第六章 03
「……こやつらを牢へ。他の者は賊が王宮内に残っておらぬかくまなく探すのじゃ。終わり次第、街中の捜索も行うように。不審者は残らずひっ捕らえよ」
賊を討ち取り歓声を上げる兵士たちとは対照的に、焔姫は喜ぶ事もなく、笑みを消すと兵士たちにそう告げる。
「姫の指示を聞いたな? 今ここにいる者は、王宮内の安全を確保せよ。私は軍本部に戻り、街中の捜索部隊を編成する。アンワルが戻り次第、近衛隊長の彼をこちらの陣頭指揮に当たらせる」
「はっ!」
「承知しました!」
ナジームが兵士をまとめ、彼らが動き出すのを見て、焔姫は国王に手をのばす。
「……父上」
「……ああ、すまんな」
国王は焔姫の手をとり、立ち上がる。
気絶している元貴族は、近衛兵が抱えていった。処刑の時まで死なないように、傷口の処置をするのだろう。
立ち上がって裾を払う国王に、焔姫は膝をつく。
「申し訳ありません。……私の、不手際です」
焔姫はうつむいたままで、国王を見上げられないようだった。
焔姫のその言葉は、元貴族を生き残らせてしまった事を言っているのだろう。近衛兵によって連れて行かれた元貴族の命が焔姫によって五ヶ月前に絶たれていれば、この奇襲はそもそも起きる事などなかったはずだと。
しかし、何ヶ月も前の影響でこんな事が起きるなど、一体誰が予測出来るだろう。しかも、結果としてこんな事が起きてしまったとはいえ、あの時の焔姫の選択にはどこにも落ち度など見当たらなかったではないかと、男には思えてならない。
野営地跡で「まずいな」とつぶやく焔姫の声が男の脳裏によみがえる。
男にはそう思えても、焔姫はあの時すでに元貴族の逃走に気づいていた。ならば、奇襲を防ぐ事もまた出来たのだろうか。
「……未来を予測する事は、誰にも出来ぬ。しかし、我らは民を守るため、常に最善手を取り続けなければならぬ。たった一度のミスですら、致命的になりかねんからな」
「はい」
国王の言葉は重い。
国を守り存続させ続けている者にしか分からない苦痛が、その言葉からはにじみ出ているようだった。
「肝に銘じよ。我らは完璧でなければならぬ」
「承知、つかまつりました」
焔姫ははっきりとした声でそう言うと、立ち上がって一礼する。そしてそのまま国王の居室から出ていってしまった。
「あ、姫――」
「――今は、そっとしておいてやってくれないか」
「王……」
追いかけようとした男を、国王が引き留める。
振り返って国王を見ると、少しさみしそうな顔をしていた。
深いしわの刻まれたその顔は、五十代のはずの国王をより老けさせている。
国王が焔姫と同じように、頑健な戦士として戦の最前線に立っていたのがたった十年ほど前なのだとは、今の姿からは想像しにくい。
国王もそのような表情をするのだと驚くが、相手はあの焔姫の父親だ。為政者としての振る舞いが全てのはずがない。
「よくやったと……そう、言ってやればよかったのだろうな……」
国王は自らに言い聞かせるようにつぶやく。
「……しかし、人質となった我を前に『殺して見せよ』とは、我が子ながら、ずいぶんな事を言ってくれたものだ」
「姫は、王の……人質の命を……確かに、その、かえりみないような言動ではありましたが、決して王のお命をないがしろにしようとしたわけでは……」
男があわてて国王に意見するが、国王は苦笑している。
「分かっておるよ。あれは最善手であった」
国王は男に怒っているわけではないと手を振る。
「最善……ですか?」
「ああ。そうだ」
国王は男を相手にしても悠々としている。まるで、男の処遇を忘れてしまっているかのように。
「人質とは、生きているからこそ意味がある。自らが不利であれば尚更だ。当初は自分達の方が有利と油断しておったが、あの子の態度に不利とあの――ハリド公は悟った。そうなれば、自分が死んでも構わんと思わぬ限り、人質は絶対に殺せぬ。人質がいなければ、自分が死ぬのだからな」
「それは……そうかもしれませんね」
男の返答に、国王はうなずく。
「ああ。そしてあの態度を見る限り、ハリド公という男は、何があっても自分の身を一番に守ろうとする。つまり死んでも構わんなどとは露ほども考えぬという事だ。となれば、奴はもともとどうやっても我を殺す事など出来はせぬ。それが分かっておったから、あの子はあんな態度をとったのだ。この国のために、そして我を助けるためにな」
「そこまで考えて……」
そこまで話して、国王はようやく男をまっすぐに見る。
「それよりも……死にたくなければ、この混乱に乗じて逃げるしかないのだぞ」
国王は周囲に誰もいない事を確認してから、国のトップとは思えないような事を言ってきた。
「そのような、事は……」
「今しか言わぬぞ。同時に、チャンスも今しかない。そなたなら他のところへ行っても十分に食べていける。みすみす命を捨てる事もないだろう」
男は混乱していた。
国王の言葉は、確かに男にとっての今の状況を的確に見ていると言っていい。しかし、だからといって国王自身がそれを言ってはならないはずだった。
国王はどうしてそのような事を言うのだろう。そこにはどんな意図があるのだろうか。
「……」
当惑する男の視線に、国王は申し訳なさそうにうつむく。
「……すまんな。本当は、そなたには感謝しておるのだ。しかし、死罪の恩赦にはそれ相応の明確な理由がなければならん。現状では、そなたの作る曲次第としか言えぬ」
「そう……で、ございますか」
どう返答すればいいか分からず、男はそう言う事しか出来なかった。
「……逃げるつもりは、無いのか?」
「ありません」
男は即答した。
「この曲を姫に聞いていただくまで、この国から出ていくわけにはまいりません」
男は手にしたままだった羊皮紙を、大事そうに抱える。
男のそんな様子を、国王は興味深そうに見ていた。
「つまり、傑作が出来たという自信があるのだな」
「……そんな、めっそうもない」
男の返答に、国王は眉根をよせる。
「自らの命がかかっている割に、ずいぶん弱気なのだな」
「そういうわけでは……」
「……?」
国王の視線を直視出来ず、男は視線をそらして開口の外、まだ暗い街を眺める。
「『傑作とは、自分ではなく聴衆が作るものだ』……亡き父の言葉です」
「……聡明だな。そなたの父君は」
国王の返答は簡潔だったが、その言葉の意味をしっかりと分かっているようだった。
「普段は優しかったのですが、吟遊詩人の先達としてはとても厳しい父でした。父が亡くなってからも吟遊詩人として諸国をまわり、私はその言葉が事実だと思い知らされ続けてきました。この曲には――」
羊皮紙へと目を落とし、男は言葉を飲み込む。
――自らの持てるすべてを注ぎ込みました。ですが傑作である事への自信など、私には初めからないのです。
だがそれでも、作った曲を披露せずにこの国から出ていく事など出来なかった。
それは、吟遊詩人としての業だ。魂をかけたこの曲が果たして傑作足りえるか。それは、作る際にどれだけ苦労したところで、聞いてもらうまでは分からない。
そこに、たとえ自らの命がかかっていようとも、逃げ出す事は自らが吟遊詩人であるという事をも否定している気がした。
そんな――信念とも言えない思いをわざわざ告げる事は、どこかはばかられた。
「……我は、父親としては失格なのかもしれぬな。そなたの父君のようには出来なかった」
「何を……」
国王は焔姫の去っていった扉を見つめ、言葉を漏らす。その顔にあるのは……後悔だった。
「姫は、素晴らしい人格者でいらっしゃいます。王の背中をずっと見てきたからに違いありません」
傲岸不遜。
横暴。
そういった単語とともに語られがちな焔姫の事を“人格者”だと称するのは、下手をするとお世辞を言っているだけに感じられてしまうだろうかと男は思った。
だが、男は本心から焔姫が人格者だと思っているのだ。
焔姫がどれほど思い悩み、苦しんでいるのかを知ったからこそ。
「そういう事では……ないのだ」
国王は首を振る。
単に焔姫の態度をもって自らが父親たり得なかったと思っているのではない、という事らしい。
「……どういう事で、ございますか?」
仮にも死罪を受けた身で、果たして本当に自分が尋ねてもいいのだろうか。
男はそんな事を考えたが、国王は気にしている素振りなど全く見せない。
「あの子が幼い頃から、厳しく接してきた。国のためには、それが必要だったからな。だが……あくまで国のためで、我が子のためにした事はほとんどない。そのせいであの子は誰にも甘えられなかったのやもしれぬ」
我慢を強いてきたのだ、と国王は悲しげに告げた。
「……」
男は歯を食いしばる。
出過ぎた事を言ってしまわないように。
「今となっては、何を成し遂げても苦言をていさねばならなくなった。あの子はもう、将軍としては以前の我よりもよくやっているというのにな」
どうか、お願いです。
姫を褒めてやって下さい。
よくやった、と。
それだけでいいのです。
ただ、姫の努力を認めてあげて下さい。
姫にその言葉をかける事が出来るのは、父親である王ただ一人なのです。
「……」
そんな言葉を思い浮かべ、しかし口を閉ざす。
ここまでの会話でさえ十分に立場をわきまえない真似をしているというのに、死罪を受けた身でそのような事を言うべきではなかった。
男はただ黙って、国王の話を聞くだけに努める。
しかし、そこで国王も気づいたようだった。しまったな、とでも言いそうに首を振る。
「……すまんな。余計な話をした」
「いえ。私には……その、何と申し上げればよいか分かりませんが」
「そうかね? 何か言いたげに見えるが」
父娘とも察しがよく、男は苦笑いをしてしまう。
「いえ……決して、そんな事は」
「……まあいい。どちらにせよ、そなたも行くがいい。ここにいたままでは、また違う罪状がつく事になるからな」
「承知……しました」
男はここが国王の居室だという事を失念していた。国王に一礼すると、あわてて部屋を出ていく。
「あの子の曲、楽しみにしているよ」
「あ……ありがとう存じます!」
扉のところで振り返り感謝を告げる男に、国王は笑う。
「……本当は、このまま会わずに済む事を願っているがね」
それが暗に「この国から逃げ出して生きろ」と言っている事は、男にも分かった。命をかけるくらいなら可能な限り生きろと言ってくれるのは身に余る光栄だったが、男にはそんな事は出来なかった。
男にとって……最も大切な人のために。
「自室に戻ります」
毅然とそう言う男に、国王はあきれたようだった。
「そなたもなかなかに頑固者のようだな」
その言葉に、男と国王は二人して苦笑した。
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