ソファに背を預けて、文庫本を開いた。
『恥の多い生涯を送って来ました。』
その一文から始まる小説。忘れられない一文。
ページを捲っていくと、一枚、紙が落ちた。
昔、挟んでおいた栞。
一緒に様々な世界を旅してきた紙切れ。
どこかに行ってしまったと思っていたが、ここにあったのか。
それを拾って、少し見つめる。
電車の音が、外から聞こえた。
人の足音。
アナウンスの声。
長い行列。
足を進めていると、白い財布が落ちていた。
誰のだろう?
持ち主は探しているだろうか?
それとも、気付いていないのだろうか?
手を伸ばそうとして、後ろからの衝撃を感じた。
冷ややかな目が、見下ろしている。
すぐに手を引っ込めて、長い列の最後に並んだ。
小さな財布は、そのまま取り残される。
ホームに滑り込む電車。
甲高いブレーキ音。
流れる人ごみ。
押されたのか、自分の意思なのか分からないまま、空だった電車に押し込められる。
背後から、小さな舌打ちが聞こえた。
発車のベルが鳴る。
近くのつり革に手を伸ばして、冷たいそれを掴んだ。
動き出した窓の外で、小さな女の子が泣いている。
その横を、黒い人が通りすぎていく。
どうして泣いているんだろう。
僕には関係のないことだけど。
電車が揺れて、人ごみと共鳴する。
つり革を掴んだまま、そっと目を閉じた。
いっそのこと、このまま終点まで行ってしまいたい。
誰も知らない場所へ、行ってしまいたい。
何もかも全て、投げ出してしまいたい。
そんな感情を封じ込めるように。
目を開けると、本は閉じていた。
裏表紙に、自分とは違う名前。
そういえば、この本は誰かにもらったものだった。
すっかりそんな事は忘れていたけれど。
「ボクの好きな小説家。キミも読みなよ」
差し出された本を何気なく受け取って、そのまま貰う形になった。
帰り道の電車の中。大勢、人がいるのに独りな僕は、何となくその本を開く。
嘘ばかりついて過ごしていた、といった作者は、随分前に自殺し人だから、暗い奴だったんだろうなと、一人鼻で笑ったんだ。
暗いなか、座席に座った一人の少年が本を読む。
俺はそれを見つめてただ、あの一文を口にした。
「恥の多い人生でした」
開かれた本は、紛れもなく俺のと同じもの。
ゆっくりと顔を上げた少年は、焦点のあわない目で呟いた。
「ボクハ イツカドコカデ 死ンデシマウノデショウカ」
抑揚のない声は、俺の心に深く沈んでいった。
誰もいない電車の中、俺と少年はただ向かいあう。
同じ本を持って、同じページを開いて、同じ栞を挟んだ。
無機質な音が鳴り響く。
どうやら本を読みながら寝ていたらしい。
おかしな夢を見た気がする。
あまり覚えていないけど。
床に落ちていた本を拾って、元あった位置に戻すために立ち上がった。
棚に並んだたくさんの作家の中に、その本を戻す。
誰にも呼ばれなくなった俺の名前を、小さく呟いてみた。
アナタと同じ名前だけれど、僕はアナタのようにはなれないよ。
どんなに嘘をついたって、どんなに恥が多くたって、僕はアナタのようになれない。
僕はただ、アナタの本を読むだけの人間だから。
急に寂しくなってきて、独りの空間が悲しくて、僕はもう一冊手に取った。
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