数年前に隣国との戦争が終わり、今は次の戦争に向けて国内の軍備増強に余念がない。
神威の周囲でも何人か、国外に派遣された者もいた。
中には、先の戦争に参加していなかった者も多く――彼自身も、まだ軍に士官もしていなかった――所謂“左遷”であるにも関わらず、不安と未知の世界への奇妙な高揚を抱えて日本を出て行った。
もし戦争が起これば手柄の機会であるが、何もなく数年を過ごして帰国することになるやもしれない。
しかしながら、それも御国の為、御家の為、自分自身の将来の為、となれば逃げることなど出来はしないものを、結局どうすることも出来ないのだが。

『貴様は此処で、しっかりやるんだぞ』

一週間程前、神威と特に親しくしていた同僚が命令を受けた。
実際に人が足りていないのかも知れないし、男が他の権力争いに巻き込まれたのか負けたのかは分からない。
しかし命令は急で、送別の為に昨晩宴を開くとすぐに、男は今朝早く日本を発った。
軍に身を置いている以上、幹部の命令は絶対だ。
親族が軍の上層部に多いこともあり、神威自身はそれを重々承知しているつもりだったが、こうも簡単にこの国を離れさせられるのだとは思ってもみなかった。
――つまり、これは恐怖なのだ。
“神威”という一族が如何に力を持っていようと、全てを掌握している訳ではない。
彼の知らない間に、同僚のように国外派遣の命令が下る可能性も勿論ある。
権力など手に入れたいと思ったこともないし、国の将来の為ならば自分の犠牲など厭わないと思っていた筈だったのだが…
身近な人間の出来事に国防への意志が揺れ動くのを感じてしまい、神威は自己嫌悪をした。
そんなことを繰り返しながらたまの休日を過ごすうちに、段々と気が滅入ってくる。
そしてふと、彼女の歌を聴きたいと思った。
少女の声ならばきっと、彼の心に落ちる霞を晴らすことが出来るのだろう。
閑に響く哀惜を湛えた深い声に、いつの間にか全てを洗い流して安堵の眠りにつくのだ――それはまるで、甘美な夢のように。
最後に会ったのは、随分と前のような気がした。
神威は彼女に同情をして客として通うと言ったのだし、実際にそうなのだから、本来彼がいつ店に行こうと勝手である。
どれ程間を開けて登楼しても、彼が遊郭に来ること自体を拒んだ少女は、きっと来なかったことを責めたりはしないだろう。
いつでも良かった筈だ。
前回も、いつでも良かった筈が彼女を心配して行ったのだが。
今もまた。
深層に潜む理由は分からないまま、しかし少女を案じての気持ちを上回って、神威自身が彼女に会いたいと感じていた。



「また物思いかしら?」



思考に耽っていたところに、突然背後から声がした。
「お友達の出征で気落ちするのも分かる気はするけれど、貴方がいつまでもそんな風にしていたら、妹さんが心配するわよ」
声のした方を振り向けば、開いた戸の前に彼の見知った少女が立っていた。
「ノックくらい出来ないのか、巡音大佐令嬢殿」
早くから西洋文化に関心を抱いていた神威の家は洋館であり、全ての戸は開き戸になっている。
あちらでは戸を開ける前には拳で戸を叩く習慣が礼儀としてあるらしく、それも家の慣習として取り入れられていた。
何度言っても頑として聞かない少女にため息を吐きながら言うと、少女は「別に、貴方の部屋なのだから良いでしょう」と悪びれもなく返した。
「それより私、その呼び方は好きではないんだけれど?」
その上に自分自身の主張だけはしてくるのだから、全く以て敵わない。
「…一体何の用で来たんだ、ルカ」
諦めたように大きく息を吐き、神威は目の前の少女に尋ねた。
少女と呼ぶには些か歳が上ではある女は、神威の呼びかけにニコリと笑む。

「勿論、親愛なる幼馴染み殿の様子を心配して、よ」

彼女の名前は、巡音ルカという。
父親は帝国軍の大佐であり、神威の父とも古くからの親しい間柄である。
子ども同士の歳が近いこともあって、二人は幼い頃から家族ぐるみでの交流があった。
年頃の少女が気負いもなく男の部屋に入れることや、それを許すのも神威とルカが幼馴染みだからだ。
ルカはそろそろ結婚していてもおかしくはない年齢だが――勿論、それを言えば神威自身もなのだが――なかなか見合いもせず、未だ生家で生活しているのだった。

「お前に心配される覚えはないが」

自分の心配をしろと心の中でだけ苦笑をしつつも返事をすると、ルカは眉を顰めた。
その表情のまま神威の方につかつかと歩み寄ると、長い髪がふわりと舞う。
「突然ばっさり、見た目からそんなに変えて…私にくらい理由を言ったらどうなの」
そして神威の目の前に立つと、彼の頭を指差して言った。
この一月近く、肉親も含めて多くの人間から指摘されるもの――彼が髪を切ったことだろう。
元々、神威の髪は軍規に違反する程の長さだった。
軍部に強い一族のお陰で大目に見てもらい、処罰されることはなかったのだが、周囲は彼が髪を伸ばしていることに特別な意味合いを持たせているのだと考えていた。
それをある日突然、短く切り揃えたのだから驚かない筈はない。
「これはただ、そろそろ私も自分の身の振りについて考えただけで…」
神威がこれまで同様に理由を述べると、ルカは益々眉を顰めて不快感を露にした。
多分、信じていないのだろう。
そもそも、その答に納得がいかないから直接やって来たのだろうということは簡単に理解出来た。
しかしそれは、神威とて同じことだ。

「他に言う程の理由はない…いや、あったとして自分でも分かっていないのだ」

何故、今頃になって突然髪を切ろうと思ったのか、実際理由は神威自身も分かっていなかった。
「え?」
身の振りという理由に、偽りはない。
しかしそれだけかと問われれば、最近になって殊更に身の振りを意識をする転機などはなく――同僚の国外任務の命令も、髪を切るより後のことだ――理由としては足りない気がした。
仮に何かあったとしても、神威にとって身の振り方を考えた結果だけが髪を切ることに繋がった訳ではない。

「本当は…グミさんが心配していることと、関係あるんじゃないの?」

深く思考に沈みそうになった神威に、ルカは間違いを指摘するような口調で言った。
まさかいきなり妹の名前を出されるとは思わず、神威は意図を探るような目でルカを見つめた。
「何のことだ?」
彼の妹であるグミは元来から人懐こい性格であるが、幼い頃からの知り合いであるルカにはよく懐いている。
自分には言わずともルカには言っていることもあるのだろうと思うが、妹に何か心配されるようなことをした覚えは、彼にはなかった。
その上、グミには先月の末に婚約者が決まり、最近では学校が終われば花嫁修業に忙しい日々を過ごしているようである。
神威とて勤めもあり、二人で話す機会も少なかったというのに、何を心配されることがあるというのか。
言われていることの意味を本心から理解出来ていないと見たのか、ルカは一つ息を吐くと眉を寄せたまま彼を見据えて言った。


「貴方が、夜な夜な遊びに出かけてるんじゃないかってことよ」

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夜明けの夢 【第三章】 序:彼の日常 (がくリン)

『夢みることり(黒糖ポッキーP)』インスパイアの、がくぽ×リン小説です。
明治期・遊郭もの。

※注意:この小説は、私・モルが自サイトで更新しているもののバックアップです。
あしからず、ご了承ください。

閲覧数:339

投稿日:2010/11/09 14:05:01

文字数:2,939文字

カテゴリ:小説

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