その日は久しぶりにこの塔へ客がやってきた。
客がやってきた。と言っても塔の中に招き入れて、もてなしたわけではなかった。この王国の支配者の使いの者が塔の扉の前に立ち用件を言い、獣は二階のテラスに出てそれを聞くだけだった。人との、とりわけ有知識層との接触は出来る限り避けたかった。力を持つ人が獣に近づくことによって生じる、いざこざを回避するための方法だった。
二階の大広間に向かうと、大きなステンドグラスから鮮やかに染め上げられた光が、今はもう使われる事のなく埃をかぶっている調度に美しい陰影を落としていた。
緑の草原に水色の空。連なる煉瓦色の街並み。白く泡たつ波に紺碧の海。もくもくと柔らかな乳色の獣の群れ。薄紅の衣を纏う祈る女。蒼の空には星と月と太陽。
いつだったか、なんで庭からの階段が付いている二階テラスからではなく、わざわざ最上階の窓まで登ってくるんだ。とアヤに問い掛けたら、勿体なくてこれは壊せなかったんだ。と当然のように言葉を返された。窓を壊すことがそもそもの前提なのか。なんて粗暴な奴だとそのときはため息をついたけれど。
この美しいステンドグラスは獣にとってもお気に入りだったので、実際壊されなくてよかった。そう心の中で呟きながら、獣は豪奢なステンドグラスで飾られた大きな窓を開いた。
久しぶりに感じた外の空気はひんやりと冷たく、吐いた息が白い。頬を刺すような感覚に、今はもう冬なのだということに獣は気がついた。見上げた空は青く遠く、その冴え冴えとした色彩は意識を明瞭にする。
「お待ちしておりました知恵ある獣殿。」
使いの者の慇懃無礼な言葉が階下から響いてきた。
この寒い中、外で待たされた事を苛立っているのだろう。刺を含んだその声色に、つと獣は一歩前へ進んだ。小さな包みを持って上等な服に身を包んだ使いの者がいつものように立っている。鋭い視線を獣が相手に向けると、さっとすばやく視線をそらした。まるで目が合ったら石にされてしまうとでも思っているような、そんな臆病さの滲む相手の態度に知らず獣の口の端に冷笑が浮かぶ。
「今回は新たに発見された薬草に関する書物をこの英知の塔に納めるべく持ってまいったのと以前に依頼しておりました文献の解読の進捗状況を知りたいとの我が王の言伝を」
「まだ解読は終わっていない。」
使いの者の言葉が言い終わらないうちに、獣はそう素っ気なく言葉を発した。
「今までほとんど歴史上に浮かび上がってこなかった民族の、古い言葉だ。時間がかかるのは仕方のない事だろう。お前の王におとなしく待っていろと伝えろ。」
そう傲慢に言い放つ獣に、使いの者は、しかし。と声を上げた。
「何割ほど解読が進んでいるのか。それくらいは教えて頂きたい。王に何の報告もできないのは、私の面目が立たない。」
「おまえの面目など知らない。」
そう冷たく切り捨てて、獣はすい、と手を伸ばした。
その手の動きに呼応するように、ごう、と強い風が使いの者に吹き付けてきた。突風に目を伏せそして風が止んで目を開けると、その手から包みは無くなっていた。慌てて見上げると、見覚えのある包みはテラスの上に立つ獣の手の中にあった。驚きで開かれた目は、獣がこちらを見つめていると気がつくとやはり臆病に背けてしまう。
「新たな薬草に関する書物は受け取った。進捗状況についても語った。用件は以上だ。」
相手に有無を言わせる間もなく一方的に会話を打ち切り、獣は背を向けた。
塔の中へ戻るといつのまにそこにいたのか、アヤが埃だらけの木箱の上に腰をかけて興味津々と言った眼差しを向けていた。
先ほどまで対峙していた相手と異なり、アヤは視線を背ける事をしない。真っ直ぐに見つめてくるその眼差しには畏怖も何もない。異形の身である自分に対して臆することなく真っ直ぐに視線を向けられることに、獣はまだ慣れていなかった。耐えきれなくなって視線を背けるのは、今度は獣の番だった。
「さっきのって、王様の使いだろ?あんた、王様に仕事を頼まれているんだね。実はすごい奴なんだな。」
素直に驚嘆の声を上げるアヤに獣は俯いたまま、好きでやっているわけじゃない。と言った。
「それが、ここで暮らすための条件だからな。不本意な事もあるけれど。やらないわけにはいかない。」
そう言って獣はため息をつき、ばりばりと手にしていた包みを破った。
中に入っていた本はまだ出来たばかりなのだろう。ペらりとめくると新しい紙とインクのにおいが立ち上った。ぺらぺらと獣は雑に頁をめくり、そして盛大なため息をついた。
「なんだこれ。新たに発見された薬草と言っていたが、これはもう200年前に既に発見されているものじゃないか。しかも使い方も間違っている。これじゃあ薬どころか中毒を起こすぞ。」
鼻の頭に皺を寄せて、獣はそう吐き捨てるように言った。そしてぽいと本をアヤに投げて寄こした。
「それ。その薬草と同じものが書かれた文献が6階あたりにあるはずだから、探しておけ。」
「え。それ、おれがやるの?まだほとんど文字、読めないんだけど。間違えたらどうするんだよ。」
「ここに勝手に住んでいるんだ。それぐらいしろ。間違えたら許さない。」
ぶうぶうと文句を言うアヤに言い返し、面倒だけどこれの訂正も伝達しておかないといけないな。と獣はむっつりと呟いた。
「きちんと調べる事もしない考える事もしない過去の記録も振り返らない。そんな人間が上に立っているようでは、この国もすぐに滅びてしまうな。」
ほとんど独り言のように呟いた獣の言葉に、アヤは眉をひそめた。
「その言い方。まるで滅んだ国を見てきたかのようだな。」
アヤの言葉に、獣はふんと鼻をひとつ鳴らした。
「実際、国がふたつほど滅んでいくのをこの塔から見ていたからな。どの支配者もこの塔の英知と私の力は失いたくなかったのだろう。革命が起こったときも戦争が起こったときも、力を貸してほしいと言ってはきたが、排除しようと手出しをしてこなかった。」
淡々と語る獣の言葉をアヤは目を丸くして聞いていたが、ふと怪訝そうに眉をひそめた。
「、、、あんた、いったい歳はいくつなんだ?」
「忘れた。」
「忘れるほど年寄りってことか。」
「年寄りと言うな。人の過ごす時間と私の過ごす時間の流れが違うだけだ。」
「だけどあんた、つまり200歳以上なんだろう?やっぱり、じいちゃんじゃん。あれ、ばあちゃん?」
どっちだあんた?と無遠慮に尋ねるアヤに獣は眉間のしわを深くした。
「じいさんでもばあさんでも、どっちでもない。私に性別は無い。というか、だから、私はまだ年寄りではない。体内時間の速度が人よりも緩やかなんだ。」
勝手に年寄り扱いされて腹立たしげに獣が言うと、良くわかんないけどまあいいや。とアヤは笑った。
明るい声に思わず顔を上げた獣に、アヤは真っ直ぐ、笑いかけてきた。
「あんたは、あんただ。」
そう屈託なく笑ってアヤは言った。
ただ当たり前の事を、当たり前に口にしているだけの事。むしろ自分の話を理解できなかった事を貶すべきなのだろう。嬉しく思う必要はないはずだった。
なのに。
どうすればよいのか分からなくなった獣は、再び俯き、戸惑いを隠すように、だったら最初から年寄りとか言うな。と悪態をついた。
―そうやって欲しいものを与えてくる。隠していた筈のものを与えてくる。それは恐怖であり甘美な喜びでした。
甘えるように頬を寄せたくなるようなその温かなものは、確実に身を蝕む。薬草よりも中毒性のあるそれを欲してはいけない。
求めてはいけない。
心の中で警鐘が鳴り響いていました。
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ku-yu
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