14.
「ええと……その、リン?」
その声に、オレはようやくハッとする。
バリケードから暴徒と化した群衆が走り出していく……そんな頭の中の妄想が溶けて無くなり、崩壊した一番地区から七番地区のカフェへと、周囲の光景が様変わりしていく。
「あ……、その。すま……ごめんなさい。オ……わたし、ぼうっとしてしまって……」
オレ――わたしは、目の前に座る青年を前に少しだけ目を泳がせ、申し訳なさそうに顔を伏せる。
目元に手をやると、少し濡れていた。
私はなんとかバレないように涙をぬぐう。
「あ、いやいや。その……疲れてるんなら無理しなくていいんだけど」
青年――スティーブ・マクラーレン――は慌てて手を振る。
わたしとスティーブの間にあるテーブルには、二人分のティーセットが置いてある。彼の分は空になっていて、わたしの分はほとんど手がついていない。
店内はそこまで広い訳じゃない。テーブルが四つとカウンターがあるくらいだ。昼過ぎだが、テーブルはまだ二つも空いている。
「その手……タトゥー? この前は……無かったよね」
「ああ、その。先日入れたんです。どうしても……入れたくて。似合っていませんか?」
わたしは少し気恥ずかしそうに手の甲を隠し、はにかんで見せる。
市長の死から数日、市長の息子は着実に新市長となるための基盤を築いている。わたしはと言えば、スパイカーズが順当にブルースカルズを駆逐しつつある。スラム全域を支配下に置くのもまもなくだろう。ギュスターヴ・ファン・デル・ローエ二世が針降る都市のトップになろうとしている裏で、わたしはこの都市を影から支配しようとしているわけだ。
「そんなこと無いよ! その……タトゥーには詳しくないけど、なんていうか、すごく綺麗だと思う。似合ってるよ」
「ふふ。ありがとうございます」
わたしは誤魔化すようにデザートスプーンを手に取り、目の前のチーズケーキを口にする。
滑らかな筈の舌触りも、甘い筈の味も何も感じない。
砂みたいなざらざらした不快な舌触りに、ただ不味いだけの味だった。
顔をしかめ……ハッと顔を上げるとこちらをじっと見つめるスティーブと目が合う。
彼と七番地区のカフェに来ていたのだが、この針降る都市を滅茶苦茶にする夢想を止められなかった。
そうして虐げられていた人々を煽るための口上を考えていたら、スティーブにバレてしまっていた。
タトゥーも見られているし、チーズケーキに顔をしかめてしまったのも見られて……今日は失敗ばかりだ。
「ええと……この店、そんなに口に合わなかった? 僕はすごく美味しいと思うんだけど……もしかして、もっといいお店知ってる、とか?」
「いえ、そういうわけではないのですけれど。最近、食欲があまり無くて……」
試しに、ここよりも一桁も二桁も値段の違う食事をしたことがある。だけれど、それも全て砂のようにしか感じられなかった。色覚と同様、わたしの味覚は死んでしまった。恐らく、もう何だろうと吐きそうになるのを我慢して食べるしかないのだろうと思っている。
「そっか……。ごめん。ちょっと気が利かなかったね……」
「そんな……気にするほどの事じゃないんです」
申し訳なさそうな青年に、わたしは苦笑を浮かべてチーズケーキをもう一口食べ、ミルクティーを口にする。
……砂の塊と、泥水でしかなかったけれど。
「そ、そうだ! ここからすぐそこの運河で、ゴンドラに乗れるんだよ。なにか辛いことがあるのかもしれないけれど、きっと気分転換になると思うんだ。どう……かな。試してみない?」
何かにすがるような勢いで、わたしの気を引く一心で、スティーブがそうまくし立てる。
「ああ……ええと、その。そうですね」
正直、もう帰りたかったし、彼に何か惹かれることもなかった。
なぜその提案を受け入れてしまったのか、自分でもよく分からない。
ただ……自分はともかく、彼に不快にはなって欲しくないと思った。
「もしかしたら、気が晴れるかもしれませんね」
「じゃ、そうしよう! 次はきっと楽しいって思ってもらえるから!」
スティーブの顔がパアッと晴れ、まぶしいくらいの笑顔を見せる。
それだけの事に、罪悪感を覚えた。
わたしは苦痛極まりないチーズケーキとミルクティーをなんとか吐かずに胃袋に押し込み、穏やかに見える微笑みを張り付けてスティーブと共に店を出る。
会計で押し問答をしたが、スティーブがどうしても払うと言うので、仕方なく支払いは任せた。わたしにとってはどうという事の無い金額だけれど、恐らく、彼にはいい出費だろう。
それを白状してもいいが、彼のプライドを刺激するのもまたためらわれてしまった。
二人で七番地区のカフェから出て、二人で少し歩く。
今日は珍しく雨は降っていないが……それでもどんよりとした曇天だった。いつ霧雨が降りだしてもおかしくはない。
わたしの手には小さな手提げ鞄。中にあるのは少しの現金と、最近買ったデリンジャーという小型の拳銃だった。
銃口が二つついていて、それぞれに一発きりの弾丸が込められている。二発撃ったら、空薬莢を手で抜き取って弾丸を込め直さなくてはならない、連射など出来もしない銃だ。その代わり小型で、わたしの小さな手提げ鞄に入る程度には目立たない。護身用には十分な代物だった。
カフェに来るまでに使った、彼の車で移動しようとスティーブが提案してきたが、わたしの一緒に歩いた方がいいという提案に魅力を感じたらしく、わたしとスティーブはカフェから運河までを二人で歩いた。
彼の安い中古車は振動が酷く、乗り心地が最悪だったのが主な理由なのだが、どうやら彼は、わたしの提案は一緒にゆっくり歩きたいからだと解釈したようだった。
……まあいい。
「リンは……もしかして、東側の出身?」
会計を済ませ、ゆっくりと運河までの道を歩いていると、スティーブがおずおずとそう訊いてくる。
「いえ。そういうわけでは……ありませんよ。よく……分からないんですが、どうやら出身は七番地区のようなんです」
「ああ……そうなんだ。ごめん」
「いえ、いいんです。こういう事はあまり人に話せないので、少し安心します」
「なら……いいんだけど」
何処が出身かハッキリしない、というのは孤児によくある事だ。そして孤児と言うのは、この都市においては孤児院で育ったことを意味しない。孤児院のような施設がないこの都市では、孤児は人買いに売り飛ばされるからだ。その事実自体に嘘は無い。わたしの場合、その後……アレックスに買われ、法規上は配偶者となっていた結果、スラムとは無縁の東側の二番地区が自宅になってしまっただけで。
出身が曖昧だというだけで、大抵の場合は人買いを経由しているという事が伝わる。現状のわたしの地位はともかく、出身は彼と大差ないと言う事が出来るのだ。
「だから、はっきりと見覚えがあるわけではないんですが……なんだか、この辺りは懐かしい気がするんです」
「そっか。それなら……よかった」
わたしのほとんど出鱈目な感想を聞いてことのほかホッとするスティーブに、わたしは微笑みを返す。
わたしの作り笑いを、彼は疑いはしなかった。
「ほら――あれですよ。対岸までゆっくりしていけるんです。自分で漕ぐこともできるんですよ」
「へぇ。……知りませんでした」
堤防までやって来ると、西側と東側を繋ぐ橋の下で小さな遊覧用のゴンドラが四、五隻ほど、川縁に繋ぎ留められていた。いつもディミトリの車に揺られて橋の上を渡っていたから、橋の下にゴンドラがあるなんて知りもしなかった。
少し自慢げなスティーブに微笑み、わたしは堤防からの階段を降りて運河へと近付く。
ゴンドラの繋留所には、渡し守らしき中年男性の他には誰もいない。くたびれた服を着て折り畳み式の椅子に座っているその姿は、どこか哀愁が漂っている。
……まあ、この濁った色の運河を見れば、わざわざゴンドラに乗ろうという人はそう多くはないだろう。
とはいえ、わたしには単なる灰色に過ぎないが。
「ダンおじさん!」
声を張り上げるスティーブに、生え際が後退し始めている中年男性はびっくりして立ち上がる。
「なんだ、マクラーレンのとこの倅か! ゴンドラ乗りに来るなんて久しぶりじゃねーか」
そう言ってから、ダンおじさんと呼ばれた男性は彼の隣に立つわたしを見てニヤッと笑う。
「なんだなんだ。ガールフレンドと一緒なのかい。デートとは見せつけてくれるじゃねぇか」
「おじさん、勘弁してくれよ! まだ……そんなんじゃないから」
がはは、と声を上げて豪快に笑うダンに、スティーブは慌てて駆け寄っていく。
「なんだよ。可愛い嬢ちゃん捕まえやがって。モテる男は違うねぇ。うちの倅にも見習って欲しいもんだぜ」
「だから! ついさっきちょっと失敗したばかりなんだよ。そーゆーからかいが一番あの娘を不快にさせるんだって!」
「わぁーかったわかったって。それでダンおじさんのゴンドラで、男らしさと紳士的な振る舞いを見せてやろうってんだろ? いい選択肢じゃねぇか。邪魔なんかしねぇよ」
「頼むよ、おじさん。……リン、おいでよ!」
二人の会話は丸聞こえだったのだが……とりあえず、苦笑しておけばいいのだろうか。
「お知り合いなんですね」
「おうよ。この小僧っ子は俺の友人の子でな。良くできた奴だよ。しっかり者だ」
ばんばんとスティーブの肩を叩くダン。
「いやあの、そこまで言われると気恥ずかしいだろ」
「まあまあ。いつもは俺が漕いで行くんだが……スティーブ、自分でやるんだろ?」
「その、つもり……だけど」
「こいつは小さい頃からこれで遊んでたんでね。ゴンドラを漕ぐのは上手いもんだよ。安心してくれ。俺は二人の邪魔はしないからよ」
「ふふ、ありがとうございます」
「……」
スティーブは一瞬ポカンとし、すぐに顔を赤くさせた。
わたしは、意味が分からないフリをした。
「あの……なにか?」
「あ! えと、そのいや何も!」
スティーブはぱたぱたと手を振って、見惚れたことを否定してきた。そんな彼を見て、ダンはガハハと豪快に笑う。
わたしの態度も何もかもが偽りだというのに、スティーブは疑う事もなく馬鹿正直にわたしを信じている。
……愚かなものだ。
スティーブはそんな自らの態度を誤魔化すように、近くのゴンドラに慣れた様子で乗り込み、船尾のオールを手にするとこちらを手招きしてくる。
「さ、ええと……こっちへおいでよ。ちょっと揺れるかもだけど、ひっくり返ったりしないから」
「嬢ちゃん、段差に気を付けてな。揺れるから、乗る時はスティーブの手をとった方がいい」
ダンのアドバイスに従い、わたしはスティーブの手をとってゴンドラに乗る。
スティーブが“ナイスアシスト”とダンにウインクするのが目の端に映ったが、再度気付かないフリをしておく。
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