などと思っていれば、現実に引き戻す残酷な声がする。
「いやはや、初の花街で斯様な少女を口説くとは…やるなあ、少尉」
今日の上客である少佐だった。
その言葉に、リンは一瞬の淡い期待を自分で捨てる。
やはり、彼らにとって彼女はただの“遊女”であり“それ以下”でもなければ、まして“それ以上”になどなり得る筈もないのだ――どうしてそんな、分かり切ったことを考えるのだろう。
切り捨ててから自分でそうは思ったが、リンは少佐に対し「お戯れを」などと苦笑して返すしかないのだった。
分は弁えているつもりだ。
彼女には、今はこうして生きていくしか術がない。
いくら此処に来る彼らを心中では蔑んでみたところで、状況は変わらない。
貼り付けた笑顔を崩さないように、客の機嫌を取りながら躰を売るしかないのだから。
「いやですわぁ、村岡さん…私の大事な妹なんですから、リンをあまり揶揄うのは止めて下さい」
最早諦めていたリンに、姐の声が聞こえた。
ふいと顔を上げれば目が合って、優しく微笑み返してくれる――もしかすれば、彼女にはリンの想いが分かったのかも知れない。
「これは悪かったな、ミクがそのように言うとは余程の娘と見える」
そして姐の言葉に少佐は冗談めかせてそう言い、リンを見た。
「そんな、とんでもないです」
思わぬ言葉につい素で答えると、近くでふっと息を吐く音がする。
何事かと顔を上げれば案の定、神威がリンを見て薄く笑っているのだった。
「リンは本当に面白いな」
あまり柔らかい表情で笑っているものだから一瞬戸惑えば、しかし発された言葉は先程と同じ。
――今の言い方では『変わっている』も『面白い』も同じ意味であろう。
何故この男にそれを言われるのかなどリンにはやはり全く分からず、苦く笑うしかない。
それよりも、このように悠長に話していてはきっと早々に場を白けさせてしまう。
近頃はこのような役目は終わり、他人の客の相手をしなければと思うこともなかったのだが。今回のリンの役目は、新造と同じである。
しかも姐の上客なのだ、無碍に扱えないからと回された役を放任する訳にはいかない。
「芸者はまだなの?では楽を…」
最近では、客のほとんどが芸者の存在を好む。
姐の位で芸者を同席させることなどまずないことだったが、相手が相手なので呼んでいる筈だ。
彼女らが来ればまた違うのだろうと思いながらも、とりあえずと新造に楽を頼む。
しかしむしろリンが弾く方がまだ良いだろうかと思い、自ら持ち直す。
「まあ…リンの唄なんて、久し振りねぇ」
姐が嬉しそうに言うのを聞きながら、声を張り上げた。
歌うのは好きだった。
此処に来るより以前は、レンと二人で毎日を過ごし、楽を奏でては歌っていたのだ。
――ああ、今日は本当に昔のことばかり。
今頃レンはどうしているのだろう。
リンのような生活をしていなければ良いとは思うものの、いつしか途絶えた便りの先も分からなければ、どうすることも出来ないまま。
日々の生活に忘れてしまったのか。
それとも、考えないように努めていたのかも知れない。
「これはまた、芸者連中も顔負けの美しい声だな」
少佐が鼻を鳴らしてそう言うのを聞きながら、ただただ歌った。
「…」
何故か少尉が何も言葉を発さないのを寂しく思いながらも、目を伏せたまま歌い続ける。
今は誰かの顔を見るのがひどく怖く、殊に彼のカオを見たくはなかったのだ。
「失礼致します」
そして暫くして戸の外から声がするまで、リンは弾き歌い続けた。
あとは芸者に任せ、たまに適当な話を振るだけで良い。
それからは、先程までのように気不味いというような気持ちになることも深く話題を振られることもなく、常のような上っ面の会話だった。
かなり付き合いの長い馴染みであれば話は別だが、所詮は男と女のこと。
軍人ともなれば面倒事を避けてこのような店に来る人間も多いので、余計だろう。
リンも最早割り切って話をしていると、それまで黙っていた禿がふいに小さく耳打ちをしてきた。
「姐さん、そろそろ四ツになります」
ああ。
リンはその言葉に、一日の終わりを知る。
結局あまり話をしていた覚えはないのだが、早いものである。
格子の前に張り付いている時などは、この頃になると苦痛で仕方なくなるのだけれど。客のある日も、同じく憂鬱になる――何度開いても決して快楽だけに慣れることはなく、それが一層に辛いのだ。
つまり本来の遊郭としては此処からが“仕事”なのだが、今日の彼女は新造としての役である。
このまま姐が少佐と床に就くことになるならば少尉の相手をしなければならないが、それはそれで気が楽であるかと言えばそうでもない。
彼も上司の供とはいえ、来たのは花街の廓である。
徳川治世の頃ならば違っただろうが、最近ではリンのようにきちんと水揚げなどはされず、客に流されてしまう場合も多いと聞く。
勿論この廓の楼主はあまりそれを良しとしている風ではないのだけれど、リンも今回は新造として出されたとはいえ、もう部屋持ちだ。
もし男が求めてきたならば当然拒む術などはないし、むしろ喜ぶべきだと分かっていた。
「そうですか」
姐の声を聞きながら、さてどうしたものかと考える。
この男が相手だったなら、まだ抱かれるにもマシだっただろうにと。
格子から見た世界にそんな淡い期待をしていた筈の自分が、今更あまりその近い将来を望んでいないことに気付いてしまったのだ。
嫌だと思う。
同じ抱かれるならば見目の良い若いヒトが良い――確かにそう思っていたのに、この男もまた体の欲求を満たす為だけに此処にいるのかと思うことが不快だった。
理由は分からないが、どうやら礼を言われたことを根に持っているらしい。
数多いた客の中で好感の持てる客は今までにもいたが、きっとその類なのだろう。
リンにとって廓に来る客は皆、肉欲に塗れた侮蔑の対象だ。
だから、この男を“彼ら”と同じだと認めるのはあまり嬉しいことではないのだろうと自己分析をした。
「村岡さん、それでは私はこちらで失礼します」
そうこうしている内に、姐がそう言って立ち上がる。
着替えの為に一度座を離れ、それが終われば禿や新造などが客を連れ――そして夜を明かすのである。
今回此処は姐の部屋ではないので、客を部屋から出す必要はない為に常より長く場を保たなければならない。
あとの二人は先程の通りだろうからリンが相手をしなければならないことは目に見えていたが、此処までくれば男の考えることなど一つなのだ、なんとでもなる。
「では、少しの間ですがお相手を…」
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