「私たち、別れようか」
 散歩にでも行こうと誘われて、夜の公園のベンチにたどり着いた時に彼女は唐突にそう告げた。
「何がいけなかったんですかね」
「んー、特別嫌なことがあったわけではないけど、そろそろ限界かなって思ったんだよね」
「これ以上はいられないと、そういうことですか」
「まあ平たく言えばそういうこと」
 だから悪いけどお終いね、と缶コーヒーを飲み干した彼女は笑った。本当はいろいろ理由を聞きたかったけど、そうするとより彼女を不快にさせてしまうと思って、それ以上は何も言えなかった。
 自販機の傍らのゴミ箱に空き缶を入れて振り向くと、既に彼女は近くにはいなかった。せめて家まで送るよ、の一言さえ伝えられないまま、彼女は僕の前から消えてしまったのだ。

 思い返せば、彼女との関係も唐突だった気がする。
「氷山くんってさ、笑わないよね」
 学生時代のクラスメイトだった彼女とは接点がなく、街中で偶然再会した彼女がそう話しかけてきたのだ。
「そうですか? 自分ではあまりわからないのですが」
「うん、しかもそうやって常に他人に一線引いて接しているでしょう。誰に対しても淡々としてて、なんというか、人間味がないというか」
「もしかして悪口を言われているんですかね、これは」
「そんなに悪く捉えないで。ただの評価だよ」
 彼女の評価はきっと正しかった。友達と呼べるほど何かを共有できる相手もおらず、寝て起きて仕事へ行き、作業をして帰ってはまた寝る、の繰り返し。その点で言えば確かに僕は、他人と距離を置いているのだろう。
 良かったらちょっと付き合ってよ、と彼女に腕を引かれて入ったコーヒーショップで、よくわからないメニューを眺める僕を彼女が面白そうに見ていた。
「ただコーヒーって言うんじゃなくてさ、トッピングは何が好きとか、一緒に食べるとおいしいお菓子とか、そんな話ができるといいな」
 だからこれはその一歩目ね、と彼女が注文したのはやたらと長い横文字を合体させた、なんだかよくわからない飲み物だった。クリームがどうとか、ココアがなんだとか。そんな僅かな単語しか聞き取れずに固まる僕を見て、そんな反応もできるんだねとおかしそうに笑ったのだ。

 それから一年の間、彼女は隣を常に歩いていた。彼女の言う付き合ってよとは世間一般で言うところの「お付き合い」と同レベルのものだったらしく、恋人どころか友達との接し方もわからなかった僕はひどく混乱したものだ。
 ここはこういう風に楽しむんだよ、これはこんな使い方もするんだよと、僕をあちこちに連れ出しては様々なことを教えてくれた。
 いったい何が彼女をそうさせていたんだろう。こんな面白みも何もない、相手をろくに気遣うことさえできやしないつまらない人間を相手に、いつも笑顔で何かを教える。彼女に身見返りなんて何もなかったはずなのに。
 そうして先日、彼女はあっさり僕の前から姿を消した。自分の役目はもう終わったのだとで言うように。それが一月ほど前の話だ。

 歩き疲れて入った喫茶店でコーヒーカップに口をつけた時、ショッピングモールで映画館のエリアの隣を通り過ぎる時、ケーキショップのショーケースを見た時。いつも通りを過ごそうとした日、何気ない動作のひとつひとつに、彼女の声と顔を思い出してしまう。
 もう隣で笑ってはくれない。連絡の一つくらい取れば良かったのかもしれない。どうして唐突にいなくなったのか、その理由さえ僕はよく知らないのだから、納得できる話をしてほしかった。だけど彼女のトークルームを開いて、その画面に文字を打ち込むことさえできなかった。
 意気地なし。彼女がいればそう言って笑ったのかもしれない。そうしてまた彼女のことを考えていることに気がつく。ああ、これはダメだ。依存するのも当然か、僕の人間性は彼女に形作られたものなのだから。
 誰か一人を心の拠り所にした人間は、その誰かを失った時にあっけなく壊れてしまう。心の平衡を保つ術を他に知らないから、自問自答を繰り返しては迷宮の奥から抜け出せなくなる。

 あれから僕はずっと彼女のことを考えている。考えても仕方のないことだと思っているけれど、それでも考えずにはいられなかった。そして考えるたびに自分がいかに彼女に依存していたのかを思い知らされる。
 彼女に会えなくなって一月も経てば、さすがに自分の気持ちを自覚していた。ただそれはどうしようもなく歪で、誰にも理解してもらえないような感情だった。未練とは何かが違う、ぐちゃぐちゃで仄暗く、重たい感情。
 だから僕はそれを心の奥底に押し込めたまま、日常生活を送る。普通の人間のふりをして、何の変化もない灰色の日々を送るだけのロボットになればいい。
 そう思っていたのに。
『そろそろ会って話そうか』
 スマートフォンの画面に表示された通知は、彼女からのものだった。

 呼び出されたのは別れた時と同じ公園だった。相変わらず寒そうに缶コーヒーを抱えて、まっすぐに僕を見つめる瞳は何も変わってはいなかった。
「どうして急に会おうなんて言ったんです」
「答え合わせが必要かと思って」
 会ってしまえば何を口走るかわからない。だけど別れた理由も、そもそも付き合った理由も全て彼女だけが知っている状況は終わりにしたかった。
「氷山くんは覚えていないかもしれないけど、私ね、中学校の時、告白したことがあるんだよ」
「……え」
「ほら、やっぱりそうだと思った。再開しても相変わらず何も感じていなさそうで、それが不愉快だった。だから、うん、なんて言うのかな……」
「復讐、ですか?」
「そう、これは復讐。いつかくる未来で、なんてことない日常の動作全てで私を思い出すように。その度に苦しめばいいと、そう思ったのがきっかけ」
 結果的に、彼女の思惑通りに僕は思い悩みながら毎日を生きている。それが彼女の願いだったのだから、それが叶ったことを彼女は喜ぶべきだと思った。
 だけどベンチで人ひとり分の距離を置いて座る彼女は、決して楽しそうにはしていなかった。昔話を語る表情も少し苦味を含んだもので、晴れやかな気分ではなさそうなのは確かだった。

「一つだけ、聞きたいんですけど、大丈夫ですか」
「うん。何かな」
「僕はきっと、きみのことが好きだったと思うんですけど。きみはどうだったんですか」
 意外なことを聞いたように目を見開いて、視線を手元の缶コーヒーに落として、しばらくの沈黙を挟んで彼女が言った。
「ずっと好きだった。多分ね、それは昔から変わらないの」
 傷つけたいと願ったことも、一緒に笑いたいと願ったことも、全て自分の意思なのだ。だけど一度決めたことは曲げられないと、僕の隣を去る意思を固めたのだ。だけど何かがずれて、僕らはまた顔を合わせて話をしている。
 こういう時、なんて声をかけたら良いのだろう。本を正せば僕に原因がある話だ。僕が責任を取るべきで、だけど彼女から言わせれば、僕はきっと既に罰を受けた後だ。それでも償える何かを探しても、彼女を傷つけるような気がして、僕もまた沈黙を返すことしかできなかった。
「元の関係に戻るのはきっと、きみが許せないんでしょうね」
「私のこと、よくわかるようになったんだね」
 教えた甲斐はあったかな、と彼女が浮かべた笑みは、風に吹かれれば掻き消えてしまいそうな程儚くて。抱きしめたいと思ったけど、それは彼女の心を癒すものではないだろうと腕を引っ込めて、視線を逸らした。
 僕らは、何を間違えたんだろう。ああ、でも。強いて言うのなら、きっと何もかもを間違えていたんだろう。彼女の復讐が果たされたことに特別な意味はないかもしれない。ズレた相手への想いだけを抱えたまま、毎日を過ごすこと。それだけしかもう、互いにできることはないのかもしれない。
 だけど、きっと。もっと早くに好きと伝えられていたのなら、何かが変わっていただろうとは思った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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【キヨリリ】まちがいさがし【キヨテル誕】

キヨテル12周年おめでとう!
祝う気は十二分にあるんですが、最近すれ違いの話が出来上がることが多く、首を傾げています。

閲覧数:174

投稿日:2021/12/04 10:41:58

文字数:3,260文字

カテゴリ:小説

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