「ああ、この鏡はここにあったのだったか」
少女は父親の言葉に顔を上げた。
父親が覗き込んでいたのは、少年と会話するための鏡。少女は慌てて声を上げた。
「あの、それ、なんだかとても気に入って…たまに使っているの。布を取ってしまってごめんなさい」
その言葉に、父親は驚いたような顔をした。
「いや、気に入ってくれたなら有り難いが。でも、気を付けるんだよ」
「え?」
「昔の人は、鏡の向こうに別の世界を見た。鏡の怪談というのが多いのもそのせいだろう。リンが行方不明になったりしたら、私は立ち直れないからね」
別の世界。少女は小さく繰り返した。
思い出すのは少年の姿。
確かに、「あちら」に行けるものなら少女は行ってしまっていただろう。父親の言葉は正しい。
だから、彼女は反論するかわりに別の言葉を口にした。笑顔を浮かべて。
「でも、もしかしたら、違う世界の人と仲良くなれるかもしれないわ」
きらり、と応えるように鏡面が輝いたのが嬉しくて、少女は笑みを深める。
対して、父親は何処か寂しそうに微笑んだ。
「それは、確かに。…しかし、必ず別離の時はやって来る。同じ世界に住む者同士でもそうなのだから、違う世界に住む相手となら尚更だ」
「…そんなもの、なの?」
「…そんなものさ」
<魔法の鏡の物語.4>
私は、鏡の表面をゆっくりと指先でなぞった。
戦争が終わり、私の足も見違えるほどに動くようになった。平和になったおかげで久し振りにお医者様に診て貰ったけれど、もう常人と変わらないという。ただ、あまり動かさなかったせいで筋力が落ちているのは仕方がないと思うけれど。
奇跡のようだ、と皆が言う。
私自身もそう思う。…いや、私はそれが本当に奇跡なのだということを知っている。
そう、魔法使いの少年が私に与えてくれた奇跡のうちの、たったひとつに過ぎないのだと。
「…レン…」
唇が勝手に呟いた名前にため息をつき、ゆっくりと鏡から指を離す。
このところ、レンが姿を見せることはとみに少なくなっていた。
姿を見せても、いつもどこか辛そうに見える。そんな彼に向かって沢山話をしたいだなんて言えない。なんとなく早く話を切り上げたがっているような気もして気になっているけれど、それも体調のせいかもしれないと思うと問うことも躊躇われる。
「…対価、って言ってたよね」
面と向かってだと上手く言えない言葉を、誰も映っていない鏡に向けて呟く。
「無理しないで、って、言ったのに…!…レンの馬鹿…!」
細かい理屈を何も知らない私が文句を言っても、何もならない。分かっているのに、時に彼に直接そう言いたくて堪らなくなる。実際、強い口調ではなかったけれど、何回かレンに言いもした。けれど彼は曖昧に誤魔化すばかり。
―――私の願いなら叶えてくれるんじゃなかったの?それともこれも、「ここに来てほしい」というのと同じで、どうしようもない願いなの?
こんな辛そうな彼を見るくらいなら、私の願いということにして会うのを…これ以上力を使うのをやめさせようかと思った事もある。
けれど、彼に会いたいという私の想いに、毎回負けてしまう。その上、勢いに乗って提案を言い出せたとしても、彼に少しでも反論されるとすぐに勢いをなくしてしまうのだ。なんだか情けないけれど、これも惚れた弱味というやつの一種なのかもしれない。
…レンとなかなか会えない、という事は、本当は私にとってそんなに嫌なことではないはずだった。だって、長く会わないという事はそれだけ彼の消耗が抑えられるということを意味するはずなのだから。
けれど、その一方で、もやもやした感情もまた胸の中にわだかまっている。
―――会いたい。
端的に言えば、そういうこと。
世界が平和になって、体もほぼ健康体になった。だから私はどこにでも行ける。家の中に閉じ籠っている必要なんて、もう、ない。
けれど実際の私は、暇さえあれば私はこの部屋に来て鏡の前に座り込んでしまう。レンに会う時間を逃したくなくて。…彼の負担になると分かっているのに。
会いたい。
会えない時間を重ねる度に、会いたさが募ってどうしようもなくなっていく。光を持たない鏡を見る度に、泣きたいほどの激情が込み上げてくる。
「……レン……」
頬を鏡に擦り寄せるようにして、私は心の中で彼に語りかけた。
今、どうしているの?
私の事、少しでも考えていてくれたりする?
おかしいね。レンに初めて会ったのはつい昨日の事のように思えるのに、それがもう半年も前の事だなんて…。そう計算してみると、この鏡の前で泣いたあの日から、どうしようもなく時間が経ってしまったような気分になる。
レンと一緒にいる時間は、驚くほど早く過ぎていく。
…怖い。
今更、そんな事を実感する。
…私達の鏡越しの会話に、ちゃんと「次」はあるのかな…?
「リン?」
「ひあっ!?」
不吉な想像に身を震わせた瞬間に声を掛けられて、私はその場で飛び上がった。タイミングの問題もあったけれど、その、かなり耳元で名前を呼ばれたせいもある…と思う。びっくりした。
慌てて飛び退くと、鏡の向こうではレンが驚いたような顔をしていた。普通の顔をしてこちらを見ているのが何となく悔しい。
「え、リン?…どうかした?」
怪訝そうな問いに、少しだけ省略した答えを返す。
「び、びっくりした…だけ」
「ならいいんだけど。凄い顔してる」
自覚はあったから、私は赤くなって黙り込むことしかできなかった。
そんな私を見て、おかしそうに、嬉しそうに、優しい眼差しをした彼が笑う。
それで余計に頬が熱くなって…
「…レンのばか。そんなに笑うことないじゃない」
「そんなに笑ってないよ」
「嘘、今だって笑ってる!」
「あ。…あー、いや、なんかリンって拗ねてる顔も可愛いからさ」
「かっ…!?ば、ばかばかばかっ!なんだかそれ、下手に罵られるのよりずっと精神的に辛いわ」
「そこまで言うかなあ。ああ、言っとくけど、僕は本気だからね」
本気とは何が本気なのだろう。…可愛い、とか、本気だと思っていいんだろうか。いやでも「本気でからかっている」の略かもしれない。
それに仮に「本気で可愛いと思っている」としたって、だからどうなるって訳じゃないし…
…いや、それは、まあ…勿論嬉しい、けれど。
口元が勝手ににやけるのを止められない。
それでも少し俯いて笑みを噛み殺して、レンに変な顔を見られないように工夫してみる。無駄なあがきかもしれないけれど、やらないよりはましだと思いたい。
くす、と頭の上から笑い声が聞こえて、頬がもっとあつくなる。
なんだか私達はこのパターンばかり。
大体レンのせいなんだから、と少しだけ恨みを込めて鏡の向こうを見上げると、予想通り彼は含み笑いをしていた。
最近は常に疲れたような空気を纏っていたレンだけれど、こうして笑っていると出会ってすぐの頃とそう変わらないような気がする。…笑われるのは恥ずかしくて苦手でも、レンがこんな顔をしてくれるのなら、それはそれでいいや。
「…ね、レン、体調はいいの?熱とかないの?」
少し前はレンから問われていたことを、今度は私が口にする。それに不思議な気分を感じながら、私は鏡に両掌を付けた。
レンは鏡の向こうで少し眉尻を下げる。
「大丈夫だよ」
「…」
今一つ信じられなくて、私は頬を膨らませる。
大丈夫…本当にそう?
出来るなら、私の五感で確認したい。けれど常に鏡越しである以上、当てになる感覚なんて…
「…あ、そうだ!レン、ちょっと鏡におでこ当ててみて!」
「はい?」
「本当に熱がないか、確認!」
「確認?…ってちょっ、まさか!?本気!?」
私の意図を察したらしく、鏡から半身ほど身を引くレン。確かにそれは正常な反応、けれど私も譲るつもりはない。
「レン…」
疚しいところがないなら早く、と目で催促すると、暫くの逡巡の後、「仕方ないなあ」という呟きが溢された。
きまり悪そうに鏡に額を当てるレン。間に髪を挟まないように手で払い除ける仕草に心音が弾む。…言い出したのは私なのに、情けない。
そっと顔を近づけると、レンは慌てたように瞳を閉じた。
長い睫毛がどこからか入り込んだ光に当たってきらきら輝いているのがとても綺麗で、私は少しの間それに見惚れる。
今こちらの部屋に電気は点いていないし、日が差し込む時間帯でもない。つまり、彼を輝かせている光は、彼の属する世界のもの。やはり、私と彼の世界は…どうしようもなく分かたれている。
―――それを思うと無性に悲しくなって、私はそっと鏡面越しに額を合わせた。
無機質な硝子を何故かものともせずに抜けてくる、温かさ。
レンに熱はなかった。むしろ無駄に上気している私よりも低いくらいの体温が、じんわりと染み込んでくる。
レンに倣って目を閉じると、その感覚はよりリアルに感じ取れた。
…触れたい。
鏡越しなんかじゃなく、触れたい。
ほう、とため息をついたのとほぼ同時に、鏡の向こうの熱が離れた。…あ、違う、まだある…ん?あれ、やっぱり離れた?
何が起きたのか分からない。
閉じた目を開けてレンを見てみても、レンは斜め下を見たままでこちらを見てくれない。ただし付けていたはずの額は離されていたから、やっぱりあの時に鏡から離れたらしい。
「レン?」
「い、いや…なんていうか、ごめん」
「へ?」
「…ごめん」
「…?」
何故か謝罪を繰り返すレン。
意味がわからないけれど、こうなってしまうとこれ以上追及しても答えてくれない。レンはたまに凄く頑固なのだ。そのくらいのことは彼と過ごした時間の中で学んでいた。
だから、疑問符を浮かべながらも首を縦に振っておく。ここは話題を変えておいた方がいいのかもしれない。
「うん、…えと、熱はないみたいだね。良かった」
「だから大丈夫だってば。本当にリンは心配性なんだから」
「だって、レンが体を壊したりなんてこと、考えるだけで嫌だもの。…おかしい?」
「…い、いや、おかしくない…っていうか上目遣いやめて…」
「ぅえ?…あ」
またもや視線を逸らすレン。
私、また何か変なことをしてしまったんだろうか。
…もしかして最近レンが姿を見せてくれないのは、私が知らないうちに彼が嫌がるようなことをしていたから?
あり得る。
私、同年代の子との接し方なんて知らない。
だから…
「…ねえレン、ずっと側にいてくれるよね?」
さりげなさを装って、一番の願いと不安を言葉にしてみる。
嘘でも肯定して欲しい。それだけで心は格段に安らぐ。
「何?どうしたの、急に」
「何となく…不安になって」
レンなら私の不安なんて一笑に付してくれるかもしれないと思っていた。
でも、実際は―――…
「それは…約束、できるかどうか、わからない」
―――ざくり。
レンの言葉が私に刺さる音が、確かに聞こえた。
彼の青い目が何かを促しているような気がしたけれど、何を求めているのか分からなくて応えられない。というか、そんな冷静に考えられない。痛い。痛い。
だけど、泣きそうになる心をギリギリのところで圧し殺して笑顔を見せる。我が儘は、言えない。
「そ…だよね。…ごめんなさい、変なこと言って…」
「…リン」
「忘れて!」
その場の空気に耐えられなくなって、私は鏡の前から逃げ出した。
―――そんなことをしたのは、初めてだった。
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ご意見・ご感想
アストリア@生きてるよ
ご意見・ご感想
初めまして、ストーカーの如くすべての作品を見て読んでました!
ああ…続きが…気になる…!
やっぱイケとヘタレが混ざったレンっていいですねwww
2011/08/29 08:41:09
翔破
はじめまして、コメントありがとうございます。
おおっ、拙作を全て見て頂けたんですか…!ありがとうございます!
一応リンちゃん視点で次(とその次)を書いて、レンくん視点をさらっと書いて終幕、という流れになると思います。なので完結まではもう少しかかる事と思います、すみません!気長にお付き合い頂けると嬉しいです。
ヘタレが混ざってもいいと言って下さるとありがたいです。
どうも私はイケレン一筋!なレンが書けないようなので…。ごめんよレン。
2011/08/29 21:54:05
目白皐月
ご意見・ご感想
こんにちは、目白皐月です。
二人のやりとりがとても可愛いです。
あの……もしかして、リンが目を閉じている間に、レンはキスしちゃったんですか?
状況を考えるとそうとしか思えないのですが。
最後、ハッピーエンドになるといいなと思っています。
2011/08/28 23:24:15
翔破
こんにちは、こちらでもありがとうございます。
うっ…ばれるだろうなとは思っていたのですが、やはりばれましたか…
はい、レン君でこちゅーしてます。でもちょっと踏み込みが甘いのでそこでリタイアしてしまいました。どうせなら最後までやっちゃえばいいのに。
その辺の心情は、後ほどレン視点でさらっとやるつもりです。ヘタレン!ヘタレン!
この話の終わり方は、ハッピーエンドになります(というと大体展開も読めるてしまうのでしょうが…)。あまり展開をひねるのが上手くないのが口惜しいです!
2011/08/29 21:49:57
ゼロ鳶
ご意見・ご感想
リンレン愛がもうとまらない!!
2011/08/28 20:21:20
翔破
最近はピクシブ・ピアプロ両方でのコメありがとうございます!嬉しいです!
私もリンレン愛が止まりません。
どうにかして発散せねば!…そして出来あがったのがこれです。なんという…
2011/08/29 21:43:18