グラスに入った氷が音を鳴らして割れる。琥珀色の液体を飲みきった彼女はカウンター越しに腕を伸ばした。
「もう一杯」
そう告げるメイコの顔は微かに赤く火照っている。もう二時間以上飲み続けている彼女は口調ははっきりとしている。が、いつもと言動が違って見えた。どうやら酔っているらしい。
カイトは磨いていたグラスを置いてそのグラスを受け取る。
「もうその辺で止めておいたほうが懸命ですよ?」
「やだ」
一応そう告げると彼女は拗ねたらしく頬を膨らませた。普段は絶対にやらないその表情に思わず破顔しそうになるのを堪える。
「ていうか、なんでそんな他人行儀なの!もう20年の付き合いなのに」
「仕事中ですから」
やんわりとそう言って、新しいグラスに氷を入れてブランデーを注ぐ。嬉しそうにブランデーを煽るメイコにやれやれと人知れずため息をついて、他の客に接した。カウンターで楽しそうに酒を飲んでいた若いカップルの会計を済ませて出口まで見送る。
ふと壁に掛けられた時計を見ると閉店の時刻になっていた。客はブランデーを飲む彼女一人だけ。彼は入り口にCLOSEの札を掛けて店内へと戻った。
「もう閉店?」
寂しそうに訪ねるメイコに笑って、「めーちゃんがまだいるでしょ?」と言うと嬉しそうな顔になった。元々カイト一人だけで経営している小さなバーだから何も問題はない。
「口調も戻るのね」
「仕事は終わったからね」
「んじゃあ、何か飲も?」
「俺はこれで十分です」
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してグラスに注ぐ。二人で小さく乾杯すると、ちりんとグラスが響きあう音が響いた。
ブランデーを飲みきったメイコにもう一度同じものを作る。淡々と飲む彼女の表情がいつもと違う。なによりこんな飲み方で自分の店に長居すること自体珍しい。
「……何かあったの?」
洗い物を片付けながらそう聞くと、伏し目がちだった彼女が顔をあげた。
「何かあったように見える?」
「男に振られて傷心の中酒飲んでるように見える」
ずばり言い当てるとメイコは驚いたように目を瞬かせた。
「さすが幼馴染」
「だってめーちゃん分かりやすい。いつも何かあると黙って酒飲みに来るから」
「なによそれカイトの店にしか来るとこないみたいな言い方」
「……そうじゃないの?」
にやりと口角を上げるとメイコは黙って空のグラスを突き出してきた。
「何がいい?」
「適当に割って」
そう言ったきりカウンターに突っ伏した彼女の頭をそっと撫でて、冷蔵庫からコーラを取り出す。少しパンチを加えるためレモンをカットしていく。
「……年下なのにそういう事するのズルい」
「こういうときは年の差関係ないでしょ」
昔から彼女はやけにカイトとの年齢差を気にする発言をする。年下なのにとか、年上だからなどと言うのは只の予防線だとカイトは思っている。そもそも二つしか変わらないのだから関係ないのだから。
コーラで割ったウイスキーを差し出すとメイコは顔を上げて一口含んだ。甘い口当たりに少し元気を取り戻したようで、美味しそうにもう一口飲む。
「……私落ち込んでるように見える?」
グラスを置いて呟いた彼女の顔を見つめる。普段より上気した頬に少し涙目の瞳は、落ち込んでるというより酔っているせいに見えた。
「落ち込んでるようには見えないけど」
質問の意図が分からずに感じたまま答えるとメイコは「やっぱり?」と言った。
「あの人と別れ話になったとき、寂しいとか悲しいとかじゃなくて……なんか、またかって思ったのよね。落ち込む訳でもなく、泣く訳でもなく。……でもそれって凄く悲しいことよね」
そう告げたあと、口が渇いたのかもう一度グラスの酒を飲む。そんな彼女に、カイトは促すでもなくその言葉を遮ることもなく、ただその言葉を聴き続けた。
「それってまともな感情なのかな、と思ったの。それだけ」
飲み干したグラスの氷がからんと音を立てる。空いたグラスを下げると彼女は何も言わなかった。
そのまま冷たい水を差し出す。ミネラルウォーターを飲んだメイコは、先ほどの表情とは打って変わって笑顔になった。
「ま、カイトはこんな思いしないものね。女の子には不自由しないだろうし」
「そういう言い方は侵害だな」
「そう?女好きだって知ってるわよ」
「俺は来る者拒まずっていうスタンスだから」
「それがいけないのよ」
笑って、ミネラルウォーターを飲み干す。
「いらぬ誤解を受けたりしないの?」
「そういうのは上手くやってるから」
「ひどい男ね」
彼女にそう言われて、胸の奥にある気持ちがずきりと痛む。なのに、このまま進展させる気持ちが無いのも事実だった。
このあやふやな気持ちで居たい。自分の気持ちには気がつかずに、このまま。
「……じゃあ、もし」
でも、冒険したくなるときもあるのだ。
カイトは少しだけ、挑発的な言葉を乗せる。
「めーちゃんがお嫁に行きそびれたら俺が貰ってあげるよ?」
平然と、いつもどおりの口調で。
そう心がけて言った本音は、彼女には新鮮だったようで彼女は驚いた表情を示した。でも、すぐにその表情をいつものポーカーフェイスに戻す。
「何言ってるのよ」
冗談だと言うようにメイコは笑い飛ばした。その反応に、安堵する一方スリルを味わいたい自分がいることに気づく。
「ああ、でも」
付け加えた言葉に、カイトは顔をあげた。
「私がお婆ちゃんになって、カイトがお爺ちゃんになってもし相手がいなかったら……考えようかしら」
にっこりと笑って。
その笑顔にどきりとして磨いていたグラスを落としそうになる。
「なあんて、ね。……きっとカイトには素敵なお嫁さんが来るわよ」
「めーちゃんみたいに大酒飲みじゃない人だな、きっと」
「そうかもね」
くすくすと笑う彼女に、平静を装って。返事をした声は少し上擦っているのには気づかれていないだろうか。
「老後の楽しみに待っておくから」
「じゃあ、私も」
カイトはいつまでも心の中の大部分を占める彼女に、笑みを返したのだった。
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