生き延びる意志

「待てぇ! この盗人!」
 背中に怒声を浴びせられ、しくじった、とリンは内心で悪態を吐く。走りながら振り返ると、商品を盗られて立腹した店の主人がこちらに向かって来るのが見えた。後ろの確認は最小限にして、前を向いて全速力で王都の通りを駆ける。
 捕まってたまるか。
 継ぎ接ぎだらけの薄汚れた服を着て、一つのパンを握りしめて走るリンはかなり目立っていた。リンは周囲の人からの視線を無視して、とにかく追跡から逃れる事を考えて足を動かした。

 リンが王宮を追放されてから三年の時が過ぎた。貧民街の状態は相変わらずで、国は支援も改善も行おうとはしない。そんな環境の中、リンはひたすらその日その日を生きていた。
 貧民街で暮らす子どもの集団に混ざって食べ物を分け合った事もある。泥だらけのパンを食べて飢えを凌いだ事もあり、その度にリンは両親から聞いた話を思い出しては、自分がどれ程恵まれていたのを痛感した。
 毎日暖かいご飯が食べられるのはとても幸せな事で、それが当たり前な事に感謝しなくちゃいけないのだと。
 働きたくても、子どもだから、貧民街に住んでいるからと言う理由でどこに行っても雇って貰えなかった。まれに仕事があっても僅かな金しか貰えず、一食分にすら満たない事は当たり前。何も食べられない日が続くのも珍しく無かった。
 貧民街に一番近い王都の地区に行き、盗みをした事だって一度や二度じゃない。
 泥棒をするのは良くない事なんて分かっている。追放されてすぐ、黄の国王女リン・ルシヴァニアは死んだ事にされても、王女としての誇りだってあった。だけど、仕事も無ければ古パン一つ買う金も無い状況で、そんな事を言ってはいられない。
 貴族の財布に手を出すな。暗黙の決まりさえ守れば、貧民街の住人達は生きる為の盗みを頭ごなしに咎めはしなかった。貴族の持ち物に手を出したら最後、その場で相手に殺される。下手をすれば貧民街を一掃される事になりかねない。
 身分を理由に人を馬鹿にして、有り余る金で無駄に優雅な生活を送る貴族より、貧しいながらも懸命に生きる貧民街の住人達の方がずっと逞しい。
 八歳からの三年間を貧民街で過ごしたリンはそう感じていた。

「そこのガキ! 待てと言っているだろうが!」
 再びの怒声。いつまでも追いかけて来る相手に、リンは感心と呆れが入り混じった感想を抱いた。
 しつこいなぁ、もう。
 今回の相手はかなりしぶとい。いくつも道を折れ曲がって駆け抜け、路地を見つけては飛び込んで逃げているのに、まだ店の主人を振り切れずにいる。
 世間話に盛り上がる女性達の間を突っ切り、何か話し合いをしていた男性達の脇をすり抜け、リンと店の主人は距離を詰めたり広げたりしながら逃走と追跡を続ける。
「このっ……、ちょこまかと……!」 
 背後から苦しそうな声が聞こえ、リンは多分息が上がっている店の主人に言いたかった。
 いい加減諦めて欲しい。
 こっちも休まず走り続けたから息が苦しい。足を上げるのも辛いので歩きにしたいが、相手に隙を見せる訳にはいかない。ここまで逃げて捕まったら、今日の苦労が水の泡になる。
 片足の靴底が剥がれ出したのは、何度目か分からない曲がり角を通り抜けた時だった。ぼろぼろの靴は一歩進むごとに底が剥がれ落ちていく。
「あっ!」
 半分垂れ下がった靴底を踏んでしまい、足が縺れたリンは派手に転んで地面を滑った。片方の靴が脱げて素足に冷たい感覚が伝わる。体に走る痛みは強かったものの、リンはパンを手放さなかった。
 角を曲がった先で転んでいたリンを見つけ、ずっと追いかけていた男は大声を上げる。
「そこで転んでいる金髪の子どもは泥棒だ! 誰か捕まえてくれ!」
 まずい。逃げなきゃ。
 靴は後回しでも良いと決め、リンは地面に手を突いて体を起こす。立ち上がって走ろうとした瞬間誰かに腕を掴まれた。背中に衝撃を与えられ、呼吸が一瞬出来なくなる。
「っ! 放して! ……放せぇ!」
 殴られて止まった息が元に戻り、リンはあらん限りの力で拘束を振り解こうとする。しかし捕まえている力の方が遥かに強く、掴まれた腕を後ろに回されて地面に取り押さえられた。大人しくしていろと命令する声が聞こえたが、言う事を聞く気など全く無い。逃げる事を諦めずに足をばたつかせる。
 リンに散々振り回された男が怒りの形相で歩き進み、一歩一歩確実に近づいて行く。
「やっと追いついたぞ、このガキ……」
 足を止めた男は盗人を捕まえてくれた人に礼を言い、石ころを蹴るように脚を振り上げた。
「この泥棒猫が!」
 目が合った刹那に腹を蹴られ、腕を解放されたリンは勢いよく地面を転がった。鈍痛と気持ち悪さが全身を駆け巡り、意識が飛びかける。
「がはっ!」
 緩んでしまった手からパンの手応えが消えてしまい、リンは落としてしまったパンへ手を伸ばす。だが、即座に手を踏みつけられて動きを封じられた。
男はリンの手を踏んだまま肩を蹴飛ばし、襟首を掴んで引き上げて頬を殴りつける。リンが呻くのにも構わず、殴る蹴るの暴力を繰り返す。
「お前のような奴がいるから治安が悪くなる! この社会のゴミが!」
 男は好き勝手に喚き、暴力を振るう事を止めない。周囲の人は男の行動を見て迷いの表情を浮かべ、しかし巻き込まれるのを恐れて息を潜めている。リンが盗みを働いたと言う事もあり、誰も口を出せずにいた。

 周りをまともに見る事すら困難な中、リンは這ってでも逃げようする。しかし、少しでも抵抗する素振りをすれば罵声を浴びせられ、今度は頭を蹴飛ばされた。
 拳と足を振るう男は笑みすら浮かべている。最早盗人を捕まえる事などすっかり忘れて、抵抗できない者を一方的に攻撃できる状況が楽しくて仕方が無いようだ。
 このままだと、死ぬ。殺される。
 盗みをして捕まって、殴られたりした事は初めてじゃない。これまでの相手は盗んだ物を取り返せればそれで良いのか、殴られると言っても大体は一回で済み、相手の気が緩んだ隙に逃げ出せたのもあって、必要以上の攻撃を食らう事は無かった。
 だけど、今回はいつもと明らかに違う。盗まれた物は取り返せるのに、向こうはそれをしようともしない。落ちたパンは地面に転がってそのままだ。
 盗んだ物は、木炭で絵を描く時に使うか、鳥の餌にくらいにしかならない古パンだ。数日売れ残って固くなったパンは、普通に暮らすほとんどの人達は食用にしない。
 食べ物を盗む時は、なるべく捨てられる間際の物や残り物を狙って盗るようにしていた。泥棒をする事は変わらなくても、そうした方が少しは気が楽になったから。
 悪い事をした自覚はある。泥棒をした事は本当だ。けど、いくらなんでも今回の制裁は異常に感じる。相手は盗みをした人間を責め立てるのに夢中で、自分が何をしているのか分かっていないのかもしれない。
 リンは止む事の無い暴力の嵐から僅かでも逃れようと、固い道に爪を立てて腕を動かす。
「く、う……」
 生きて。レンがあの時伝えてくれた言葉を忘れた日はない。王宮を追放されてからは、弟の一言が心の支えだった。
 レンとまた会う為に生き延びる。その思いにしがみついてリンは生きていた。
「逃げるな! この汚い盗人が!」
 怒鳴り声と共に胸倉を掴まれ、リンはほぼ宙吊り状態で立たされた。両腕は力なく垂れ下がり、つま先立ちの足は体を支えようとして微かに震えている。
 生きなきゃ。
 荒い息をしながら、聞こえるか否かの声で呟く。切れた口端から血が流れていた。相手の顔を見ないまま、リンは胸倉を掴んでいる手を放そうとする。両手で男の腕を掴みはしたが、力の差があり過ぎてびくともしない。
「まだ抵抗するか!」
 男は胸倉を締める力を強めて拳を振り上げる。顔を殴られると瞬時に判断し、リンは反射的に目をきつく閉じ、咄嗟に歯を食いしばって備えた。
 間も無く衝撃が襲ってくると思っていたが、不思議な事にどちらもやって来る事は無かった。
代わりと言ってはおかしいが、男とは違う声が割り込んだ。
「――そこまでにして貰えませんか?」
 場違いな程落ち着いた声が耳に届き、リンは恐る恐る目を開く。男が振り上げた拳と、その手首を掴んで止めている手が見えた。予想もしなかった展開に驚きつつ、拳を制止させた手を辿って行く。
 男の斜め後ろから腕を伸ばしていたのは、黒い髪に眼鏡が特徴的な男性だった。眼鏡の男性は掴んだ手首を離さずに口を開く。
「その子が盗みを働いたのは事実でしょうが……。折檻はもう充分でしょう」
 静かな口調で穏やかな表情だったが、眼鏡の奥から厳しい目を男へ向けている。これ以上の狼藉は許さないと伝えていた。
 眼鏡の男性の雰囲気に押されて男は動揺し、それを隠すように怒鳴り散らす。
「だ、誰だあんた!? いきなり何だ!? あんたにゃ関係の無い事だ、すっこんでろ!」
 威勢こそ良いが腰が引けている。眼鏡の男性に従う形で拳を下ろしはしたが、まだリンを自由にしていなかった。
「こいつは盗人だ」
 男は憎々しげにリンを睨みつけて揺り動かす。小さな呻き声が聞こえて、眼鏡の男性は僅かに眉を潜める。懐に手を入れ、そこにあった物を取り出した。
「せめて盗まれたパンの代金分は働かせて……」
「失礼」
 眼鏡の男性は男の手を取って何かを握り込ませる。何なのかは分からないが、リンはそれが一瞬だけ光を反射したのだけは見えていた。
 男はリンを放さないまま、渡された物を確認しようと視線を下に向ける。そして、手の中にあった物を見て目を見開いた。驚愕のあまりもう片方の手が緩む。
「痛っ」
 急に手を放されたせいで尻餅をつき、リンはぶつけた所をさする。眼鏡の男性は一度リンに顔を向けてから男に尋ねた。
「……それで足りますか」
「あ、ああ……。いや、しかし……」
 反論をさせない口調で告げられ、男は自分の手と眼鏡の男性を交互に見やる。何度かその行動を繰り返してからリンを一瞥し、パン数個を買っても釣りが来る金を握り締めて去って行く。
 逃げるようにこの場から離れる男を、リンは視界から消えるまでずっと見ていた。
 助かった……?
 リンが思ったのはそれだけだった。呆然として安堵感が湧いてこない。
 とりあえずこれからどうしよう。上手く回らない頭で漠然と考えていると、目の前が少し暗くなった。誰かが正面に立っていると気付き、リンはぼんやりと顔を上げる。
「君、立てるかい?」
 眼鏡の男性と目が合い、気遣いの言葉と共に手が差し伸べられる。リンは素直にその手を取ろうとした。
 指先が触れた瞬間、小さい手が大きな手を叩く。手の平と甲がぶつかって乾いた音を立てた。
「……この偽善者」
リンは差し出された手を払いのけて立ち上がり、眼鏡の男性の脇をすり抜ける。
「待つんだ。手当てをしないと……」
 呼びかけを無視して走り出す。落としたパンを拾い上げ、片足が裸足なのも構わずに遁走していた。

 あんなの嘘に決まってる。
 全身に残る痛みに時折顔をしかめつつ、リンは足を進めていた。貧民街に戻ってもちゃんとした治療なんて出来ないが、あの場に残っているよりずっと良い。
 両親が亡くなって王宮を追い出されてから、リンは大人に対して強い不信感を抱いていた。
 ふざけた言い伝えを信じる大人達のせいで弟と引き離され、リン・ルシヴァニアと言う存在を抹消された。貧民街に来てからは、頼まれた通りに働いたにも関わらず難癖を付けられて報酬を減らされた事や、ただ働き同然にされた事もある。
 あの眼鏡男の言う事を聞いていたら一体どうなっていた事か。呆気に取られていたとはいえ、ちょっとでも警戒心を鈍らせていた自分を恥じたい気分だった。
「あれ?」
 がくんと目線が低くなる。路地の壁が斜めに傾く。膝が勝手に曲がる。空いている手の平が擦れて、片足の甲と頬に冷たい感覚がした。地面がやけに近い。
 倒れた。と理解するまでにしばらくかかった。立ち上がろうにも力が入らない。
 そっか……。もう体力残ってないんだ……。
 まるで他人事のようにリンは考える。体中が熱っぽい。全力で逃げ回ったのに加え、あれだけ殴られたりすれば当たり前の事だった。
 体、動かないな……。
 指先を動かすのでさえ辛い。また手放してしまったらしく、パンの感触が消えていた。探そうにも目がぼやけて良く見えない。
 暗くなっていく視界で心に浮かんだのは、離れ離れになった弟の事だった。
 レン……。もう会えないのかな……。
「……いた! 君、――」
 足音が頭に響く。真っ暗な世界で、遠くから声が聞こえた気がした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

蒲公英が紡ぐ物語 第6話

 書きたい事やストーリーはほとんど決まっているのに、いざ書くと文量が増える不思議。上手く行かないものです。

閲覧数:370

投稿日:2012/04/03 21:06:12

文字数:5,206文字

カテゴリ:小説

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    ご意見・ご感想

    おひさしぶりです!遊びに来ました。
    虐げられた者の気持ちの描き方が、ぞくぞくしますね。
    今は無力で、運命によって心を捻じ曲げられてしまったリンちゃんが、これからどう育っていくか、楽しみにしています。

    2012/03/24 21:47:37

    • matatab1

      matatab1

       こんいちは。お久しぶりです。

       正直言うと、「リンを苛めすぎだろ!」って思ってました。自分で書いておいて。
       濡れ衣着せられたり、不治の病に罹っていたり、家を追い出されたりと、長編のリンはやたら不運に見舞われてます。話の都合と言え、リンには申し訳ないです。
       彼女がどう育っていくかの鍵を握っている人は、既に登場しています。長くなりそうな話ですが、よろしくお願いします。

      2012/03/25 13:37:38

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