朝、獣が自室の書斎に戻ってみるとアヤはまだそこにいた。古びたソファの上に陣取ったアヤは、部屋の中に入ってきた獣に、おはよう。と言いながら睨みつけてきた。どうやら一睡もしていないようで、疲れた色をにじませたその眼の下は黒く隈が浮かびあがっている。
「出ていかなかったのか。」
未だにこの塔に残っているアヤに獣がそう言うと、アヤが恨みがましい眼差しを向けてきた。
アヤが怒っているのは確かだった。なのに違う。と獣は思った。昨夜逸らされたはずのアヤの眼差しが再び獣を射抜いていた。
アヤは諦めていなかった。悔しさも悲しみも無かった。朝日が差し込む中、アヤの眼差しは昨夜に引き続き怒りに揺れてはいたけれど、明るい白い色を纏っていた。何も手放してなどいなかった。ただ立ち向かう力があるばかりだった。
陽性の怒りを身の中に抱えて、一晩考えたんだ。とアヤは口を開いた。
「おれ、遺産を発掘したら絶対にここに戻ってくる。そう決めた。」
白い光に照らされてアヤはきっぱりとそう言った。諦める事なく真っ直ぐに届けられたその言葉に、思わず獣は顔を背けた。
「私は、おまえに戻って来て欲しくない。」
「そんなのは知らない。」
きっぱりとそう切り捨てる。
「あんたの望みなんか、知らない。おれは、おれがやりたい事をやるだけだ。」
アヤの言葉に、勝手な事を言うな。と獣は顔を上げた。
「勝手な事を言うな。」
「先に勝手をしたのは、あんたの方だ。」
「発掘したものはどうする気だ。巨大な力を持つ兵器を放っていいのか。」
「それは何とかする。なんとかすればこっちのもんだ。」
「おまえは王にとって滅ぼした民族の生き残りだぞ。おまえに発掘後の命の保証はない。」
「それも何とかする。てかそれ、分かってておれの事を王宮に伝えたのか、あんたは。」
酷い奴だ。とアヤは笑った。
こんなときでも変わらない、それはまるで陽だまりのように明るく温かな笑顔。満ちる気配に、獣は目が眩んで再び視線をそらした。
「人は弱い。簡単に死ぬんだ。そんな簡単に何とかなるものではない。」
「それ、おれの心配をしてくれてるの?」
どこかからかうような口調でそんな事を言ってくるものだから。そんな事は無い。と獣は激高した。眩しすぎて逸らしていた筈の視線を前へ向け、アヤを怒りのままに強く睨みつけた。
「おまえを信じていないだけだ。」
「信じてよ。あんたの傍に戻ってくる奴がいる。って信じて。」
怒りで瞳を釣り上げた獣に、アヤは笑いながらそう言った。
向けられるだけで満たされるものがある、その笑顔を叩き落してやりたくなった。悔しかった。腹立たしかった。なんでそんな、簡単に言うのか。簡単に笑いかけてくるのか。今まで自分が積み上げてきたものは何だったのか。侮られているような気がした。
馬鹿にされているような気がした。一人きりで可哀そうだね。と言われているような気がした。
「これは同情か?」
苦々しげに顔をゆがめ、獣はそう吐き捨てるように言った。
「同情か。独りでいる私に対する同情か?だとしたらよしてくれ。これは私が自分で選んだ道だ。」
お前なんかにわかってたまるか。と獣は乱暴に言い捨てた。
足元に投げ捨てられたその言葉をアヤはじっと見つめ、ふと心底楽しげに笑った。
からからと、明るいひかりを転がすようなアヤの笑い声は耳に心地よく。一瞬、獣は気を取られてぼんやりとしてしまった。陽だまりの中で笑い声をあげてアヤは、あんたの気持ちなんか知らない。と再度、はっきりと切り捨てた。
「だからあんたの気持なんか知らないってば。さっき言っただろ。あんたの望みなんか関係ない。おれは、おれがやりたい事をやるだけだって。」
本当にさっきおれ、そう言ったばかりなのに。あんたって時々抜けてるよね。
からからと腹の底から笑うアヤに、からかわれているのだと、獣は羞恥で頬を染めた。全ての知恵を読み解く力があるのに。万能の存在なのに。永遠を有しているのに。こんな、ただの人の言葉に翻弄されるなんて。
やっぱりアヤなんかいらない。
わなわなと悔しげに肩を震わせる獣に、アヤは笑い過ぎて零れ落ちおちた涙を拭いながら、もういいよ。と言った。
「そこまで言うならば仕方がない。あんた、信じなくていいよ。待たなくていいよ。」
そう明るい声で今まで言った言葉を撤回してくるから。びくりと獣は驚きで目を丸くした。
たった一つの笑顔や言葉で、こんなにも翻弄されてしまう。戸惑い途方に暮れた獣の目の前で、アヤはにやりと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「あんたが待ってなくても、おれが勝手に戻ってくる。それでいいだろ?」
そう言うと、獣を真っ直ぐに見つめ、アヤはまるで魔法をかけるようにもう一度言葉を紡いだ。
「絶対に、ここに戻ってくる。」
そう言って迎えに来た王宮のものと共に、アヤは塔から去っていった。
鮮やかで緩やかな呪縛を、獣に与えたまま。
―絶対に、ここに戻ってくる。そうアヤはまだ幼さの残る声で言いました。
私はその約束を信じるわけにはいきませんでした。
アヤが向けてきたものは同情なのだ。ただの同情で、そんなものは簡単に消えてなくなる。
人に絶対などありえない。そう心の中で何度もつぶやいて。
そうやって失う前に自ら手放そうとしたのです。
なのに。
一階から二階への階段踊り場にある、アヤの寝床を撤去することができませんでした。そこにあった、アヤが持ち込んだらしい植物の鉢植えに水をやり続けました。部屋の片隅に置かれていた、アヤの読みかけの本を片付ける事が出来ませんでした。
窓の鍵を閉める事が出来ませんでした。
そのくせ、結局、窓も扉も自ら開くことはできませんでした。
かの地での発掘について、時折耳に入ってくる事がありました。発掘の最中に出てきた新たな文献を読み解いて欲しい。と王宮から届けられたのです。
貴殿が遣わした例の子供はなかなかよく働いておりますよ。解読してほしいと、紙の束を持ってきた使いの者が、そう言っていました。
アヤは元気か。とは聞けませんでした。その代わりに私はいつものように届けられたものを素っ気なく受け取り、そして解読はせずにそっとしまいこみました。王宮には適当な事を言って納得をさせました。
これは私の仕事ではない。これを作り上げることは今の時代の技術では無理だ。と、王宮と自分自身に言い聞かせ、私は新たにやってきた、何かの設計図の様な文献を解く事はしませんでした。
信じるわけにはいかなかった。欲しいものを欲しいと言ってはいけなかった。触れようと手を伸ばしてはいけなかった。
約束は、破られなければならなかった。
だって、約束が守られてしまったらもう戻れないから。
それなのに。
10年後。
アヤは戻ってきた。
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