私は気付いていた。
どこかで、世界がつまらなくてくだらないものだとは思えなくなってきたことに。
でもそれは、今までの自分を否定することと同じで、すぐに認めることができないでいた。
物や人と極力関わらないでいた私が、カイトと出会ったことで変わっていく。
私が認めようが認めまいが、カイトと関わることで私の世界は確実に色を変えていた。
>>07
食卓にちょこんと置かれたものを見て、私の口はあんぐりと開いたままになっていたことだろう。
視線の先にあるのは、見覚えのある――というより酷く懐かしい――パンだった。
父と私が朝食用に買いためておく菓子パン。
菓子パンを前に固まっている私を見て、カイトが小さく笑った後で言った。
「ちょっと朝食作る時間がなくて、最近見つけた安い菓子パンで悪いんですが」
どうやら彼は、私が手作りの朝食ではないことに愕然としているとでも思ったらしい。
本当はそんなことはどうでもよく、むしろこのパンが食べられることに軽く感動を覚えているぐらいなのだが。
――そう、いくつかの物証が示すように、ここは過去だ。
しかも、34年も前だ。
それだというのに、このパンが普通に存在している。
奇妙な感覚だった。
もちろん、父からの話で何十年も前からあったことは知っている。
だが、まさか自分が過去へ行って、しかも変わらぬこのパンを食べることになるとは思わなかった。
確か、父がこの菓子パンを食べ始めたのは、まだ学生の頃だったと言う。
それから何十年もずっと、勉学や研究に打ち込みながら、朝食にこのパンを食べ続けていたそうだ。
そしてそれは、娘の私にとっても習慣となった。
菓子パンの袋を破り捨て、一口頬張る。
いつも食べていたそのとびきり美味しいとも言えないはずの味に、またもや感動を覚えた。
勝手に溢れそうになってくる熱いものを堪えて、口の中のパンを咀嚼する。
「……ああ、この味だ」
自然と言葉が漏れ、口元に笑みが浮かぶのがわかった。
私の言葉の意味がわからないように、カイトが首を捻る。
「食べたことがあるんですか?」
「食べたことがある、なんてレベルじゃないよ。毎朝これだった。父が好きで……いつの間にか習慣化していたんだ」
ようやく私が菓子パンを見て驚いていた理由がわかったらしく、カイトはパンを頬張りながら納得したように小さく頷いた。
未来にもあるなんて、愛されてるパンなんですね、とかどうとか言っているが、私は小さく笑って相槌を打つ程度にとどめる。
頭の中に浮かんでいたのは、ぼんやりとした父の顔。
何故だか、今朝見ていた夢が、もう少しで思い出せそうな気がして、カイトの言葉を聞くどころではなかった。
誰かと話をしていたのか、誰かの言葉を聞いていたのか。
おそらく、私は夢で父と話した。
何を話したのか、何を聞いたのかはわからないが。
うわの空で食事を続けていると、一足早くパンを食べ終えたカイトが立ち上がった。
はっと我に返って彼に視線を向ける。
「僕は研究室に行きますが……」
「ああ、わかってるよ。絶対入らない」
どこまで心配するのか呆れて返答をすると、安心した様子でカイトが部屋を出ていった。
しかしながら、『入るな』と言われるとつい入りたくなる天邪鬼な気持ちもわいてくるものだ。
だからといって私は居候の身なのだし、彼の指示に従うべきだということもわかっている。
とりあえず大人しくしておこう。
それで厄介ごとに巻き込まれるのも面倒だ。
それならば暇人は暇人らしく、思考の海に沈んでいるとしよう。
少し前までなら、深く考えることを拒んでいた私が、そうして暇を見つけては今まで放棄していたことを考えられるようになったのは、カイトのおかげなのだろう。
そういえば……今まで気にもとめなかった、というか、これも途中で考えるのをやめていたのだが、あの日――いつものように突拍子もない会話を始め、世界は面白くないと言った私に、父は「もうすぐわかるよ」と言った。
今になって、父はもしかしたら私がここへ来てカイトと出会って変わることを知っていたのではないかと思えてくる。
いや、さすがにそこまでは考えすぎか。
だが、他にも気になることがあった。
父が仕事に行く前に書いたと思われるメモ。
『夜は適当に食べて。行ってらっしゃい』と簡潔に書きとめられていた。
勘繰りすぎかと思う。
だが、本当に勘繰りすぎなのだろうかとも思う。
私がここへ来ることを知っていたから、いつもは書かないような『行ってらっしゃい』という言葉まで書いたのではないだろうか。
考えてみると、ここへ来る朝と前日、父の言動はおかしかった。
もしかすると、父が私をここへ――。
「……まさか」
さすがに、さすがにそれは勘繰りすぎというものだ。
しかし、考えれば考えるほど、自分が父のことをどれだけ知らなかったのかが浮き彫りになってくる。
父もカイトと同じように研究をしているが、どんなことを研究しているのかは知らない。
父の名前も、年齢も、隻眼の理由も、私にメイコと名付けた理由も……何も、知らない。
知らないから、つい変に勘繰ってしまう。
そう、それだけの話だ。
父は多くを語らなかった。
だからと言って、喋らない人ではなかったし、むしろ話し上手だったと思う。
楽しそうに話すのは、私のことか亡くなった母のこと。
けれど私は、その母のことすら、姿も声も知らない。
知らない、知らない、何も知らない。
知ろうとしなかった。
父も話さなかった。
これが普通なのだと思っていたが、そんなはずもない。
「このままじゃあ……姿すら忘れてしまいそうだな」
唯一私が、元いた場所と繋がれる絆が、父との記憶。
こんなに頼りないものでは、いつしか全て忘れ去ってしまうような気がして、少し不安になる。
ようやく世界が面白いと思えたのに、一番そのことを伝えたい人と、その記憶を失ってしまうかもしれない。
もしかしたらもう会えないかもしれない。
今までの私なら、それも仕方がないと言えたのだろうが、今は違う。
それは、とても恐ろしい。
「忘れるというのは、こんなに」
言いかけたその時、最後の言葉に重なるような轟音。
思わず身体が大げさに跳ねた。
それは、どう聞いても爆発音だった。
平和な毎日にはあまりにも不釣り合いで、すぐには何が起こったのか理解できない。
だが、理解できないなりに部屋から出て、廊下を歩きながら部屋を確認していく。
爆発音なんてものが普通の街から上がるわけもないし、普通の家から上がるわけもない。
ただし、ここは少し普通の家ではないかもしれなかった。
普通はないだろう場所がある。
この家の中でそんな音が上がる場所があるとするなら、その一か所だけだ。
『研究室には、入らないでください。今日は少し危険な実験をしますので』
カイトが言った言葉が蘇る。
だが、知ったことか。
何もなければ謝ればいいだけの話だ。
研究室へと近づけば近づくほど、心臓がうるさく鳴る。
走っていきたいのに、足取りは遅々としてなかなか進めない。
冷や汗が頬を伝っていく嫌な感覚。
ズキン、と胸を貫く痛み。
思考回路が真っ白になって焼き切れそうだ。
そんな中、ようやく研究室の前へ辿りつき、扉に手をかける。
心臓がうるさい。
よくわからない記憶の断片のようなものがフラッシュバックしたが、気にせずに扉を開けた――。
もっと早く気付けていたなら、私は終わりを思ったのだろうか。
ああ、それでもきっと私は、君と一緒にいない世界なんて望まなかったのだろう。
本当に心からそう思うよ。
>>08
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