第二章 ミルドガルド1805 パート9

 翌日、まだ朝日も出ていない早朝にルカは目を覚まし、もぞもぞとベッドから起き上がると日の出前の薄明かりを頼りに宿の寝室に用意されている化粧台へと赴き、そして丁寧に自身の長い桃色の髪を梳き始めた。軽く跳ねている髪を櫛で押さえつけ終わると続けてルカは軽く化粧を施す。女ばかりというこの時代には珍しいメンバーでの旅になるけれど、最低限の身だしなみは整えておかなければならない。そう考えながらファンデーションを軽く叩く様に頬に押し当て、最後に赤みの薄い口紅で仕上げを整えたルカは化粧台から離れるとネグリジェを解き、普段から着用している黒一色の魔術法衣に袖を通した。着替えを済ませるとルカはリンとハクの為に購入した土産物の入ったバッグを持ち上げて寝室を出る。長旅の場合、極力早い時間に出発することはこの時代では常識とも言えた。ルータオまでは早馬で駆け続けても三日はかかる。勿論三日という移動時間は駅伝制度を利用した場合の速度になるから、通常は一週間程度の時間が必要であった。リーンは果たしてこんな長旅を経験したことがあるのだろうか、とルカは考えながら宿のチェックアウトを済ませ、預けていた愛馬の手綱を取ると乗馬せずにそのまま、朝日が昇り始めたゴールデンシティの街をゆったりと歩き出した。メイコとは日の出の頃に西大門で待ち合わせることになっている。ここからならばのんびり歩いても五分もかからない距離であった。朝の済み渡った空気に向かって深呼吸したルカは、肺が新鮮な空気で満たされてゆくことを実感して満足感に溢れた溜息を漏らした。
 やがてルカが西大門に到着すると、メイコと、少し眠たげな表情をしたリーンの姿がルカの瞳に映った。リーンはメイコから借りたのだろう、今日はちゃんとした衣装としてのカーチフを頭に巻き付け、金塊の如く輝く金髪を見事に隠している。通常よりもカーチフを目深に被り、天然のサファイアの様に輝く蒼眼を目立たないようにする工夫はメイコの指導によるものだろうか。
 「昨晩は寝付けなかったの?」
 ルカがリーンに向かってそう言うと、リーンは僅かに頷き、そしてこう言った。
 「昨日昼間に思いっきり寝てしまったから、良く眠れなくて。」
 「今日の夜はぐっすり眠れるわ。これからずっと歩くことになるから。」
 そのルカの言葉に、リーンは明らかにげんなりとした表情を見せた。リーンのその表情を覗き込みながら、ルカは言葉を続ける。
 「長旅は初めて?」
 「旅行はするけど。」
 リーンはそう言いながら、両親やハクリと一緒に行った旅行での出来事を思い出した。鉄道か車かの違いはあるが、いずれにせよ徒歩で長時間歩いた経験は持ち合わせていない。
 「無理だと思ったら早めに言いなさい。」
 ルカはそう言うとリーンとメイコを先導するように歩き出した。あの馬に騎乗したら少しは楽なのだろうか、とリーンは考えたが、乗馬も相当の体力を必要とするらしい。何しろ乗馬マシンというダイエット器具が販売されているくらいなのだから。結局、この時代では自身の体力を使うしか移動手段がないのか、とリーンは諦めて、それでも若々しい歩調でルカに続き、人の身長の数倍はある西大門の巨大なアーチの下をくぐりぬけた。陽光がリーンの身体に触れる。春先らしい暖かさを額に感じながら、リーンは歩くには丁度良い季節ね、と務めて楽観的にそう考えた。

 ゴールデンシティから遥か西方、海岸沿いにあるミルドガルド一の港町であるルータオの街の象徴ともいえる建築物は何か。そう問われた場合にルータオの住人答える言葉は昔も今も変わらない。即ち、ルータオ修道院である。創立はミルドガルド歴1100年ごろと言われているその修道院は、当初は俗世間に嫌気をさした女性達が集う小さなコミュニティとしての機能しか持ち合わせていなかった。そのルータオ修道院の発展のきっかけになった歴史的事実は16世紀後半のルータオ港の整備事業である。外海への航海基地としての役割を与えられたルータオ港はその後急速に発展して行った。その人口増に合わせる様にルータオ修道院もまた規模を拡大させることになり、1652年には現在とほぼ同じ規模の礼拝堂が当時最も高名であった建築家の手によって設計されたのである。当時は斬新と評価されたルータオ修道院の礼拝堂ではあったが、百五十年程度の時間を経過させたルータオ修道院は今や街のシンボルとしての地位を確立していた。
 「マリー、楽しそうね。」
 ハクが普段以上に楽しそうに昼食を取るリンに向かってそう言った。礼拝堂に併設されている修道女達の宿舎での出来事である。公式の場ではリンの偽名を使う。それがリンとハクの間に定められた不文律であった。
 「うん。そろそろルカが帰って来るから。」
 リンはそう言ってもう一度質素なスープを口に含んだ。今日の料理当番はハクではないから、残念ながら美味な食事とは言い難い。かつて王宮で黄の国一番の料理を食べられる立場にいたとは思えないほどの安い食事ではあったが、それはそれで構わないと今のリンは考えていた。今ここで食べられる物がある。それ自体が貴重な出来事であると考えるようになっていたのである。
 あれから四年。リンは十八の誕生日を迎えていた。まだ表情に幼さは残るが、時折見せる強い意思がこめられた視線はすでに成熟した女性のもの。周囲の期待を裏切らぬ美貌をリンは醸し出すようになっていたのである。
 「あなたたちがルータオに来てから、もう四年も経ったのね。」
 昔を懐かしむような口調でハクはそう言った。あれから四年、不思議なくらいに平穏な日々を二人は過ごしていた。日課として神に祈りを捧げ、日々の食事に感謝する。そんな日々が日常となっていたのである。当初ルカが懸念していたミルドガルド帝国からの探り入れも結局この四年間一度も無い。おそらくミルドガルド帝国はリンが死んだと信じきっているのだろう、とリンは考えていた。
 「今年のお土産は何かしら。」
 固いパンを咀嚼し、喉の奥に押し込んだリンはハクに向かって待ちきれない、という様子でそう言った。ミルドガルド帝国からの探りは無かったとはいえ、堂々とミルドガルド大陸を旅することができるような身分ではない。必然的にルータオ以外の情報は時折訪れる旅人に頼るか、年に一度ゴールデンシティを訪れるルカがもたらす情報に頼る以外の方法が存在しなかったのである。

 流石にもう、脚が棒みたいになっているわ。
 同じころ、リーンは痛む足を引きずるようにして歩きながらそのようなことを考えた。ゴールデンシティを出発してから既に一週間ほどの時間が経過している。厳しい日差しではないが体が熱っぽいのはどこか体調を崩しているせいだろうか。あるいは極度の筋肉痛で節々が熱を持ち始めているのかも知れない。リーンがこの調子であるのに、先頭を歩くルカとメイコときたら、まるでつい先ほど歩き始めたかのような健脚を保ったままであった。ルカは馬の手綱をこの一週間ずっと引いているし、メイコにいたっては腰に大剣まで装備しているにも関わらず、である。この時代の人間はあたし達とは体の構造が違うのだろうか、とリーンは思わず考えた。今まで食べてきた食事もひどく質素で味気ない、正直に言うと不味いものばかりだったし、旅の途中で宿泊した宿舎のベッドは固くてとても熟睡できるような代物ではなかったのである。リーンにとっては自らの時代の利便性を痛感しただけの一週間であったのだ。ただ、悪いことばかりでもない。空気は二百年後に比べると桁違いに澄み切っているし、何より水が美味しい。そこらに流れる川の水が飲めるという事実はリーンにとっては少なくない衝撃を与えたのである。それでも、そろそろ体も限界に近いわ、とリーンは考えて、前を歩くルカに向かってこう言った。
 「ルータオにはまだ到着しないの?」
 少し非難するような口調になってしまったことは自覚できたが、それ以上に身体が訴える疲労のほうが酷い。
 「疲れた?」
 リーンの声にルカが振り返り、リーンを労わるようにそう声をかけた。
 「もう限界よ。」
 「そう。でも、もうすぐよ。あれを見て。」
 ルカはリーンを励ますような笑顔を見せると、遥か前方に向けて指を指し示した。何があるのだろうか、とリーンは考えて視線を送ると、地平線ばかりだと思っていた景色の先に深い藍色に染め上げられた景色が見えることに気がついた。
 海であった。
 「後一時間も歩けばルータオに到着するわ。」
 あと一時間。今まで歩いてきた距離に比べれば近距離ではあるけれど、それでもあと数キロは歩く計算になる。頭にずっと巻きつけているカーチフも暑苦しいし、とリーンは考え、ルカに向かってねだるようにこう言った。
 「なら、あと少し頑張るわ。でも、そろそろこのカーチフを外してもいいでしょ?」
 この一週間、ろくな洗濯はもちろん、十分な入浴もしていない。ルカから借りた香水で誤魔化しているとは言え、埃が染み付いたカーチフが心地良い訳が無い。その言葉にルカは流石に困ったような表情を見せ、メイコと顔を見合わせた。そしてメイコが周囲を探る。追跡者の姿は見えないし、怪しげな気配も感じないことを確認したメイコは、リーンに向かって丁寧な口調でこう言った。
 「ゴールデンシティから十分に離れましたし、もう大丈夫でしょう。」
 「やった!」
 メイコのその言葉にリーンは素直に喜ぶと、今まで頭を拘束していたカーチフを勢いよく取り外した。今まで密閉されていた髪が心地よい風に触れた。風に髪を流すままに任せながら、空気が気持ちいいな、とリーンは考えた。
 「さあ、行きましょう。もうすぐルータオよ。」
 春の風になびくリーンの黄金の髪をまぶしそうに見つめてからルカはそう言うと、しっかりとした足取りで再び歩き出した。

 だが、ルカもメイコも気づいていなかった。ゴールデンシティから完璧に気配を消した状態で追跡を続けてきた男の存在に。ジャノメは突然カーチフの中から現れた金髪の髪を見つめて、その蛇のような強い瞳をぎょろりと動かした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

小説版 South North Story 27

みのり「お待たせしました!第二十七弾です!」
満「レイジのPCが7にバージョンアップしたぞ。」
みのり「おかげで辞書登録が全部消えて変換が面倒になったけれど。」
満「まあ性能が良くなっているからいいんじゃないか?」
みのり「後pixivに投稿していて遅れたのよね。」
満「久しぶりの完全オリジナルなんだが、男が温泉入って人生について考えるというなんだか萌えも何もない小説だ。それでも良ければ呼んでみてくれ。」
みのり「URLはこれだよ。→
http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=34383

満「といことで続きだが。」
みのり「今日投稿したいなあ・・。もうそろそろ出会うし。」
満「レイジ次第だな。」
みのり「ということで次回もお願いします!今日投稿できるように頑張るね☆」

閲覧数:302

投稿日:2010/08/22 18:17:03

文字数:4,176文字

カテゴリ:小説

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