ほんのりと薄闇の中で鏡が光る。
 それに気付いた少女はぱっと顔を輝かせ、不自由ながらも慣れた動きでそこまで這いずって行った。

「お帰りなさい、レン」

 鏡に掛ける少女の声は最初の日よりも遥かに明るく、穏やかで、深い思いに満ちている。
 それに対して返る少年の声もまた、同じ。

「ただいま、リン」

 鏡越しに触れ合う指。

 そして今日も、小さく暗い屋根裏部屋に優しい光が満ちた。



<魔法の鏡の物語.3>



「具合、どう?顔色は良いみたいだけど」
「悪くはないかな。…最近、外も落ち着いてきたみたいだし、足にも少しだけど感覚が戻ってきたの」
「そっか」

 深い青色を湛えた瞳が、優しく細められる。

 ―――よかった。

 柔らかな声でそんなことを言われると、無性に胸がうずく。
 何故だか辛いのだけれど、それと同時に嬉しくてたまらないような…初めての感覚。

 出会ってから早数週間。たったそれだけの期間だと言おうと思えば言えるけれど、それでも彼とはとても深い繋がりを持てたような気がする。
 年が近いから。容姿も似ているから。けれど、それだけでは言い尽くせないものを確かに感じる。
 ―――言うなれば、運命、のような。
 少し恥ずかしい言い方ではあるけれど、それが一番しっくり来る。

「…レンってやっぱり凄いのね」
「そうかな」
「お父さんも帰ってきてくれたし、足もよくなってきたもの。レンのおかげだわ」

 『きみのお父さんは、もうすぐ無事に帰ってくるよ』『君の足は治るよ』。
 そう告げられたときの驚きは、はっきりと覚えている。まあ、どちらもたった数日前の話ではあるのだけれど…

 その言葉を聞いたときは、半信半疑だった。彼が、よくあるお決まりの慰めを口にしているのだと思ったのだから。
 でも、嘘だと断じることもできなかった。根拠がないにしては、彼の言葉が妙に確信的な響きを帯びて告げられたからだ。
 自信の響きではなく、確信の響き。それがなんとなく気になったものの、特に追求することもなく、彼の言葉を受け取ったのだった。

 そして程なく、彼の言葉が真実だと知った。
 凄い―――奇跡を目の当たりにして、私は心の底からそう思った、の、だけれど。

「凄い…のかな。僕がしてることって、結局こっちのものをそっちにやる程度で…そもそも本当に僕の力なのかさえ…」

 何故か表情を翳らせて呟くレン。
 相槌を求めている訳ではない、そう感じたから、私は黙って待ってみることにした。
 彼の呟きからその暗い表情の理由が何か分かりそうだと思ったから、目と耳に意識を集中させながら。

「それでどうなるか、薄々分かってるんだけどさ。でも、本当にそうなのかまだ確信はないし…そうだったとしても、その先にあるのは…」
「…」
「…ごめん、なんでもない」

 何かを吹っ切るように、レンが笑顔を浮かべる。
 でもそこには拭いきれない痛みが―――寂しさとも諦めともつかない何かの感情が、仄かに影となって残っていた。

「リンに言うようなことじゃなかったよ。まあなんていうか、つまりは僕の未熟のせいだからね」
「レン」

 どこか無理のある明るい声を遮るように、彼の名前を呼ぶ。
 私の声に含まれた思いに気付いたのか、彼はそれ以上に言葉を繋ぐのをやめた。
 しん、と、静けさが部屋を支配する。それは彼と出会う前と変わらない静けさのはずなのに、その時よりずっと痛く感じる。
 鏡の向こうで気まずそうに俯くレンを改めて見直して、私は自分の感覚が正しかった事を確認した。その上で口を開く。

「ねえ、レン。レンこそ、大丈夫なの?…気のせいじゃないよね、最近調子が悪そうなのって」

 彼が暗く見えたのは、けして表情だけが理由ではない。この数日、私がずっと気になっていた顔色の悪さが、今日はまた特別に際立って見えたせいもあった。
 レンが躊躇いながら弁解らしい言葉を口にする。

「それは…対価、というか…」
「対価?…魔法の?…私の願いが、レンに無理をさせているの?」

 彼の青い目が、驚いたように私を見た。
 けれど、私はそれにも構わずに続ける。

「もしもそうなら、もう無理をしないで。私はもうレンに十分過ぎるくらい願いを叶え―――」
「違う!!」

 切り裂くような強い声。

 驚いて目を見開く私の前で、その言葉を口にした彼自身も驚いたように固まっていた。
 自分のしたことが信じられない、と言うかのように戸惑った様子で喉元に触れ、彼はしばらくしてから悄然とした空気を纏って肩を落とす。
 心なしか癖の強い髪の毛も湿気っているように見えた。

「…ごめん…でもそういう事じゃないんだ。君の願いがどうの、じゃなくてさ。それにこうして話をしているのは、僕のほうからの望みだったよね?友達になろう、って先に願ったのは僕だった筈だ」

 優しい声を頑張って繕っているのがすぐに分かって、私は頷きながら、片手を胸の前で握り締めた。
 痛い。もどかしい。この鏡面さえなければ、この手で触れてレンを慰めてあげられるのに。

 ―――何で私は本当に何もできないんだろう。レンが色々なものを私にくれても、私が返せるのは言葉と思いくらいしかない。
 私もレンに何かできたらいいのに。…彼がいつでも明るく笑えるように使える力があればいいのに。
 歯痒さを気持ちに変えて言葉に込める。
 それが今の私がレンにあげられる、唯一のものだから。

「そう、だったね…でも、本当に無理はしないで。レンが辛いと私も辛いよ」
「…うん。気を付ける」
「絶対だからね」
「約束する」

 彼が優しく微笑んでくれたのを視認して、私自身の表情もつられたように緩む。
 レンが私の言葉に真剣に答えようとしてくれているのが分かって、それがとても嬉しい。だって私は、彼のことが好………き、だから。
 何となく鏡に掌を付けると、レンもそれに合わせるように手を置いてきた。
 温もりが伝わるのに合わせて、胸が堪えきれない感情で一杯になる。
 さりげなく彼の表情を確かめると、落ち着いた柔らかさを持って重ねた手を眺めていた。青い瞳が優しく輝いているのを見ると頬が勝手に熱くなってくるのが分かる。

 …こんな感情を持てる日が来るなんて、思わなかった。

 私は一人では出歩くこともできないし、戦争が始まってからはそんな何の役にも立たない感情の事を気にする余裕さえもなかった。いつ死ぬかもわからなかった。私みたいな肉体的な弱者は真っ先に死ぬんだろう、そうどこかで考えていた。
 恋をしてみたいなんて考えるだけ無駄。
 そんな風に思っていたのに…

 勿論、他の男の人を知らないからレンに惹かれるのかもしれない。他にもっと、私の好みだと思える人もいるのかもしれない。
 だけど、こういう出会いをしたのも―――一つの運命だとは言えないかな?
 少なくとも今この時の思いに偽りはないのは確かだから、それでもう問題はないのかもしれないけれど。
 …けれど、早まる鼓動を嬉しく感じるのと同時に、たまらない苦しさが心臓を押さえつける。
 彼に恋したところで、私には何ができるわけでもない。
 くれたものも返せないし、ましてや何かをあげることなんてもっとできない。
 その手に触れることも、抱き締めることも…できない。
 多分、文字通りに「住む世界が違う」んだろう。
 鏡の向こうに抜けられやしないか、と鏡面に触れている指の先端に力を込める。だけど、無機質な境界は何もなかったかのような顔をして、平然とした様子でそこにあるだけ。

「…リン?」
「あ、えと、何でもないの」

 怪訝そうに眉を寄せたレンに向けて、首を横に振ってみせる。

 レンに願えば、きっと何でも叶えて貰えるのだろう。なんとなく思っているだけのことでも、レンは察して叶えてくれるのかもしれない―――いや、今までの事を思えば、それ以上を汲んでくれている。
 食べ物をくれ、足を治し、世の中を落ち着かせ、お父さんを返してくれて…こ、恋までさせてくれた。望んでいたもの、憧れていたこと、その全てがレンの手で現実になる。
 例えばそう、よく女の子が願う「お姫様になりたい」。あれだってきっと、レンなら叶えてくれるんだろう。すぐには無理だとかなんとかごにょごにょ言いながら、でも割と早いうちに現実にしてくれるんだと思う。

 ―――だけど、彼はけしてこちらに来てはくれない。

 来る気がないのか、それとも来ることが出来ないのか、それは分からない。聞く勇気も出ない。
 けれど、どちらが真実であれ、つまりは願っても叶わないということだ。

「…あの、レン」
「うん?」

 首を傾げる彼の姿を見て、喉まで出かかった言葉が引っ込む。

 …怖い。
 余計なことを言って、それ故に彼を失うのが怖い。
 かわりに私は、何度も口にした言葉をもう一度音にした。

「…私の手、離さないでいてね」

 青い瞳が僅かに細められる。
 一拍の沈黙。
 そして、じんわりと鏡の向こうから圧力が押し寄せる。

「離さないよ。いつまでも」

 その声は、どこまでも優しい。

 だから……寂しくなってしまう。

 奇跡を享受した私が何を言っても卑怯に、というか都合良い言葉に聞こえてしまうような気がする。だってこれもまた、レンに叶えてほしい願いだということにかわりないんだから、つまりは願いの上塗りでしかない。
 言えないと分かっているのに(分かっているからこそ?)日を追う毎に膨らんでいく感情が、指先からレンに伝わってしまいそうで怖い。
 願ってばかりの奴だ、なんて思われてしまわないか、怖い。

 ―――魔法が使えるとか、そういうのじゃなくて。
 ―――他の誰でもない、レンがいてくれたことが私の心を助けてくれた。

 苦痛に歪みそうになる顔を、うつむく角度でなんとか隠す。

 レンと一緒にいる事が嬉しくなればなるほど、離れる時間が辛くなる。



 ―――だから、



 分かっていた事なのに。
 分かっていた、筈なのに。
 なのに私は口にしてしまいそうになる。

 あなたへの思いに負けて。
 一人の夜の静けさに負けて。

 …叶いっこない、願いを。





 ―――だから今すぐに、ここに会いに来て…





ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

魔法の鏡の物語.3

やっと投稿できました!
思ったよりも間があいてしまった。いつ完成するんだこれ…出来るだけ早くしたいですが…

閲覧数:868

投稿日:2011/08/10 22:14:51

文字数:4,256文字

カテゴリ:小説

  • コメント2

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  • 目白皐月

    目白皐月

    ご意見・ご感想

    こんにちは、目白皐月です。

    お話が山場にさしかかってきた感じですが、なんだか、段々と不穏な空気が漂いはじめていますね。どういう風になっていくのかが非常に気になります。

    更新速度のことを気にされているようですが、個人的な意見ですが、お話というのは、寝かせておいた方が綺麗にまとまることがあります(あまり寝かせすぎると今度は発酵してしまいますが……)間が少々開いたとしても、翔破さんの作品を好きと言ってくれる人は、楽しみに待っていてくれるのではないでしょうか。

    あ、後ちょっと気になったのですが、この作品、カテゴリが「歌詞」になってました。大したことじゃなくてすみません。

    2011/08/15 19:10:44

    • 翔破

      翔破

      コメントありがとうございます!
      こちらの方の返信が遅れてしまってすみませんでした。してカテゴリの指摘ありがとうございます、訂正しました。

      そうですね、更新速度の件は早く書こうと思って書けるものでもないですし。勿論、早く納得のいく作品を書ければそれに越したことは無いのですが…
      でも、どんな速度であれ自分が良いと思える作品を仕上げられればそれが一番良いのかな、と思いました。ありがとうございます!

      2011/08/19 21:18:24

  • ゼロ鳶

    ゼロ鳶

    ご意見・ご感想

    今回もすごくよかったです!!
    続きが楽しみ!!
    短くてごめんなさい!

    2011/08/10 23:05:38

    • 翔破

      翔破

      コメントありがとうございます!
      短い感想でも貰えるだけで励みになります。こちらこそ投稿が遅れてしまって申し訳ない…まさか一ヶ月近く間を開けてしまうとは…
      もう少し更新頻度が上げられるように頑張ります!

      2011/08/12 16:42:07

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