月が綺麗な夜だった。
仲間の群れから離れて、屋根の上でのんびり夜空を眺めていた。
ここは僕の特等席。月が一番大きく、綺麗に見えるんだ。
かたん。
背後から小さな音がして、すぐ側の一つの家の窓に近づいて行く。
少し開いた窓から風が入り、カーテンが揺れている。
窓際にちょこんと座っていたその子と、目が合った。
大きな目が更に開かれて、黒い瞳がかすかに揺れた。
突然現れた汚い野良猫を怖がっているんだろう。
飼い猫には、見慣れない姿だろうから。
僕は慌てて取り繕うように声をかけた。
「こんばんは、可愛いお嬢さん。真っ白な毛が素敵ですね」
女の子を喜ばせる言葉なら、いくらでも持っている。
日頃からどれだけ喋り捲っていることか。
本気になって振り向かない子はいない、そんな自信があった。
「こんな月が綺麗な夜は、僕と一緒に遊びませんか?」
……ぷい。
その子は、冷めた目でそっぽを向いてしまった。
あ、あれ?おかしいな。
よしもう一押し。
「ニャン生は一度きり!楽しむが勝ち。
あなたを縛るその首輪…僕が噛み千切ってあげましょうか?」
そう囁いて妖しく微笑み、自慢の鋭い牙をちらりと見せて。
僅かに開いた窓から前足を忍ばせ、その細く白い首元にゆらりと近づけば…――
――しゃっ
一瞬何が起こったのか分からなかった。
目の前の彼女は、きつい目で僕を睨みつけていて、前足からは光る爪が飛び出していた。
そのうちに顔がカッと熱を持ち始め、僕はようやく悟る。
僕は怒った彼女に、顔面を引っ掻かれたんだ。
ショックで言葉が出ない僕に背を向けて、その子は部屋の奥へと去って行った。
***
「それで、すごすごと帰ってきたのか?」
翌朝、恥ずかしい大失態と隠せない傷の理由を僕は仲間に正直に話した。
「飼い猫はやめとけよ。ろくな事ないぜ」
「そうそ。あいつら絶対俺らのこと馬鹿にしてるよ」
「でもお前なら、どんなお高いやつでも落とせるかと思ってたな~」
仲間達の意見はばらばらだ。皆好き勝手に騒いでいる。
そんな中、一番仲の良い猫が近づいてきて、言った。
「でも、また行くんだろ?」
「え?」
そいつはにやりと笑っていった。
「だってお前、なんか今すっげー楽しそうだ」
***
その晩、僕はいつもの特等席に向かった。
正確にはそのすぐ側のあの窓だ。
しばらく月を眺めた後で、そっと背後を窺う。
暗い夜の街、部屋の窓から四角く漏れる明り。
真っ白い彼女は、つんと澄ました顔でそこにいた。
「こんばんは」
意を決して近づき、声をかけた。
彼女は一瞬こっちを見たけど、すぐにまた目をそらす。
僕はめげずに話し続けた。
野良は最高ですよ。
ごはんは魚をくすねたり
ハトを追いかけて遊んだり
昼間は働く人間達を眺めて
屋根の上で日向ぼっこ…
野良生活の楽しさを分かって欲しくて、
僕に興味を持って欲しくて、
彼女と外に遊びに行く日を夢に見て。
ニャンニャンニャン、ニャンニャンニャン。
たくさん、会いに行った。
たくさん、話し続けた。
あなたも自由になりたくはないですか。
今日は素敵な仲間も連れてきました。
僕等と一緒に遊びに出かけませんか。
さあ、その窓を大きく開いて。
飛び出すのです!
そんな日々を過ごし、僕はいつしか彼女に夢中になっていった。
毎夜毎夜と話し続けるうちに、彼女も視線を合わせてくれるようになった。
話も少しは楽しそうに聞いてくれるようになった、…と思う。
けれど彼女は頑なに部屋から出ようとしない。
何がそこまで彼女を縛り付けているのか。
その理由を、僕はすぐに知ることになる。
***
つんと澄まして。お高くとまって嫌な女。
ぴんと背筋を伸ばせば、まるであなたを見下しているようでしょう?
「これは気ままな野良猫さん。
今夜もまた来たの?ご苦労様。
闇の中、目だけが光ってるわ。
随分口が上手だけど…私はそこらのバカな女とは違うのよ」
毎夜そこで空を眺めるあなたを、その自由な姿を、
ずっと見ていたのは私のほうなの。
あの時、初めてあなたと言葉を交わした時、
あなたに気付いて欲しくて、私窓を開けて音を立てたの。
かたん。
月ばかり見ていたあなたはあの日、ようやく私の存在に気付いた。
「ニャン生は一度きり!だからこそ飼われるのよ。
このブランド首輪の価値、あなたには分かるのかしら?」
ほんとはいっそ噛み千切って欲しかっただなんて。
外の世界に連れ出して欲しかっただなんて。
そんなこと言えなかった。
照れ隠しに引っ掻いてしまったこと、今でも後悔してるの。
「私の生活はとっても優雅よ。
美味しい食事にふかふかベッド。
水はちょっぴり苦手だけど…
毎日シャワーだって浴びて清潔だし」
毎夜来てくれるあなたの話を聞くことが、
最近の私の一番の楽しみだったなんて…。
「それに比べて、あなたは誰に守ってもらうの?
明日車に轢かれるかも知れないじゃない!」
ニャンニャンニャン、ニャンニャンニャン。
そんなこと、言えなかった。ふん、とそっぽを向くしかなかった。
可愛くない私。きっとあなたはそのうち愛想をつかして、ここへ来てくれなくなる。
そう、思っていたのに。
「そんな強気なとこも素敵です
一層あなたを好きになりました」
――…お願いそんなこと、言わないで。
顔が熱くなる。涙が出そう。
その手を取ってしまいそうになる。
ぐっとこらえて、またいつもの通り何でもないように鼻で笑う。
「あら、正直ね。でもそんなやり方じゃ全然ココロ揺らがないわ」
私には、どうしても素直になれない理由があるの。
***
「――どう思うよ。あいつ」
「どうもこうも。最近付き合い悪くなったよな。つまんねぇの」
「あれだろ、屋根の上の白猫に夢中なんだろ」
「手に入んないからむきになってるだけさ」
「無理やりにでも連れてきゃいいのにな」
「…俺達でやればいいんじゃねぇの?」
ニャンニャンニャン、ニャンニャンニャン。
仲間達がそんな話をしていたことを、僕は知らなかった。
その日は彼女に送る為の花を探しに行っていたから。
***
きれいな花を見つけて、浮かれ気分で彼女のもとへと向かっていた僕を、仲間の一人が呼び止めた。
彼の話を聞いて、僕はびっくりしてくわえていた花を落とした。
それから彼に案内されるままに走った。
全力で走って着いたのは、見慣れた僕らの隠れ家。
一番に目に入ったのは、たくさんの仲間たちに囲まれて、怯えて小さくなっている彼女の姿。
僕は駆け寄った。そしてたくさんたくさん謝った。
安心したのか、彼女は静かに泣いた。つられて僕も泣いた。
みんなが彼女を連れてきた理由は、走りながら聞いていた。
みんな僕のことを思ってしたことだから、怒れなかった。
でもそんな僕の姿を見て、みんな悪いことをしたと気付いたらしい。
バツが悪そうに俯いて、小さくごめん、と呟いた。
***
「僕の夢は、いつかこの街を飛び出して、
はるか北の国に旅して、オーロラをこの目で見ることです」
隣で寄り添う彼女に、夢を語る。
空には満点の星空と大きな月。
あの騒ぎの後、彼女は一日だけ僕に時間をくれた。
その一日だけは、ずっと一緒にいた。
すっごく、幸せな時間だった。
……その時、あなたがこうして隣に居てくれたら、なんて素敵でしょう。
その願いは口には出さない。
それは叶わないらしいと、僕はもう知っている。
彼女が頑なに部屋を出ようとしない理由を、僕はもう知ってしまった。
だからせめて今だけは。
このぬくもりを大切にしよう。
「叶えてね。その夢、絶対叶えてね…」
愛しいぬくもりの中で、彼女の小さな声を聴いていた。
***
――生き方は、そう簡単には変えられないの。
彼の仲間達に外に連れ出されたあの日。
初めはすごく恐ろしくて、どうしてって思った。
だけど彼が息を切らして駆けつけてくれて、本当に心配してくれてて、
仲間の人達にも謝られて。
私を連れ出した理由を聞いて、みんな彼が大好きなんだって分かった。
そこで私は自分から言ってみた。
一日だけ、私を仲間に入れて。
それは私の知らなかった世界。
ご飯がなくて、寝床が硬くて、シャワーはなくて……でも、そこには自由があった。
美しくて広い世界があった。楽しいことがいっぱいあった。
彼の話は全部本当で、体験するほうがずっと楽しかった。
もっともっと、知りたかった。
もっともっと、彼といたかった。
だけどもう、帰らなきゃ。
――生き方は、そう簡単には変えられないの。
それに私を飼っている、女の子を一人にできないわ。
それが、私がここを出られない一番の理由。
私はずっと昔から彼女の飼い猫なの。
まだ小さな子猫だった頃から、彼女に守られてきた。
ここであなたを見つける、それよりずっと前から。
一日しか家を空けてないのに、家に帰った日、彼女は私を見かけるなり抱きしめた。
その温かさにとても幸せな気持ちになった。彼女の愛情をとても感じた。
私の居場所はやっぱりここなの。
「話の途中よ!あらもう行っちゃうの?ねえちょっと!
明日もここに来ていいのよ。
待ってるから…」
***
――数年後。
僕はあの街を飛び出した。
はるか北の国を旅しに来たんだ。オーロラをこの目で見るために。
夢を、叶えるために。
道中、僕の隣には一匹の子猫。
置いていくつもりだったのに、どうしてもと着いてきてしまった。
彼女にそっくりな、つんと澄ました真っ白い子猫。
長い旅になる。ゆっくり行こう。
彼女も見ているだろう、あの月を見上げながら。
――――――END
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