ひどい目にあった次の日、わたしは、お父さんの罵声で目を覚ました。
「リン! お前、どこへ隠れた!?」
わたしは、文字通り飛び起きた。隣では、やっぱりこの声で起こされてしまったらしいハク姉さんが、驚いて目を見開いている。
「出て来い! この、ろくでなしめ!」
思わずベッドから出ようとしたわたしを、ハク姉さんが引きとめた。
「……ハク姉さん?」
「何も居場所を教えることないわ。お父さんなんて、怒鳴らせておけばいいのよ」
「で、でも……」
「あんたが出て行ったら、お父さん、あんたを怒鳴りまくったあげく、あの人のところにあんたを引きずって行って、こいつのことはもう好きにしろとか言い出しかねないわ」
そう言われた瞬間、わたしは動けなくなってしまった。廊下からは、お父さんの怒鳴る声がまだ聞こえてくる。
「リン! いいかげんにしろ!」
……気分が、悪い。わたしはベッドの上を探して、ミミを拾い上げた。ぎゅっと胸に抱きしめて、目を閉じる。閉じたところでお父さんの声は聞こえてくるんだけど。
「あなた、何をやっているんですか!?」
ばたばたという足音と、お母さんの叫ぶ声が聞こえてきた。お父さんとお母さんが、大声でやりあうのが聞こえてくる。
「石山先生から電話があったぞ! リンのせいで息子が逮捕されたと!」
「リンに何があったのかも知らないの!? あの人、リンを殴ったのよ!」
「うるさい、お前は余計な口出しをするな。大体、リンが失礼な態度ばかりとるから、あんなことになるんだ。そもそもお前の躾が……」
お父さんは延々と怒鳴り散らした。ハク姉さんが、わたしの頭から毛布をかける。少しでも聞こえないように、というつもりみたい。わたしはミミを抱きしめたまま、震えていた。
そうやって、どれぐらいそうしていたんだろうか。気がつくと、お父さんとお母さんの声は聞こえなくなっていた。
「……ハク姉さん、お父さんは?」
「なんか、行っちゃったみたいね。石山先生とやらのところに、お詫びにでも出向くんじゃないの? 向こうが詫びに来るのが筋だと思うんだけど」
ハク姉さんは吐き捨てるようにそう言うと、携帯を拾い上げて、操作し始めた。……わたしはミミを抱いたまま、ぼんやりとそれを眺めていた。
お父さん、そんなにわたしたちがしたことが不満なんだ。わたし、殴られて、強姦されかけたのに。傷物になったわたしは、どんなひどい行為でも受け入れなくちゃいけないの? わたしには、もう人間としての価値がないの? そんなのって、変だ。また、涙がこみ上げてきた。
「……リン、泣かないの。お父さんのことで泣いたって、何のメリットもないんだから」
ハク姉さんの言うことはもっともだ。お父さんに何か期待したって、時間の無駄。それなのに、わたしは涙を堪えることができなかった。
わたしがすすり泣いていると、ドアが遠慮がちにノックされた。ハク姉さんが「誰?」と訊いている。
「……お母さんよ」
「カエさん、お父さんは?」
「出かけたわ。多分、石山先生とやらのところでしょう。当分戻って来ないだろうから、二人とも、出てらっしゃい。朝ごはんができてるわ」
「うん……わかった」
「食堂にいるわ。支度ができたら、下りてきなさい」
お母さんが去っていく足音が聞こえた。わたしは涙を拭うと、ミミを抱いたまま、のろのろとベッドから下りた。着替えなきゃ……あ、着替えはわたしの部屋だ。
「ハク姉さん、わたし、自分の部屋に戻って、着替えてくるね」
ハク姉さんの部屋を出て、自分の部屋に戻る。ミミをとりあえずベッドの上に置いた時、また、昨日のことを思い出してしまった。一瞬で気分が悪くなる。わたしは、思わず床に座り込んでしまった。
……駄目だ、こんなことじゃ。わたしは立ち上がってミミを拾い上げると、クローゼットに入った。寝巻きから普段着に着替え、ミミをいつもの場所に戻す。リボンで束ねられた、レン君からの手紙が目に入った。瞬間、また、瞳から涙が溢れ出す。
レン君に会いたい。会って話がしたい。声が聞きたい。なんでわたしたち、離れ離れなんだろう。
クローゼットの中で、わたしはしばらく泣いていた。
それから過ぎていった日々のことは、実はよく憶えていない。いつも同じことの、繰り返しだったような気がする。大学はしばらく休んだ。こんな痣だらけの顔で、外になんて出たくない。当然、ミクちゃんからはわたしを心配するメールが届いた。ごめんねと謝りながら、わたしは「体調を崩した」と嘘の返信をした。ミクちゃんは「お見舞いに行く」と言ってくれたけど、わたしはそれを断った。この痣を見られたら、どうしてついたのかを説明しないとならなくなる。
そしていくつか、困ったことがあった。まず、自分の部屋で過ごせなくなってしまった。部屋にいるとどうしても、あの時のことを思い出してしまう。気分が悪くなり、震えが来て、吐き気がこみあげてくる。実際に吐いてしまったこともあった。
結果として、わたしは今まで使っていた部屋の、向かいの部屋に移った。お母さんは業者さんを呼んで、新しい部屋に内鍵もつけてくれた。新しい部屋で、内鍵をかけて、夜はベッドに入ったけれど、わたしの眠りは浅く、夜中に目覚めることも多かった。
更に、食事がほとんど喉を通らなくなってしまった。無理に食べると、これまた吐いてしまう。お母さんはわたしを心配して、おかゆやシチューなど、食べやすいものを必死になって作ってくれた。それでも、半分食べるのがやっとだった。わたしが食事を残す度に、お母さんは悲しそうな表情になった。……ごめんなさい、お母さん。
物事にも集中できなくなり、勉強をはじめとして、何事も手につかなくなった。先生に頼まれていた仕事も「身体を壊したので集中できなくなりました」と断ることになってしまった。何より困ったのは、レン君へ手紙が書けなくなってしまったこと。手紙を書こうと便箋を広げても、文章が浮かんでこない。ううん、浮かんではくるんだけど、どうしても泣き言めいた文章になってしまう。こんな手紙、見せるわけにはいかない。わたしはかろうじて「ごめんなさい。調子が悪くて、きちんとした手紙が書けそうにないの。今だけ少し休ませて」と書いて投函した。当然、レン君からはわたしを案じる手紙が届いた――ミクちゃんがわたしの家まで、わざわざ届けにきてくれたのだ――けど、それに返事を書くことはできなかった。レン君からの手紙を抱きしめて、わたしは辛さと申し訳なさでまた泣いた。
やがて大学が春休みになった。外れた肩は次第に良くなり、身体や顔についた痣も少しずつ薄れてきた。でも、不眠や落ちた食欲、集中力の欠如は変わらなかった。わたしは、人間としてどこか壊れてしまったんだろうか。お母さんに連れられて、心療内科も受診してみたけれど、わたしの状態は良くならなかった。
お父さんはというと、相変わらずで、「お前をいい家に片付ける絶好の機会だったのに、わざわざその機会を潰すとは」と散々愚痴った。お父さんにとって、わたしは片付ける対象なのか。わたし、何の為に生まれてきたんだろう。
一方で、政治家の石山先生とかいう人は、息子が起こした事件の詳細を聞いて、結局は示談にしてくれと言ってきた。ハク姉さんは「きちんと罪を償わせた方がいい」と言ったけれど、わたしはもう関わり合いになりたくなかったので「二度とわたしに近づかない」という念書を書いてもらうことを条件に、示談に応じてしまった。治療費とかはその時に払われたんだろうけど、細かい話は弁護士さんに任せてしまったので、どうなっているのかはよくわからない。
一つだけ、良かったことがある。わたしがこんなことになってからというもの、ハク姉さんは部屋に引きこもるのをやめて、出てくるようになった。お父さんが帰ってくるとすぐに部屋に引き上げてしまうけど、それ以外の時間は、部屋の外で自由に過ごしている。それに何より、お母さんと話をしてくれるようになった。何を話しているのかはわからないけど、きっと、お母さんにとっても、ハク姉さんにとっても、いいことなんだと思う。
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