21.音のない詩(うた)
トラボルタは、ごくりと唾を飲み込むこともできない。口の中はカラカラだ。
凶気をまとった男は、ゆっくりと右手を差し出した。
「さーて、それじゃ、その”坊ちゃん”をこちらに渡してもらおうか……」
一瞬、老人の頭の中は空白になった。
老人は大きな思い違いをしていたことに、今初めて気付いた。
よくよく考えれば、当然の事である。
ここへは何をしに来たのか―― そう、護衛だ。少年の護衛で来ている。
偶然に仕事を見つけ、偶然ここへやって来たのに、ミクが狙われているはずはなかった。
一瞬、老人の脳内である恐ろしい提案が投げかけられた……。
しかし、それを実行することなど到底できない。
彼は一瞬とはいえ、そのような考えが浮かんだ事を深く恥じた。
――時間を稼がねば!!
彼は、とにかく時間が欲しかった。
この決定的に絶望的な状況を打破する術を見つけ出す時間が――
「ま、待った。なぜにお前さんが人探しなんじゃ? それもこんな子どもを――」
老人は驚くほど早口に、饒舌に質問をした。
明らかな時間稼ぎである事は、誰の目から見てもわかる。
しかし、圧倒的優位に立っている狂人は、あえてそれを受けることにした。
しかし、それはあわれみなどではなく、さらなる絶望への道筋を描くためであった。
「そんなに不思議か? まあ、確かに俺の柄じゃねえな。でも、任務じゃ仕方ねえよな」
遥か高みから、駆け足で降りてきたデッドボールは、まるで古くからの友人であるかの
ように、老人に語りかけてきた。
それに乗るように、トラボルタも馴れ馴れしい口調で彼に話しかける。
「そ、そうじゃ。どう見ても普通の男の子のようにしか見えんが、なぜなんじゃ?」
質問を受け取ると、彼は差し出していた手を引っ込めて、少し考え込むそぶりを見せる。
「そうだ、そこのお坊ちゃんは”普通”の”ただ”の子どもだよ。
その嬢ちゃんのように、謎の病に冒されているわけでも、
爺さんのように、歴戦をくぐり抜けてきたわけでもない」
トラボルタは、突然”虚”を突かれて、ヒヤッとした。
自分の名も知らなかったはずのこの男が、自分に対し、そのような見解に至ったのは、
その鍛えられた洞察眼によるものだろうと、老人は勝手に解釈をした。
事実、歴戦を~のくだりは、全くに間違ってはいない。
「上の連中の欲しがってるのは、その坊ちゃんの”才能”さ……」
デッドボールの言葉を聞き、老人はこれまでの情報を超高速でまとめ、組み上げていく。
そして、そこから導き出された単語は――。
「音のない詩(うた)」
脳内で留めるつもりが、あまりの動揺に思わず口からこぼれ出てしまった。
しかし、この場でその言葉を理解している者は、自分の他には誰もいなかった。
「なんだ? そりゃ? ……あー、そういえば、連中もそんなこと言ってたっけな……」
当のデッドボールですら、この事をよく知らないようだ。
彼の関心事はそんな所にはない。任務の先に何があろうが、彼は興味がなかった。
彼にとって任務とは、己の欲望を満たす手段にすぎなかった。
トラボルタは、激しく動揺している。
――ばかな、あれは単なる伝説ではなかったのか? しかし……
しかし、真偽の定かでないものに一国が動くはずがない。
いや…… あるいは国とは関係なく? むむー
「さてと、時間稼ぎは終わりだ」
デッドボールの発した一言で、老人の思考が急に中断させられた。
当初の目的であるはずの時間稼ぎは全くの失敗に終わっていた。
三人を取り巻く事態は、一気に最悪な展開へとステージを進めていく。
周囲の暗闇から、いくつもの小さな光が揺れ動いている。
放電音と共に、その獰猛な姿が、一瞬だけ光により、浮かび上がる。
近接して立っている四人を360度囲うように、何体もの獣が集まってきた。
獣たちの中心で、凶気をまとった男が笑う。
「ひゃははあぁぁ、時間でも稼げば逃げるチャンスがあるとでも思ったか?
捕獲対象以外は用はねぇ。乳くせえ餓鬼にも、ましてや爺さんにもな……」
電撃をまとった獣の群れが描き出す円は、じりじりと半径距離を縮めていく。
恐怖で目をつむったライムの脳内に、放電独特の音が不協和音として鳴り響く。
周囲の至る所から、不規則に音は発生している。遠くにも、近くにも……。
近くにも……? ひとつ、同種の音だが、やけに近い気がする。
さらに、閉じたまぶたを通して、明るい光の点滅が確認できる。
閉じていたまぶたを開くと、閉じる前よりほんの少し世界を広く認識できるような気がした。
そして、その少し広くなった世界で一番初めに見たのは、女の子の背中だった。
女の子を中心に、光と音が産まれている。決して規則を伴わないリズムを刻みながら――。
「大丈夫…… 私が…… 守る…… から……」
ゆっくりと丁寧に文節ごとに区切られた言葉は、周囲の雑音にかき消されることなく、
ライムの下へと届いた。
少年の心を握りつぶしていた何かも、目のあたりを覆っていた何かも、
すーっとその姿を消え去っていく。
「うん」何のためらいもなく、少年のココロから産まれ出た言葉――。
少女の顔は、こちらからは見てとる事はできない。
相変わらずの無表情なのか…… それとも、何らかの表情をしているのだろうか?
少女は右手で柄を握り締め、ゆっくりと古びた愛刀(タクト)を鞘から抜き去った。
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