酒の臭いがする。
部屋中に充満した臭いは、汗や食べ物や何かもろもろの臭いと混ざり合って、最早酒の臭いと呼ぶのもためらわれるような様相を呈している。
空気は淀み、停滞し、人々の頭の上で渦を巻いているようだ。
明らかに許容人数をオーバーした人口密度の酒場。私は長いマントをさばいて空席に着くと、適当にテーブルの上のパン屑を払った。この混雑具合だ。掃除が行き届いていないのも無理はない。
私が席に着くのを見計らっていたかのように、赤い前掛けをした給仕の女性が、冷えた水を差し出してくれた。短い茶髪と、くるくると表情を変える綺麗な瞳。この酒場の看板娘、メイコだ。私の親友で、姉代わりでもある。
「いらっしゃい、ミク。混んでてごめんね、今日いきなり団体さんが来たから」
「ううん、大丈夫。ねぇ、今日のお夕飯は何?お腹空いちゃった」
「今日は鮭のムニエルと香草サラダ、じゃがいものポタージュスープ、オニオンブレッドよ」
「むー…ネギは?」
「ネギは、また今度」
ちぇ、と呟く。メイコはおかしそうに笑って何かを言いかけたのだけれど、「おい姉ちゃん、注文!」という怒鳴り声に慌ててテーブルを離れて行ってしまった。
私もメイコに話したいことがあったのだけれど、仕方ない。お客さんがはけるまでのんびり待つことにしよう。
被りっぱなしだったフードを外すと、マントの裾を床に引きずらないようにたくしあげて、通路とは反対側の机の角に手荷物をひっかける。冷たい水を一息に干して、大きく伸びをした。背中がバキバキ鳴っている。今日は一日動きっぱなしだったもんなぁ、と、ため息を吐いた。
小さな窓から見える町並みは、もうじき夕闇に沈もうとしていた。
私がいる酒場「ヘブンス・ダンス」は、商業国家マトリアの繁華街に店を構える、ギルド所属の傭兵専門の酒場だ。入口のところでギルドが発行している身分証を見せて、得物についている印を示さないと中には入れてもらえない。大抵の酒場は宿屋と兼業しているのだけれど、ここは宿がない代わりに、料理が安くて美味しいのが特徴だった。私もマトリアに立ち寄るたび、この酒場で食事を取ることにしている。
傭兵。それはこの大陸では、最も危険で最も高給取りな職業である。
その昔、今からおおよそ800年程前。大陸全土を巻き込むあまりにも悲惨で、あまりにも醜い戦争があった。その始まりは、とある国の王太子が、敵対国であった隣国の姫に恋をしたことにあったという。2人が後に恋に落ちたのか、それとも結局敵同士として終わったのか、それは史実にも残ってはいない。ちっぽけな火種で始まった戦争は、大陸全土を覆い尽くして、それまであった文明を根こそぎ破壊してしまったからだ。
長い長い戦争が終わった後、国家群があった場所に、生き残った人々はまた国を再建していった。しかし、それにはこれまでとは違った問題が残っていた。
「モンスター」と呼ばれる異形の生物達が、どこからともなく発生し、人間を襲い始めたのである。
このモンスター達がどこから現れたのかは誰も分からなかった。しかし奴らはどこかから霧のように湧きだし、疲弊しきった人々を容赦なく襲ったのだ。
一説では、モンスターは戦争で死んだ人々の怨霊であるという。
また一説には、モンスターは魔術大国であったマギステス王国の魔術師が作り出した生体兵器の残党であるともいう。
どれが本当なのかは分からない。ただ、一つだけ分かることは、モンスターは人間を襲うということだった。
そのモンスターから人々を守るための自警組織。それが傭兵ギルドの原点である、「神威」という組織であった。
…とまぁ色々語った訳だけれど、現在の傭兵も、実際は大して任務は変わらない。最後にあった戦争は200年前のクトス内戦くらいだし、モンスターは800年前と変わらず大陸中を跋扈している。国内の守りはその国の警邏や兵士が行っているが、一歩外に出れば、たとえ主要街道であっても無法地帯。モンスターだけでなく盗賊や山賊といったならず者達も大勢蔓延っているのだから、傭兵稼業はある意味、一番割りの良い仕事なのだった。
私の場合、傭兵をしながら探し物をしているのだけれど…それは後々語ることにする。
そんな訳で、今日も商人の馬車を護衛していた私は、一仕事終えた解放感と気だるさでいっぱいなのだった。
「はい、ミク。お待たせ」
「やったー!!いっただきまーす!!」
湯気を立てて運ばれてきた料理に、私は若干行儀悪くフォークとスプーンを振り上げる。
欠食児童のような表情の私に楽しそうに笑ったメイコは、「ごゆっくり」と言い置いて別のテーブルの片付けに行った。お客さんはまだまだ多い。というか、丁度港からやってきた荷車が多いのか、疲れた顔をした傭兵の集団がもう一組、入口のところで身分確認をしているのが見えた。まだまだ込み合いそうだ。
メイコも大変だなー、なんて考えながら、私はすぐに鮭のムニエルを口いっぱいに頬張る。
「んー、美味しいっ」
絶妙の焼き加減とバターの風味が最高だった。
これでネギもあったらもっと最高なのにな…
そんなことを考えながら、私は無心に料理を口に運んでいった。
あらかた料理を片付けたころ、そろそろ人も減ってきた店内がにわかに騒がしくなった。
何事だろう、と顔を上げれば、入口のあたりで何やら押し問答する声が響いてくる。
「ここはギルド所属の傭兵専門の酒場だ!一般人はよそを当たれ、よそを!」
「で、でも、ここに僕が探してる人がいるはずなんですよ!食事はいただきませんから、入れてください!」
「それならそいつの名前を言ってみろ!」
「う…わ、分からないんですけど…」
「ほら見ろ!ここが安いと評判だから来たんだろう?さっさと帰れ!」
「で、でもでも…!」
…随分と頭の悪そうな押し問答だった。
メイコと女将さんは、あいにく二人とも厨房の奥に引きこもって料理を作っていて、こちらの様子に気づく様子はない。
周囲にいるほかの傭兵たちは、一度視線をやったきり、我関せずを決め込むように目線をそらしてしまっていた。
私も、できれば関わりたくないんだけどなぁ…
どうしようか、と考えていると、不意にあるテーブルの男たちが目に留まった。
ほとんどの客が入口から目をそらしている中で、その男たちは入口をちらちら見ながら、何か含んだように笑っている。
…ふーん、そういうこと、か。
私はため息を吐くと、席から立ち上がって入口に向かう。
そこで押し問答していたのは、高価そうな絹のマントを羽織った、私よりも年下に見える金髪の少年だった。旅慣れていないのだろう、身にまとうもの全てが真新しい。必死に受付の筋肉ダルマに食い下がっているが、今にも外に放り出されそうな様子だった。
「ねぇ、その子がどうしたの?」
「あぁ、傭兵さん。いやこいつがね、傭兵でもない癖に店に入りたいとか抜かしやがるもんで…」
「それは見てれば分かったけど。そうじゃなくて、その子はなんで店に入りたいのよ?」
問いかければ、私と受付の男を交互に見ていた少年が叫ぶように言った。
「店の中に、探してた人が入ったのを見たんです!だから、その…」
「探してた人、か。なんで探してたの?」
「…指輪を」
「指輪?」
「指輪を、盗られてしまって…大切なものなんです!絶対になくしちゃいけないものなのに…」
その言葉に、受付の筋肉ダルマ…長いから筋肉でいいや。筋肉が表情を変える。私も、察していたことではあったけど、やっぱり顔が険しくなった。
傭兵には3つのタブーがある。その1つが、「決して依頼主から盗みを働いたり、恐喝したりしないこと」というものだ。傭兵稼業は信頼で成り立っている。その信頼を崩すものは、たとえギルド所属の傭兵ではなくとも、「追跡者(シーカー)」という名の追手が放たれて、処刑される。そういう厳格なルールがあるのだ。
そのルールを、よりによってギルドの傭兵が破った、という事実に、私と筋肉は一度顔を見合わせてまっすぐに店内に向かった。顔色の変った私たちを見てきょとんとしていた少年も、慌ててついてくる。
私たちが店内に入ってくると、店中が騒然となった。普段、筋肉が店内に入ることはないからだ。
入る時があれば、ただ一つ。
店内でもめ事が起こったとき、だけ。
「…誰が、あなたの指輪を盗ったの?」
「あ…あそこのテーブルの人達です!」
澄んだ声が、先ほど笑い合っていた男たちをまっすぐに指す。男達は少年を見て焦った顔をすると、慌ててその場から逃げ出そうとした。
しかし、そうは問屋がおろさない。
素早く男達に駆け寄った筋肉がテーブルを叩き割るのと同時、私は右手についている鈴を短く打ち鳴らした。
リィン、リィン…
音は波を起こし、空気を震わせ、やがて実体を持って男達を拘束する。
全て終わるのに、30秒もかからなかった。筋肉は男達をひとつかみに持ち上げると、割れたテーブルを乱暴に蹴散らして男達を放り出す。
「…貴様たちがこの少年から奪ったものを、今すぐ返せ」
「か、返せったって、旦那。そもそも俺達が奪ったなんて証拠はないでしょう」
「逃げ出そうとしたのが証拠だ。やましいことがないなら逃げるはずなどないのだからな」
ぐ…と詰まる男達。
私は自分の席に置き去りにしていた杖を取ると、まっすぐ男達に向けた。
「私は初音ミク。ギルド所属の傭兵で、ランクはA-よ。…A-以上の傭兵に、追跡者の資格が与えられてることは知ってるよね?」
ただの脅しだ。それでも、男達は突然リアルになった死亡宣告に、青を通り越して真っ白になった。
黙って待つ、私と筋肉。他の傭兵達や奥から出てきたメイコ、盗まれた少年も沈黙している。
息苦しい程の静寂。
…やがて、男の1人が観念したようにゆっくりと口を開いた。
「…そのガキから奪った指輪は、質屋に持って行った…」
「な…売ったって言うの!?」
「え、う、売っちゃったんですか!!?」
私と少年の声が重なる。男はますます項垂れて、小さく震えながらこくりと頷いた。
私の隣で、少年が膝から崩れ落ちる。
「どうしよう…あれがなかったら、僕は…」
綺麗な金髪をかき乱して、少年は泣きそうな声で呟く。いたたまれない空気がその場に漂った。
どうしよう…なんて声をかければいいんだろう?
こういうときにどんな話をすればいいのか。まるで分からない私は、杖を男達に向けたまま途方に暮れた。筋肉も同じだ。誰も何も言えずに、時が止まったかのようにまた沈黙が落ちる。
と、不意に軽い足音がした。
俯いた少年に差し出される、温かなホットレモン。
メイコだった。
「…事情はよく分からないけど、質屋に持って行ったんだったら、まだ売れてないかもしれないよ?この時間だともうお店は閉まってると思うから、明日確認すればいいって」
にっこりと笑うメイコに、少年が少し救われた顔でカップを受け取る。
誰からともなく、安堵の息がこぼれた。
「…ごめん、メイコ。お店の中で暴れちゃって…」
「いいよ、別に。この子のためだったんでしょ?全然オッケー!…それよりさ、そいつら、どうするの?」
言って、縛られた男達を指差す。筋肉がぎろりと鋭い視線を送ると、まるで荷物のように男達を担ぎあげた。
…いや、さっきから思ってたけど、大の男を3人も肩に担ぎあげられるってどういうことなんだろう…
「…こいつらは俺が本部に連れて行く。明日質屋に行って、その指輪とやらが無事だったら、称号剥奪の上で全国家群から永久追放位だろうが、もしももう売れてたら…」
そこから先は濁して言わなかったが、私もメイコも分かっていた。その場にいる傭兵全員が分かっていた。
もしも戻ってこなかったなら。彼らは…追跡者による処刑が決定する。
その場を取りまとめるように、私は小さく肩をすくめた。
「とりあえず、明日にならないと…だね」
…こうして、私と金髪の少年の不思議な糸は、確かに繋がった。
この出会いが運命的なものであったと私が知るのは、だいぶ先のことになるのだけれど…
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ご意見・ご感想
Turndog~ターンドッグ~
ご意見・ご感想
初めまして!Turndogと申します。しるるさんのページから飛んできました。
まだこれしか見てませんが、すごく面白いですね!!
ナレーターの部分が多いからすごく情景もわかりやすくて読んでて楽しいです!
ちょっと教えてほしい気分…ww
自分も小説書いてるので読んでほしいです。初投稿からの続き物なんで読みづらいかもしれないですが…www
2012/06/05 19:12:49
とうの。
>Turndogさん
感想ありがとうございます!分かりやすいと言っていただけると嬉しいです><
まだまだ導入、複線貼りまくりな回が続いていくかと思いますが、気長にお付き合い頂けると幸いです
フォローもしていただきまして、ありがとうございました!
これから作品を拝見させていただこうと思います^^
2012/06/06 11:08:47