りんの様子に覇気がないと、みくも気がついたしはくも心配そうにしていた。それは、先日の手紙の一件があったからだと、原因は知れていたけれど。
廓に来てからこれまで、りんは自分でも心の底で薄々悟っていたことを必死に打ち消して、自分はここから抜け出して廉のもとに絶対戻るのだと自身に言い聞かせて、敢えて強気にここまでやってきた。
だけど、みくにしがみついて泣きに泣き、頭を撫でられて気が緩んだ弾みに、ついに心の底で密かに思っていた「それは不可能だ」という事を認めてしまった。言葉に出して、言ってしまった。今まで、自分の中で受け入れる事を拒否していた事実を。
それを拒否する事が今までのりんの強気を作っていたのに。
今りんはそれを失って、悄然(しょうぜん)として、気力がまるで湧かなかった。
「あ」
りんが小さく呟いたのは、みくに持って着た茶を盆から床に零してしまったからで、慌てて拭くための布を取りに走る。
それと、入れ違いにはくが入ってきて、本日三度目のりんの粗相(そそう)に少し困った顔をしたが、すぐに気を取り直してみくの方へと顔を向けた。
「みく姐さん」
はくは言い辛そうに、みくに声を掛ける。
「なに?」
「芽衣子(めいこ)さんが下に……」
「そう」
みくは軽く頷いて、何かを思案するような顔をしながらりんが落とした茶碗を拾い上げた。
はくは意外な思いでその反応を見た。いつも、即座に具合が良くないだの、忙しいだの、今は眠っているだの、とにかく理由をつけて断ってくれと言うのに。
今日はとうとう会う気なのだろうか?
はくの思いを知ってか知らずか、みくは取って戻った布で床を拭くりんを振り返った。
「おりんちゃん、お遣い、頼める? それが終わったら、気晴らしをかねて寅の刻まで遊んできて良いよ。外出の許可はとっといたげる」
その言葉に、りんは困ったように手を止めた。今日はもう、何度も失敗をしているのだ。それなのに、叱られもしないで、かえってそんな時間を与えられるとは、肩身が狭すぎる。
「でも」
「お遣い、なんだけど」
「……はい」
りんが階下に下りて行くと、廓の入口にある腰掛に座っていた女が足音を聞いて慌てて立ち上がった。しかし、りんの姿を見て、落胆したようにまた腰を下ろす。
「芽衣子さんですか?」
りんが声を掛けると、女は驚いたようにまた、りんを見た。
「ええ」
「みく姐さんが、今日は体調が優れないからお引き取りくださいって。言付けです」
芽衣子はじっとりんを見詰めて、それから、はあ、と大きくため息をついた。
「今日ははくさんじゃあないってだけなのね。……それ、みくの着物よね。昔ちらりと見かけたことあるわ。あんた、みくの妹?」
「はい」
「……そう」
あの子が『妹』を持つなんて、と感慨深気に言って、それから芽衣子は諦めたようにさっぱりと立ち上がった。
「で、あんたの名前は?」
「……りん、ですけど」
「そう。じゃあ、りん。みくの代わりにちょっと付き合ってよ」
「へ?」
「色々、みくの話聞かせて? 甘いものでもご馳走するわ。私、餡蜜にはちょっとうるさいのよ。美味しい店知ってるの」
そう言って、りんの返事も待たずに、芽衣子は強引にりんの腕を掴んで歩き出した。
街は賑やかだった。廓の中で生活していると忘れていた活気だ。りんは色とりどりの品物が目を驚かす市の中を、自分の手を握る芽衣子に並んで歩いていた。
芽衣子は快活な女性で、歩いている間も、気さくに喋り続けた。
「みくは元気?」
「いつも通りです」
「いつも通りって。……ご飯はちゃんと食べてる?」
「はい」
「じゃあ、よく寝てる」
「多分」
時々、すれ違う人が芽衣子に声をかけて、話は中断する。
「芽衣子ちゃん、秋刀魚が入ってるよ」
「今はいいわ。間に合ってる」
「芽衣子ちゃん、白菜もってかない?」
「荷物になるから今度ね」
そんな会話を間々に挟みながら、込み合う道をすいすい泳ぐように、芽衣子は歩く。
「じゃあねえ、よく笑ってる?」
「いつもにこにこしてます」
「にこにこじゃなくて、声を出して笑ってる?」
その問いかけに、りんは自分に唄やら作法やらを教えてくれているとき、自分が珍妙な失敗をしたときのみくの顔を思い出した。
「……時々」
馬鹿にされたようで悔しかったのが思い出されて、若干憮然とした調子が混じったものの、りんが応えると、芽衣子は意外そうに、そして嬉しそうに「へえ」と言った。
「あの子がまた笑ってくれていると思うと、ちょっと安心する。ありがと」
何が礼を言われる事なのだろう? 怪訝な顔をしたりんにうふふと笑って、芽衣子は丁度到着した甘味の店で足を止める。
「ここの餡蜜がね、一押しなの」
そう言って、りんの両肩を両手で押して、店に押し込むようにする。
「おじさん、餡蜜ふたつね」
「おう、芽衣子ちゃん、いらっしゃい」
人の良さそうな主人が、笑顔で迎え入れて、芽衣子は腰掛にりんを引っ張って行って座らせると、自分もその隣に座った。
「聞いていいですか?」
芽衣子の強引さに圧倒されながらも、りんは先ほどから疑問に思っていた事をようやく尋ねる。
「なあに?」
「みく姐さんと、どういう関係なんですか?」
芽衣子は「ああ!」と思い出したように言う。
「そうか、紹介もしてなかったものね。私はみくの姉よ。……といっても、義理の、だけど」
それからちょっと首をかしげて、言い直す。
「もしかしたら、姉でもないかもしれない。あの子の兄の、嫁になるはずだった女、なのよね。でも、当のあの子の兄が死んじゃったから、まだ義姉でもないんだけど。でも、気分の上ではもう、充分姉だから」
その時、お待たせ、という威勢の良い声とともに、餡蜜が運ばれてきて、会話を中断して芽衣子は歓声を上げた。
りんもそれを受け取って、口に含む。
「甘い。美味しい!」
「でしょう。信じてついて来て正解だったでしょう?」
芽衣子は誇らしげに言って、にっこりと笑った。
たしかにそれは、同意せざるを得なかった。今までも何度か餡蜜というものは食べた事はあったけれど、その中でこの餡蜜は群を抜いて美味しい。口の中で溶けてなくなるようなこしあんが絶妙だった。
りんはしばらく黙って餡蜜を口に運んでいたが、殆ど器の中の餡蜜を食べつくすと、傍らの芽衣子を見上げた。
「みく姐さんのお兄さんは、なんで死んだんですか?」
芽衣子は不意をつかれた様にまだ半分ほど残っていた餡蜜の手を止めて、りんを見下ろした。一瞬だけ傷ついたような、悲しそうな目が、すぐに元の快活な表情に戻って、明瞭に、一言。
「一揆」
数年前に起きた、身の毛のよだつ様な飢饉の事を、りんも知っていた。だから、すぐにその時のことだとわかった。
「磔刑(たっけい)?」
「そう。首謀者だったから、でも、首謀者一人だけですんだの。その代わりに、年貢は軽くされて、なんとか集落の者たちは……私も含めて、生きることが出来たの」
「立派な人、だったんですね」
「大抵の人間にとってはね」
芽衣子はもうりんのほうを見ていなかった。まっすぐに前を見て、視線はどこか遠くを見ていた。手に握られた、餡蜜の器はぴくりとも動かなかった。
「でも私とみくに対しては、それは酷い行為だったのよ?」
芽衣子は、静かに、いまだ続く痛みを堪えるように、そう言った。
「長く引き止めて、悪かったわね」
餡蜜を食べた後、芽衣子の買い物に付き合わされて市を歩き回り、日が落ち始める頃になって芽衣子はようやくりんに別れを告げた。廓まで送るという芽衣子の言葉を丁重に断って、市の入口あたりで別れを告げると、芽衣子はくだけた調子で「またね」と笑った。「また会いに行くから、みくの話、聞かせてね。こんどはりんの話もたくさん」
ひらひらと大きく手を振る芽衣子に控えめに手を振り返して、りんは歩き出そうとしてふと、足を止めた。
道は丁度分かれ道。この道を真っ直ぐに行けば、そろそろ慣れ始めた廓への帰り道。そして、右に曲がれば……。
りんは右に向けて首を回して、落日に照らされて真っ赤に照り輝いている真っ直ぐな道を見た。道は、遠く目を焦がすように燃える日の中まで、一直線に続いているように長く、遠く見えた。
(この道を行けば、逃げられる……)
突然、りんはそれに気がついて、一つ身震いをした。
これは、町の外へと向かう道。山を越えて、懐かしいあの人のもとへと続く道。
いままで何度となく試してきた脱走の道が、諦めたと思った今になって急に目の前に開けたように感じた。
頭の中で懐かしい人の自分を呼ぶ声が反響したような気がした。彼の人の抱きしめる感触を、体に感じた気がした。道は燃えるように赤く、ゆらゆらと揺らめいているように見えた。
ゆらり、と足を踏み出しかけた時、りんを留(とど)めたものはなんだったろう。
拍子に揺れた、艶やかな柄の刺繍の着物だったろうか。不意に思い出した、それを呉(く)れた人の、頭を撫でる手の感触だったろうか。
りんはしばし未練の残るようにその場で立ちすくみ、半分沈んでしまった赤い日と、自分の足とを交互に見、やがて微かに首を横に振って、体の方向を元の道へと戻した。
⇒第六話へ続く。
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