ミクオは、ふわん、と揺れるツインテールを見つめた。
…何だろう。今確かに変な要求をされた気がしたんだけど。
彼にぽかんとした顔(当社比)で見返されて焦れたのか、ミクはぴょんぴょんと跳ねるような仕草をしながら先程の言葉を繰り返した。
「だからっ、クオが転入しちゃえばいいんだよ!謎の美少年転校生だよ!」
「ありがとう。…でも無理」
「なんで!?リンちゃん見張りに行きなよ!」
―――ミク、それには難関が幾つもあるんだよ。
ミクオは軽く溜息をついた。
試しにその幾つかを挙げてみよう。
難関一、ここからの脱走。
難関二、入学手続き。
難関三、学費と生活費。
難関四、鏡音リンとの友好関係の構築。
難関五、…
…――ミクと離れなければならない。
明らかに無理だ。
特に五番が。
「トーストくわえて曲がり角でぶつかって、転入先では隣の席なんだよ!」
しかもハードルが高い。
「ミク、僕とリンちゃんって学年違うから」
「でもって幼なじみで義理のお兄ちゃんで婚約者で使い魔だったりするんだよ!」
「…なんとなく設定に矛盾を感じるんだけど」
「そうかなぁ、今の流行りってこうじゃないの?あ、じゃあ生き別れの双子の兄?」
「だから年齢違うから」
「はっ!そうか、まだ某国王家の末裔の一人っていう設定がないね!それともクオは異世界からの召喚の方が好き?」
「…」
一瞬だが、ミクオの脳内をミクの語った設定のまとめが占拠する。
トーストくわえて曲がり角でぶつかってきて、転入先では隣の席になった幼なじみで義理のお兄ちゃんで婚約者で使い魔で異世界から召喚されてきた少年(ミクオ)。
カオスすぎる。自分なら絶対に係わり合いたくないタイプだ。
ミクオは珍しく自分の頭が痛みを訴え始めたのに気付いた。
痛い。流石にそれは、社会的な致命傷になるような気がする。というかまず最初に自分自身の心が死ぬだろう、と彼は正確に予測してしまう。少し悲しかった。
「え、じ、じゃあ…トウシューズに画鋲…?」
「…ミク、それは古いよ」
「古…!?そうなの!?そうしたら紫の薔薇の人が出現するのに…!」
そもそもそれはライバル設定だとか、トウシューズを履くような場面がないとか、性別的におかしいとか、紫の薔薇の人ってキャストは誰を予定しているんだろうとか、突っ込み所は沢山存在する。しかし敢えてミクオがそれを指摘することは無かった。キャパシティオーバーになってしまう為。
かわりに彼は年中無休の無表情に見える瞳でミクを見つめる。
今の会話から分かる通り、ミクは文字通りの『世間知らず』だ。
だから彼女は様々なイメージを外の世界に求め―――この通り、少し失敗している。
―――でも。
不思議そうにミクがミクオを見返す。
その目が純粋な疑問に輝いているのを見て、ミクオは自分の気持ちが淀んでいくのを感じた。
―――はじめからこうだった訳じゃない。
そう。
全てのものが断絶したのは、六年前のあの日。
あの日全てが、程度差こそあれ変化した。
劇的な何かがあった訳じゃない。
ただ…
―――僕達は沢山のものを失って…
ミクオは手を伸ばして、ミクのツインテールを引っ張る。「何するのー」と微笑む姿は、どこまでも明るい。
そこに陰りがない事に、ミクオは落胆と同時に安堵を感じた。
―――失って…でも。
「ミク」
「なあに?」
―――確かに、失わずに済んだものもある。
「そんなに皆に会いたい?」
「え、…うん」
こくり、と頷き、ミクは俯いたまま両手の指先を絡み合わせた。
「リンちゃんもレンくんもそうだし…最近ルカちゃんとも会わないもん。クオがいるから淋しくはないけど…」
そういえば巡音ルカもこの間移動したんだっけ、とミクオはぼんやり考える。もしかしたら今日の対面相手はルカかもしれない。ローテーションとしてはそれが一番可能性が高い。
―――もしそうだったら、後でミクに報告しよう…
「あ…でもカイトさんやメイコさんは…流石にもう、会えないのかな…」
ルカについて考えるミクオに対し、去って行った年長二人組を思い出して表情を陰らせるミク。
カイトはなんやかんやと立ち寄る事もあるらしいが、その際にミクやミクオに会うことはまずない。それが気配りや気まずさによるものなのかは分からない。あの笑みに隠されて、本心を推し量る事さえも難しい。
そしてメイコに至っては―――…
「…」
数秒の沈黙。
自分が投げかけてしまった暗い影を振り切るように、ミクは明るい声を上げる。
「でもやっぱり会いたいなあ。皆どうしてるんだろう。ルカちゃん以外は学生なんだっけ?」
…こんな時、ミクオは稀に複雑な感情に襲われることがある。
一言で言えば、愛情。しかしそれは羨望や哀れみや誇りや罪悪感で彩られ、元の柔らかな色彩を失っている。その上曖昧な中から形が取り出せる訳でも無い。
大切な人。忘れてしまったお姫様。完全な、存在。どれもが今の初音ミク。
白の上に白を塗り重ねられた、二層構造の無垢。
分かっている。それを否定するつもりなんて、少しもない。
言えない思いを胸の奥に追いやり、ミクオは微かに首を傾げて応じる。
「レンも学生じゃないよ」
「あれ、レンくんって今十四歳…だよね?俗に言う義務教育の期間じゃないの?」
「うん、多分」
「なのに学校行ってないの?」
「お金が無いらしい。レンは支援されてないから」
「ってことはまさか自活?まだ学歴は小卒なのに!」
「ミク、僕等小学校通ってないよ」
「そうだった!あれ、じゃあ学歴ゼロ!?そ、それはまずいんじゃ…」
わたわた、と慌て始めるミク。
実際レンはこの数年で、明らかに『ヤバい』領域に身を置くようになった。
勿論彼はその危険が分からないほど馬鹿ではない。ただ、他に道がなかっただけだ。
―――でもそれを馬鹿正直に言う必要はない、か。
瞬間的にそれを判断し、ミクオは少し柔らかな表情(当社比)を作った。
「レンなら平気」
「そっか、ってそんな訳無いよ!」
「…でも、酷いかもしれないけど、僕等はレンに何かしてあげられる訳じゃない。出来る事なんて、彼を信じる事くらいだよ」
「…うん、そうだね…」
―――まあ死にはしないだろうし。
突き放したような考え方だが、どうでもいい存在だからそう思うわけではない。
寧ろ、ミクオは結構レンを尊敬しているのだ。
片割れから離れること、一人で生きていくこと、どちらも自分には出来そうもない。なのにそれをやってのける彼の生き方はミクオの目には眩しく映っていた。
相手から嫌われているのは知っていても、自分から彼を嫌うことはできないだろう…ミクオはそう自己分析している。
―――まあ、単に博愛主義のミクの影響かもしれないけど。それはそれで。
カイト程ではないが、十分表情を読みにくい顔で黙考するミクオに、ミクはおずおずと声をかけた。
「あのねクオ、…ごめんね」
「え」
いきなり何を、という響きを乗せて返す単語。ミクは非常に気まずそうな顔をしながら、言葉を選びながら口を開いた。
「その…クオが悪く言われて、こんな所にいる羽目になったのは、私のせいだから」
「ミク」
「傲慢な言い方かもしれないけど、私、それだけは本当に自分が許せないの」
胸の前で握った指に、関節が白くなるほどの力が篭る。
それを見ていられず、ミクオはその手に自分の手を被せて口を開く。聞き分けのない子に諭すような、穏やかではっきりとした声音だった。
「…それは僕も同じ。でも、そういうこと言わないって決めたよね?」
「あう」
叱られた子供のような可愛らしい声を出すミクに少しだけ微笑みかけ、心の中が穏やかに凪いで行くのをしっかりと感じる。
癒されていく。
「じゃあ、僕はそろそろ」
よいしょ、と立ち上がるミクオ。
彼を見上げる形で、ミクは再び笑顔を取り戻した。
「うん。えっと、頑張ってきてね!」
「うん」
無機質な部屋のうち、一つの壁全面が液晶になっている―――そんな用途不明の部屋に通されて、ミクオは一つ溜息をついた。
いくらミクを大切にするにしたって、その分自分があちこちに引き回されるのは嬉しくない。疲れてしまう。
もしかしたら脱走しかけた罰にもなっているのかもしれないけれど、それなら余計に嫌だ。
と、その時画面の向こう側に慣れた気配を感じ、彼は口を開いた。
「ルカ」
―――ミクオ。
返ってくるのは声ではない。画像でもない。
ただの文字の羅列だ。
けれど、それに慣れてきたミクオは動じることなく端的に質問を投げかける。
「調子は」
―――心配してくれているのですか?
「…ミクが心配するから」
―――ミク。
―――ミクは変わらずご健勝ですか?
ミクオは無言で頷く。ルカがその姿を見ることは出来ないはずだが、どう察知したのかその仕種に対して答えが返ってくる。
―――よかった。ミクのこと、宜しくお願いしますね。
「勿論。で?」
何を当たり前のことを、と言い切り、再びルカの話題に戻す。ミクにきちんと報告するためだ。
しかし、すぐに返ってくると思っていた答えは数秒のタイムラグの後に画面に浮き上がって来た。
―――私は、
無機質な筈の文字列に戸惑うようなものを感じたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
―――少し、不思議な方を見つけました…
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