だった。でも、本当は、誰も何も悪くない。だから、もういいよ。全部投げ出してしまおう。責任感とか、罪とか、今後とか、どうだっていい。ただ、全部を受け入れて、一緒に生きていこう。ずっと、傍にいるから。

──そう言って欲しかったのだろう? なあ?

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

あの夏が飽和する。【後編】

この作品はピアプロ・キャラクター・ライセンスに基づいてクリプトン・フューチャー・メディア株式会社のキャラクター「鏡音リン・レン」「初音ミク」を描いたものです。
PCLについて→https://piapro.jp/license/pcl/summary

閲覧数:482

投稿日:2019/02/04 00:11:51

文字数:4,498文字

カテゴリ:小説

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