翌朝、目が覚めた時には、既に日も高かった。ミクもリンも、部屋にはいない。
まずい、寝過ぎた。
慌ててパジャマから着替えると、部屋を飛び出した。
そのままの勢いでリビングに駆け込み、そこにいた人に目を瞬かせる。
「…あれ、マスター?」
「あぁ、おはよ」
マグカップを手に、マスターが微笑していた。
―Error―
第七話
時計を見ると、もう十時を回っている。仕事はいいのだろうか。
「あの、マスター、なんで…?」
「なんでってめーちゃん、今日何曜日か、わかってるか?」
「え?」
呆けた声を出してしまってから、気付いた。
今日は土曜日。仕事はお休みだ。
「…忘れてました」
「だろうなぁ」
ふぅ、と溜め息をついて、マスターは私に数枚の紙を手渡す。
楽譜だ。
「せっかくの休日だし、久しぶりにめーちゃんに歌ってもらおうかと思って。チビ3人は遊びに行ってるし」
「遊…どこにですか」
「俺の上司んとこ。俺に感化されてボカロを買ったはいいけど、使い方がわからんとかぬかしやがるから」
本当は自分が行くつもりだったが、それをミク達に言ったら、リンとレンも道連れにして、代わりに行ってくれたのだという。
またあの子は、無茶苦茶な事を。
「そんな事、簡単に許さないで下さいよ。迷子になったらどうするんですか」
「本人がやる気だから、いいんです」
「そういう問題じゃないでしょう、もう…。で、カイトは?」
「まだ寝てる」
「…まぁ、久しぶりでしたからね、お酒」
呆れながらも楽譜に目を落とす。
途端に、思わずマスターを睨んでしまった。
「マスター!」
「ん?」
「何ですかこれ?!」
マスターは、わなわなと震えている私の後ろに回り、楽譜を覗き込む。
「…間違ってないよな、うん。めーちゃんも知ってるだろ?この歌」
「本気ですか?!本気で、こんなこっ恥ずかしい歌、私に歌わせる気なんですか?!」
「そんなに恥ずかしいか?これ」
「恥ずかしいですよ!!」
私の手の中の楽譜に書かれたタイトルは、よそのうちのミクが歌った、凄く有名な歌のもの。
いや、いい曲だとは思う。思うけども、それとこれとは別だ。
正直キツい。恥ずかしさで本当に溶けそうだ。
「そんなに嫌がらなくても、笑顔動画にはうpしないから。たまにはこういうのもいいだろ?」
「そんな事を気にしてるんじゃ…あぁもう、わかりましたよ。歌えばいいんでしょう、歌えば」
昨日といい、今日といい…貴方は私を、一体何だと思っているんですか。オモチャじゃないんですよ。
「それで?いつからやります?」
「今から」
「はぁ?!」
「いや、もちろん、めーちゃんが良ければ、だけど」
しれっと言ってのけるが、私が押しに弱いのを知った上での発言だから、タチが悪い。
どうしても、私から言わせたいらしい。
「はぁ…いいですよ」
「そう言ってくれると思った」
喧嘩売ってんのか、この人は。
無理なのはわかってるけど、無性に一発殴らせて頂きたい気分だ。昨日も似たような事を考えてた気がする。
それを知ってか知らずか、マスターは練習部屋に私を連れ込んで、PCを立ち上げると、私にケーブルの先を差し出す。
私が渋々受け取って、接続端子に差し込むのを見届けると、すぐさまマスターはメロディと歌詞を入力しにかかった。
「…よし。めーちゃん、1回歌ってみて」
「はいはい…」
あれだけ渋っといて、結局は素直に歌う私もどうかしてる。
そう思いながら、オケのタイミングに合わせて口を開く。
「la~♪」
私が歌っている間中、マスターは難しい顔で考え込んでいたが、1番が終わると、再生をストップさせた。
「思った通りだ」
「何がです?」
私が訊き返すと、マスターは、ふ、と笑った。
「ほとんど調教してないのに、前よりずっと上手いというか、感情がこもってる」
「感情、ですか?」
「うん」
私はいつでも、1曲1曲心を込めて歌わせてもらってたつもりだけど。
「やっぱり恋の歌は、恋を知ってる方が上手く歌えるのな」
「こっ…?!」
そういう事か!
理解した途端に、かぁっと顔が赤くなるのがわかった。
「マ…マスターの馬鹿!」
「何を今さら。じゃ、もう1回Aメロから歌って」
「う~…」
悔しいが、マスターの命令には逆らえない。
その後も何度も1番だけを繰り返し歌い、しばらくしてから2番に移る。それも
済んだら、今度はフル。
だが、マスターに余計な事を言われたせいで、ちっとも集中できなかった。
「…めーちゃん」
何度目かの通しが終わった時、不意に声がした。マスターではない。
振り向くと、予想通り、カイトの姿があった。
いつからいたんだろう。
「なんだカイト、起きたのか。どうした?」
「いえ、ただ、ちょっと話したい事が…いいですか?」
マスターの声に、カイトはにこりとして、私の手を取る。何かを覆い隠すような、完璧すぎる笑顔だ。
正直、私はとても驚いたし、マスターもそうだったみたいだ。
私たちは普段、他のボーカロイドの調教中は、よほどの事がない限り、マスターに声をかけないようにしている。
カイトは特にそれを気にしてたのに…。
「…そうだな。めーちゃん、休憩しようか」
「え、でも、あと少しじゃ…」
「いいから」
何を思ったか、マスターは私の頭を撫でると、ケーブルを引っこ抜いた。
「すみません、マスター」
「ん」
短く言葉を交わすと、カイトは私の手をしっかりと握ったまま、廊下に出る。
心なしか、少しだけ、足早だった気がした。
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