3.
 勉強が可能だということと、勉強が得意だということは全く意味が違う。
 そんな、当たり前の事実がみくを苦しめる。
 漢字の書き取りも苦手だったが、数学はそんなものとは比較にならなかった。
 そもそも中学校レベルの数学についていけなかったみくは、特別に小学校レベルの内容から教えてもらっていた。
 そういう意味では、みくが学んでいるのはまだ数学ではなく算数だったのだが、それでも難しいことに代わりはない。
 みくは分数が苦手だった。小数があるのに、わざわざ分数などという表記が存在する理由が理解できない。これ以上数学が難解になったら、高卒資格どころか中卒すら可能なのかあやしいと思えてくるのだが、隣の席の人は数字どころかxとかyとかの記号をノートに書いていた。そのうちそれを自分もやることになるのかと思うと、横目に見るだけで絶望を感じてしまう。
 中山先生は「初めは大変かもしれませんけど、何事も慣れですから。みくさんは飲み込みが早いので、そのうち簡単に思えてきますよ」と言ってくれていたが、みくには全く自信がない。
 その後、社会や理科なんかの授業をこなし、二十一時過ぎに学校を出た。
 行きと同じはずの一時間半の道程は、疲れのせいかひどく長い道のりに感じた。
「……ただいま」
 玄関の扉を開けて、答えなどないとわかっている言葉を、それでも口にしてみる。
 まるで、まるで……まだ一人ではなかった頃と同じように。
 けれど、誰もいない四畳半の狭い部屋から返事が返ってくるはずもなかった。冷たい静寂だけが、みくへの返答だった。
 玄関を閉めて靴を脱いで、暗く静かな部屋の真ん中で立ちすくみ――みくは無性に泣きたくなった。
 なんでここまでして生きているんだろう。
 なんでここまでして生きようとしているんだろう。
 あの子もいないのに。
 きっと誰からも必要とされてない。
 自分に生きている価値などいくらもない。
 なのに、自分の半分の歳の子たちが楽にこなしている勉強を必死になってやって、大したお金にもならない安い給料のパートで一生懸命働いて……みっともないくらいに、死に物狂いで生にしがみついている。
 ここで死んでも、誰も困らないのに、なんで私は――。
 ……ダメだ。こんなことばっかり考えてちゃ。
 嫌な思考を振り払おうと自らに言い聞かせてみるが、なかなかうまくいかない。
 ……お風呂、入ろう。
 みくは、気分転換に久しぶりに銭湯に行くことにした。
 このアパートの部屋にはシャワーしかない。銭湯も回数を重ねると金額がバカにならないので、普段はシャワーで済ますみくだが……たまには、こんな気分のときくらいは、気分転換をしたっていいだろう。
 そう決めたら、すぐに行くことにした。このままだととことんまでネガティブ思考に落ちていってしばらく帰ってこれなくなってしまうことを、みくはこれまでの経験で学んだからだが、そもそも銭湯の営業時間に間に合わなくなるという理由もあった。
 考えすぎないようにして別のことをするのが、ネガティブ思考を加速させない、メンタルをコントロールする方法の一つだと教わった。あれは……公判中に出会った一人のジャーナリストだった。
「世の中の仕組みは、日本国の法規は、貴女を罰することになるでしょう。ですが、この件に関して……私は、貴女をこのような立場に追いやることになったこの国の法規そのものが、仕組み自体が間違っているのだと思っています。残念ながら、この国が貴女に科す刑罰を止める手だてを私は持っていません。それでも、この事件はそれを変えるきっかけになれるんじゃないかと思うんです。そうすれば、貴女と同じ境遇の多くの人を救えるかもしれない」
 初めて会ったときの熱意に満ちた表情を思い出す。
 けれど、その熱意に応えられるほど、当時のみくに精神的な余裕などなかった。
 みく自身しっかりと覚えているわけではないが、「だからなんなんですか?」という言葉に近い返答をしたことは彼女自身覚えている。
「……白状しましょう。恐らく、貴女にはそれほど大きなメリットはないんです。でも、日本社会はこの問題を抱えている人たちが沢山いることをもっと知らなければならないし……そんな、仕組みからこぼれ落ちてしまった人たちへの対応を考えなきゃいけない。それはきっと、とても大事なことなんです」
 当時四十代前半だったその女性は、今でもジャーナリストとして仕事をするかたわら、女性の抱える様々な問題への相談ホットラインを運営しているのだという。
 当初は全然心に響いてこなかったその人の言葉も、今となっては自分にはない強い信念を持ったすごい人だな、と思い知らされる。
 そんなことを思い返しながら、近くの銭湯にやってくる。
 銭湯の建物内は、活気に満ちていた。
 かしましくおしゃべりをしているおばさんたちや、テレビを見ているのか寝ているのかわからないお婆さん。その合間をすり抜けていくようにして走り回っている子どもたちと、「やめなさい!」と声を張り上げる親たち。
 営業時間終了まで一時間もないわりに、意外に混雑しているな、というのが第一印象だった。
 彼らを通りすぎ、脱衣所で服を脱ぎ捨て、さっさと髪と身体を洗うとみくは全身を湯船に沈めた。
 これが自宅の風呂だったなら、頭まで沈めていただろうな、なんて思う。
「はぁー……」
 お湯の温かさに、思わずため息が出る。
 普段味わえない、身体の芯から温まっていく感覚。
 冷えきっていた四肢が急に温められたせいか、ビリビリと痺れるような感覚さえある。
 手をお湯から出して、握ったり開いたりを繰り返してみる。
 この手を、この指先を握っていた幼子のことを思い出してしまう。
 手を伸ばしてももう届かない、真珠のきらめきのような夢物語になってしまったそれ。
 ――許して。ごめんなさい。
 みくはそう考えずにはいられなかった。
 許してもらえることなどあるはずもない、自らが背負った業。今さら許してなどと、どの口が言えるのか……。
 湯面に映るうつむいた自分の顔。そのゆがんだ鏡がゆらめいて……あの子の顔に変わる。
「……っ」
 恐怖に顔が強張るのがわかった。周りの声など一切耳に入らなかったというのに、ひゅっと息を吸う音はやけにハッキリと聞こえる。
 怯えたみくとは裏腹に、鏡の中の幼子は無邪気な笑顔を浮かべていた。
 思い出の通りの笑顔に虚を突かれ……ハッとしたときにはもう、そこに映っていたのは、疲れきってやつれた自分の顔だった。
「……」
 ずっとわからなかった、あの子の胸の内。
 なにが楽しくて笑っているのかわからなくて困惑したあの頃。
 なにが嫌で泣いているのかわからなくてあたふたしたあの頃。
 そして今でも、急に現れたあの子の表情に困惑している自分。
 どうすれば良かったんだろう。
 そう思って、みくは自分の身体をお湯に深く沈める。
 時間ギリギリまで、湯あたりしてしまうまで、たっぷりと時間をかけて。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

水箱  3  ※二次創作

第三話

今回、実は「メモリエラ」の時と同じく、参考文献があります。
一話目の時点で載せなかったのは、その参考文献のタイトルがすでにネタバレになってしまうためです。

なので、参考文献は最後か、最後のひとつ前に載せるようになると思います。

閲覧数:33

投稿日:2017/12/24 20:52:39

文字数:2,896文字

カテゴリ:小説

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