砂時計の砂が落ちるように、少しずつ積もった感情。
ステージから降りた少女が最初に探す存在は決まっている。親しい従姉妹達ではなく、勿論メイコでもない。
向ける笑顔のやわらかさは、迷子の子猫がようやく飼い主を見つけたようで微笑ましい。
少女の――初音ミクの感情に、メンバーで気づいていないのはたった一人だ。
「急に、何の話?」
いつものバイト先ではなく、安い居酒屋でビール片手に首をかしげている大学の同期。
ミクが他の誰にも向けない表情を見せる男。
傍から見ればとても分かりやすいそれに、何故このバカは気づかないのかメイコは深いため息を漏らした。
「なんだよ、いきなり溜息って」
「いや、あんたのバカイトぶりにちょっと疲れたのよ」
「はぁ!?」
カイトは訳が分からないという顔をしている。他のことでは鈍くないのに、どうしてこう色恋絡みはアンテナが折れているのかこの男は。
それとも、相手がミクだからだろうか。
確かにあの子は飛びっきりの美少女だし、自分に惚れることなど無いと思っているのかもしれない。
ジョッキを傾け喉を潤してから、メイコは本題に入ることにした。
「あんたさ、最近ミクと喧嘩した?」
「別に、喧嘩なんてしていないよ。先週だって、一緒にセッションやったし。メイコだっていただろう?」
焦る様子もなく、すらすらと返事をする青年はどこまでも冷静だ。
まるで用意していた答えを口にしているみたいに思えるくらいに。
「あっそ、それじゃミクが元気ないの、気付いている?」
「学校で何かあったんじゃないの? 僕は聞いてないけど、高校生なんだし友達と喧嘩したとか」
質問に質問で返すのは、あまり上策じゃない。
カイトの表情は相変わらず冷静だったが、それが却ってメイコに確信を抱かせた。
「ミク、泣いてたわよ」
カイトの顔色が、変わった。
「なっ、何時、どうして!?」
グラスを叩きつけるように置いて尋ねる様子に、ようやく本心を明かしたかとメイコは肩をすくめた。
「理由なんて知らないわよ。ただ、先週のセッションであんた、あの子を避けてたでしょ。ああいうの、止めなさいよね。大人げない」
「別に、俺は避けてたわけじゃ……」
「ああそうね、最低限の返事はしてたわね。極力話さないようにしてただけで」
続く指摘にカイトは呻いてテーブルに突っ伏した。
しばらく黙々と飲んでいると、ようやく少し復活したらしい。カイトは溶けたアイスをつつきながら、小さくこぼした。
「……苦しいから」
「はい?」
意味が分からなくて首をかしげる。シェイクみたいになったアイスクリームをスプーンですくって、カイトは口に入れた。
「ミクちゃんは、そんなつもりないんだろうけれど。一緒にいると、苦しいんだよ。期待したり落胆したり、俺が勝手にしてるだけだってわかってるけど、結構きっつい」
何を言っているのだろう、このバカは、と思った。
思うだけでなく、メイコは実際口にした。
「あんた、本当に馬鹿ね」
「はぁ!?」
「あんたは何もしてないじゃない。ミクに告白の一つもしないで勝手に期待して落胆して苦しいって、バカイトにも程があるわよ」
だん、と飲み終えたジョッキをテーブルに叩きつけ、メイコはカイトを真っ直ぐに見た。
「自分の勝手な都合で、あんたはミクを泣かせたのよ」
カイトは殴られたみたいにぽかんとしていたが、ようやくメイコのセリフが頭に入ったのか徐々に表情を変えた。
「メイコ、ありがとう」
目が覚めた様子で頭を下げた友人に、メイコは唇の端を上げて告げた。
「とりあえず、この店はあんたの奢りね」
人気のないホームで、最終電車を待つ。
メイコと話をした翌日、ちょうど今月最後のアルバイトが入っていた。先週は用事があるからと一緒に帰ることすらしなかった自分の態度は、思い返せば確かに大人げない。
メイコが代わりに駅まで付き添ってくれたから助かったが、そもそも高校生の女の子を危険に晒していいはずがなかった。
白熱灯に照らされた冷たい石畳に伸びる影は二つだけ。隣に立つミクの口数はいつの間にか減っていた。最近の態度を謝ろうとしていたけれど、そのきっかけが掴めないままここまで来てしまった。
長い睫を伏せた横顔は、元気がないように見える。自分とのことが原因なんて自惚れるつもりはないけれど、少しは影響しているかもしれない。
今日のアルバイトが終われば、来週までミクとは会えない。今を逃したら、話す機会なんてなかった。
「ミクちゃん……ごめんね」
「え?」
こちらを振り仰いだミクに、カイトは頭を下げた。
「俺、ミクちゃんに対して感じが悪かっただろう? ミクちゃんは何も悪くないのに嫌な思いさせちゃって、ごめんね」
「そんな、こと……」
否定しようとしたのだろう。両手をパタパタ振りかけたミクの瞳から、滴が落ちた。
「み、ミクちゃん!?」
焦りまくった声を上げたカイトに、ミクはぼろぼろ涙をこぼしながら必死にぬぐう。
「あ、あれ、ごめんなさい、違うんです。その、安心しちゃって……」
「安心?」
「わ、私カイトさんに嫌われたんだと思ってたから……きっと、今までみたいに話してもらえないって、そう、思って」
止まらない涙に困惑しながら、ミクは一生懸命に笑おうとしている。
その表情に、今まで以上に苦しくなってカイトは手を伸ばしていた。
勝算があるとか、ないとか、もうそんなことはどうでもいい。ただ、伝えたかった。
「俺……ミクちゃんが、好きだよ」
細い体を抱きしめて、精一杯の想いを声に込める。
「本当は、毎週ここでさようなら言うのが苦しかった。会いたいのに、会えない時間が苦しかった。だから、ミクちゃんと距離を置いて離れたら楽になるかと思ったんだ、バカだよね。それがミクちゃんを傷つけるなんて、思わなかったんだ」
色々と疑って、苦しくなって、自分から行動する勇気もないくせに。
自分を守るために、大事な女の子を、傷つけた。
「……私も、ごめんなさい、です」
「え?」
告白を断られたのだろうか、それとも別の意味か測りかねて見詰めた先に、まだ瞳に涙を浮かべながらも微笑むミクがいた。
「私も、苦しかったです。カイトさんと会えない時間苦しくて、だけど、告白して断られたらもう今みたいに一緒に帰ることもできないって思ったら怖くて、言えなかった」
ミクの腕が、やわらかく背中に回る。
「最近、だんだんカイトさんが遠くなって、どうしようどうしようって思って、馴れ馴れしすぎたから嫌われたのかなって考えてしまって、でも自分から話しかける勇気がなかったんです」
「う……ごめん。でも、えっと、それじゃ、ミクちゃんは俺のこと……」
情けない声で尋ねたカイトに、ミクは花のような笑みを浮かべる。
何事か囁いたミクにカイトが幸せそうに微笑み――ホームの影が一つに重なった。
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