古い文献に描かれていた、一筆書きの、シンプルな形の文字は「アイ」だとアヤは言った。
「アイ?」
「そう。愛。」
そうアヤは言い、ああ。気がついたように声を上げた。
「この国には愛と同じ意味の言葉が無いな。」
そう呟いて、アヤは思案するように中空を睨みつけた。アイを説明しようと、思考を巡らせているようだった。
「大切にしたいと思う気持ち。」
「尊敬。」
「それだと、関係がちょっと遠い。こう、無性に抱きしめたくなる気持ち。」
「可愛がる。あるいは、束縛。」
「それじゃあなんか一方的だな。でもそういう一面もある。でもそれだけじゃないんだ。」
なかなか上手に言い表せないアヤに、だからアイって何なんだ。と獣は顔を顰めた。
「察するにアイとは感情のようだが、この国の民には無い感情なんじゃないか。」
「それはない。民族とか関係なく誰もが持っているものだ。」
そう反論を口にして、そうだな、とアヤはどこかはにかむ様な笑みを浮かべて口を開いた。
「おれがここに帰ってくると、あんたはこの窓の鍵を開けてくれるだろ?それも又、愛のひとつだ。」
「壊されたら面倒だな。っていう気持ちの事か。」
そうぶっきらぼうに言う獣に、酷いなそれ。とアヤは苦笑した。
ふとアヤが窓の外に視線を向けた。獣もつられてそちらに視線をやると、金属の枠で囲まれたガラス窓の向こう側、藍の夜空に白い満月が浮かび上がっていた。
陽の光を受けて月は白く輝くのだという。穏やかで柔らかいそのひかりに、綺麗だな。と獣は呟いた。
「月が、綺麗だな。」
思わず零れおちた獣の言葉に、アヤが驚いたように目を見開いた。何に驚いているのだ、と獣が問い掛けようとした瞬間。大きく見開かれていた瞳が柔らかな弧を描いた。まだ幼さの残る頬が綻んだ。
心底嬉しいと言うように、アヤは笑顔をこぼした。
アヤの、その笑顔に呼応するように柔らかな空気が広がる。ひとつ、溢された笑みだけでこの塔の中に満ちるものがある。
「おれ、死んでもいいや。」
そう満面の笑顔でアヤは脈絡のない言葉を紡いだ。言っている意味が分からなくて獣は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「何だそれ?」
「さあね。言ったらあんたは絶対に否定するから。内緒だ。」
そう楽しげに言うアヤの横で、獣は、内緒だなんてアヤのくせに生意気だ。と口を小さく尖らせた。
―はるか昔どこか遠くの国で、愛を伝えるのに、「月が綺麗ですね」と言った人がいたのだそうです。
はるか昔やっぱりどこか遠くの国で、送られた愛の言葉に対し同じく愛を伝えようと、「わたし、死んでもいいわ」と返した人もいたのだそうです。
私は知りませんでした。アヤはそれを知っていました。
もし、私がそれを知っていたら。そんな遠回しな方法でも「アイ」を伝えられると知っていたら、その方法を使っていたでしょうか。
きっと、そんな可愛らしい方法を知っていても、私は「アイ」を伝えられなかったでしょう。
プライドで護らなければならないほど、私は自分が思っている以上に弱い生き物だったから。
コメント0
関連動画0
ブクマつながり
もっと見る朝、獣が自室の書斎に戻ってみるとアヤはまだそこにいた。古びたソファの上に陣取ったアヤは、部屋の中に入ってきた獣に、おはよう。と言いながら睨みつけてきた。どうやら一睡もしていないようで、疲れた色をにじませたその眼の下は黒く隈が浮かびあがっている。
「出ていかなかったのか。」
未だにこの塔に残っている...愚者の塔・9~The Beast.~
sunny_m
その日は久しぶりにこの塔へ客がやってきた。
客がやってきた。と言っても塔の中に招き入れて、もてなしたわけではなかった。この王国の支配者の使いの者が塔の扉の前に立ち用件を言い、獣は二階のテラスに出てそれを聞くだけだった。人との、とりわけ有知識層との接触は出来る限り避けたかった。力を持つ人が獣に近づ...愚者の塔・5~The Beast.~
sunny_m
時は流れる。
国が滅び新たな治世が始まりそして又滅び。人々が愚かな歴史を繰り返す中、森のはずれに、ずっと変わらずそびえたつ英知の塔があった。その塔はかつて賢者たちが暮らしていた塔。書物が沢山詰め込まれた塔。
そして手が届く届かないにかかわらず、そこに宿る英知はあまりにも難しく、読み解くにあまり...愚者の塔・14~The Beast.~
sunny_m
………
ひび割れた音のスピーカーから出発のアナウンスが聞こえてきた。古い重厚なレンガ造りの大きな駅舎。朝の通勤通学のピークが過ぎた時刻。人ごみは幾分和らいでいたが、それでも大きな街のターミナル駅ではいろんな人が行き交っていた。紳士淑女、金持ちの老人に物乞いの子供。各種多様な人々が入り混じり、...蒼の街・1 ~Blue savant syndrome~
sunny_m
―嘘です。本当は傷つきたくなかったんです。
人に嫌気がさしたその者は獣になる事に決めた。人は醜い。自分の愚かさに気がつかない。歴史を紐解けば、今おこなっている事がいかにばかげている事なのか簡単に理解できるのに、それでも、何度も何度も何度も、繰り返す。
人とは、醜く愚かで脆弱な生き物。
そんな...愚者の塔・1~The Beast.~
sunny_m
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想