そして迎えた初出勤の朝。僕は久方ぶりの見送りに玄関先まで立ち、懐かしさと新鮮さが入り混じった奇妙な感覚のまま挨拶を述べた。
「いってらっしゃいませ、マスター」
「ああ、行ってくるよ。留守番たのむな」
 もう何年もご無沙汰な気がしていたのに、交わす言葉は以前と全く同じだ。きっとどれだけ時間を置いても、未来が過ぎ去っても、この心地よい距離はずっと変わらないのだろう。その確信に後押しされ、僕は穏やかな気持ちで一晩考え明かした末の結論を口にした。
「あの、マスター。これまでは勝手にパソコンから出てきて行動してましたけど、明日からは――……パソコンの中で待ってます。マスターが帰ってきて、パソコンをつけてくれた時に、改めて挨拶することにします」
 マスターからすれば唐突も甚だしい発言に違いない。また昨日のように理由を訊かれるかと、僕は軽く身構えた。別に答えたくないわけではない。ただどう言葉にすればいいのか整理がつかなかった。普通のボーカロイドの生活とは違う暮らしを送り続けること、それがあまり褒められたものではないから。そう答えればいいのだろうか。でもそれだけじゃないような気もするし――……。
 こんな僕の逡巡を、しかしマスターは追及しようとはしなかった。少し目を伏せ思案げにした後、顔を上げて僕の意思を了承してくれる。
「そっか。……じゃあ、これからはお前に朝起こしてもらえなくなるんだな。遅刻しないよう気を付けないとな」
 案外あっさりと受け止められ、僕は若干拍子抜けの気分でマスターを見つめた。そんな僕に一度瞬き、マスターはどこか感慨深そうに続ける。
「見送りも、今日で最後か」
「寂しいですか?」
「まあ、少しだけな。もう日課みたいになってただろ。だから慣れるまでは寂しいかもしれない」
 どうしたんだろう。今日のマスターはやけに素直……というか、ぐいぐい引っ張っていく強引さがない。急にこんな態度を取られると逆に不安になってしまう。
「じゃあな」
 そうしてまたもそっけなく手を振り背を向けたマスターへと視線を注ぎ、そこで僕ははっと思い出した。
「あっ……マスター!」
 そうだ。僕はもう一つ伝えなくちゃいけないことがあったんだ。
 何よりも大切で替えの利かない唯一の感情。人の目など気にせず、僕は芯を通した声を張り上げた。
「僕は……マスターのこと大好きですよ!!」
 これだけはちゃんと言葉にして伝えないといけない。素振りだけでは伝えきれないから。一回で届かないなら何度でも、何百回でも。ずっとずっと伝え続けて渡し続けて、それでも決して擦り切れることなんかない想いの在り処。僕の“心”は確かにここにある。マスターに向けて全力で回っている。
「んなこと最初からわかってるよ!!心配すんな!!」
 その中心に響く声でマスターはそう言い笑った。あけっぴろげで能天気、僕のことなんて何もわかってくれない鈍感なマスター。その癖、いつも知らない間に僕を掬い上げては、素知らぬ顔で兄のように手を引いてくれる。
 そして折りを見て繋いだ手をそっと離し笑いかけるのだ。“ほら、もう一人で歩けるだろう?”と。僕を一人前と認めて、一緒に歩こうと振り向く。もしかしたら今回理由を訊かなかったのも、弟の自立を祝福してくれたからなのかもしれない。
 ふと湧き上がったこの想像。マスターが残した明快な台詞。そこから生じた諸々の想いを声に出すとどうなるだろうか。
「……マスターなんて、大嫌いです」
 胸に甘く落ちる宝物を両手で受け取り、僕は自然に浮かぶ微笑と共にそう独り言ちた。


(続く)

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

おはようからおやすみまで暮らしを見つめるのは 11-②

①の続きです。

このKAITOが病むことは必然だったのではないか、と見直しつつ考えたりしていました。
うまく説明できませんが…“心”を育むのに必要なプロセスだったのでは、と思えてなりません。
何にしろ、最終的に幸せになってもらえればそれで構わないのですが><

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閲覧数:86

投稿日:2011/08/24 04:20:36

文字数:1,490文字

カテゴリ:小説

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