まとまらない思考で階段を降りきって、彼女の元へと辿り着いた。
予想していた光景と違うものが視界に飛び込んできて、俺は言葉を失った。
彼女の体は、まるでその場に眠っていると錯覚するほど、状態が綺麗だった。
その場に広がっているはずの、赤色が全くなかった。
血液が流れていない人間などいるはずがない。
現に彼女は先程、手首に傷をつけて見せた。
彼女の手に触れる。
ぬるついた赤色と手のひらはまだ温かかった。
先程までこの手で、俺に触れていたのだ。
傷のついた手首に触れる。
指先で俺と彼女の血が混ざるが、そもそも生物ではない俺には危惧することじゃない。
脈拍がない。呼吸もしていない。
こういう時、人間は何をするんだったっけ。
ああ、そうだ。応急処置だ。まずは救急車を呼ばなくては。
そう思って携帯電話を開いた瞬間、着信を告げる画面に切り替わる。
表示されている文字は非通知の三文字。交友関係というものが無い俺の携帯にかけてくる人間なんて、俺を作った組織の人間しかいない。
そういえば、俺の視界と聴覚は常にモニターされているんだったっけ。
いつまで眺めていてもバイブレーションは鳴り止まない。鬱陶しいが、放っておくとより面倒になる。
「なんです、見ていたなら分かるでしょう。今電話なんてしている場合じゃ」
『なんだ、わかっているじゃないか。ならそいつを回収してさっさと戻ってこい』
「…そいつ?」
『たった今活動停止した、お前の目の前に転がっている被験体No.01のことだよ』
「ナンバー、ゼロワン?」
組織は、俺のことを識別番号でしか呼ばない。
以前聞いたことがあった。「俺がNo.02なら、01はどこにいるのか」と。
それには知らなくていいと返された。
もう廃棄されたものだと考えていたから、それ以上追求することもなかった。否、できなかった。
今更、こんな状況で知りたくなかった。
違う。彼女は人間だ。
苦しんで、飛び降りて、でも体に手首以外に怪我がない。呼吸もしていない。
いや、彼女は俺と同じだと言った。そっくりだと言った。
俺と同じなら、そもそも呼吸なんて必要ないじゃないか。
こうも言っていた。
「痛みを感じない」「人間のような見た目をした何か」「生に対して無頓着」。
生きていない機械に痛覚なんて必要ない。
生まれたなんて表現は俺たちには合わない。
だから生きるということに対して関心がない。
ああ本当だ。俺と一緒だ。なんて哀れなんだろう。
でも生きていた。
さっきまで笑って、触れた手が温かくて、俺と違って表情豊かで、自分自身の在り方に悩んで。
あれ。違う。何かおかしい。
彼女が俺と同じアンドロイドなら、どうして自分の在り方に疑問を抱いたんだ。
「もしかして彼女、自分がアンドロイドだという自覚がなかったんですか」
『さあ?それより、表に車を待たせてある。騒ぎになる前に01を回収しろ』
「あなたたちはいつも01に関する疑問には答えてくれない。そうまでして何故、俺に情報を伏せるんです」
『同類のお前が01の正体を見抜けなかった。仲間をも欺いて完璧に人間を演じ切ったんだ。実験は成功だ』
「答えになっていない。彼女は酷く苦しんだのに、よく成功だなんて言えますね」
『01の結末に対して、自分には責任は無いと言いたげだな。01の自殺を後押ししたのは、他でもないお前だろう、02』
「——五月蝿い」
目の前にあるのは彼女が動かないと言う事実だけなのに。
膝から崩れ落ちたって、スーツが血で汚れることはない。
彼女が落ちていくのをただ見ることしかできなかった。
あの日、彼女を思いとどまらせたのは俺なのに。
今日俺が話しかけたから、彼女は自決したと言うのか。
背中を押したのは俺だって言うのか。
無意識に動けたらどんなに楽だっただろう。
俺は自らの意思で出来事を忘れることはできない。記憶領域は今起きている出来事を記録し続ける。
組織に引き渡すのは癪だが、彼女をこのまま放置するのはもっと嫌だ。
しばらくした後、作り物の腕で彼女を抱え、用意されていた車の後部座席に乗り込む。
隣の座席に彼女を座らせる。
眠っているようにしか見えない彼女の身体は、改めて俺に現実を突きつけた。
彼女はヒトではなく、ただの機械なのだと。
数ヶ月ぶりに戻ってきた施設は感慨深くもなんともなくて、どこか変わった点もない。
彼女はしばらく調べられるようで、どこかの部屋へ運ばれていった。
せっかく戻ってきたのだから、彼女について知ることくらいは許されるだろう。
出て行く前はいくら探しても見つからなかったのに、彼女について記載されたファイルはあっさりと見つかった。
稼動当初からの経過観察が書かれたファイルは十冊近くあった。
こういう風に、どこかに俺について書いたファイルもあるのだろう。
そちらは探す気もない。自分のことなどどうでもいい。
人間「橘 梨々香」ではなく、アンドロイド「披検体No.01 Lily」についての記述を、全て読み込むまでに何十時間かかったのだろう。
何日もずっとそこから動かず、ひたすら彼女の情報を得るだけに集中した。
五感はあるが食欲や睡眠欲は人間に比べて極端に低い俺に、空腹や眠気なんて煩わしいものは感じない。
そんな俺を気にかける者もいないので、部屋には誰も入ってこなかった。
気を使われているとも思わないが、今だけは一人が心地よかった。
当初の推察通り、彼女は機械だという自覚を持たずに稼動したらしい。
俺は何年かをこの施設で過ごしたが、彼女はいきなり社会に配置されたようで、戸惑う様子が何ヶ月かに渡って記されていた。
彼女が痛みを感じなくなったと言っていたのは、それが稼働して間もない時期だったからだろう。
「アンドロイドと疑われない為の偽りの記憶」は、彼女本人さえも惑わせていたというわけだ。
彼女のノートに必要最低限のことしか書かれていなかったのも、知識がインプットされていたからだ。
自らを人間だと認識していた彼女。
しかし機械の身体は、記憶を忘却することさえ許してくれない。
何も忘れることができない「人間」であり続けた彼女の苦しみは、あくまで「機械」でしかない俺には分からない。
似た者同士の二人は、最初からその心の奥底にすれ違いの種を抱えていた。
彼女の自宅へ荷物の回収に向かわされ、初めて彼女がどのように生活していたかを知った。
年頃の女子高生にしては、あまりにも何もない部屋だった。
冷蔵庫と本棚、机、箪笥。部屋にあるのはそれだけで。
本棚に並べられていた中学校の卒業アルバム、終盤のフリースペースには何一つ書き込まれていない。
個人でプリントアウトした写真の一枚もなく、彼女の対人関係の狭さを感じ取る。
「他人に合わせることのできない性格が嫌い」だと彼女は言っていた。
教室で一人でいる姿など見たことがなかったが、常に一線引いていたのだろう。
回収された彼女の荷物は処分されるらしい。
それは、もう彼女が『橘 梨々香』として生活できないということ。
俺があの時掴み取った数学のノートだけが、唯一彼女が存在していた証だった。
だけどそれは彼女が自らを否定した証でもある。
『生きている意味ももうわからない。私は自分の存在価値を見出せない。だけど、キヨ先生だけは正面から私を見てくれた。空っぽの私を、人間として接してくれた。私が生きる意味、キヨ先生ならきっと見つけてくれるのかな』
乱れた文字で綴られる仄暗い感情、その最後の数行は俺へ宛てられた言葉だった。
生きる意味を求めてやってきた屋上で、俺が突き放してしまったのか。
絶望したまま死んでほしくはない。
施設内の病室、ベッドの上に横たわる彼女は、眠っているように見える。
だけど胸に耳をすませても、鼓動の一つも聞こえはしない。
衝動のままに抱きしめても、制服越しの胸部や腹部に、祈るように口元を寄せても。
彼女は俺のものにはならないし、輪廻の理から外れている俺たちは、誰かの子として生まれ直すことすら不可能。
父も母も持たない俺たちは結局、作り手である組織を頼ることしかできないのだ。
「そんなに01が処分されるのが気に入らないなら、お前が監視してみるか?」
「言っている意味がわからないのですが」
「01は自ら死を選び、屋上から飛び降りた。落下によるダメージで記憶回路に影響が出て、01はこれまでの記憶データが破損している可能性がある。その01の監視役をお前がやるのなら、再起動してやってもいい」
記憶データの破損。
それはつまり、彼女と過ごしたほんの半年間と、彼女が生きた数年間を、忘れてしまうかもしれないということ。
変わり果てた彼女を見て、俺が絶望する姿でも見たいのだろうか。
「俺を監視役に薦める理由はなんですか。俺が、俺の望む方向へ……Lilyの実験を誘導する可能性は考えなかったんですか」
「偽りの記憶を与えた後は、01の実験は全て観察するだけに留めて、何も干渉をしてこなかった。逆に組織の干渉を受けてきたお前が、同じアンドロイドを導いたら、被験体二体はどのような影響を受けるのか。その検証だ」
「元々、反逆を承知でアンドロイドに感情を持たせるような酔狂な組織ですし、どのような結果を望んでいるのかは知りませんが……そういうことなら引き受けますよ、監視役。どうせ拒否させる気もないんでしょうけど」
「よくわかっているじゃないか。退職等の手続きは済ませてあるから、余計なことは考えなくてもいいぞ」
「余計なこと……ね」
これまでもこれからも干渉はせずに、別のアンドロイドに監視させる。
それはつまり、彼女に一度でも正面から向き合う気はないということで。
夕日のきれいな屋上で彼女が告げたこと。彼女の遺書に書かれていた内容。
結局、彼女に正面から向き合った人間は一人も存在しない。
誰も彼女を見ようとしない。そんな世界を拒んだ彼女を、無理に世界に引き戻す必要なんてないだろう。
シャツの上にジャケットを羽織ろうとして、身支度の手を止めた。
彼女との関係は変わった。もう必要ないのだとジャケットを床に投げ捨て、代わりにクローゼットの奥から引っ張り出した白衣に袖を通す。
無機質な廊下を進み、端末にカードキーを認証させ、『Lily』の札がかけられたスライド式のドアを開ける。
目覚めていたらしいその少女は、ベッドの上で身を起こし窓の方を向いており、視線の先は俺が好きだと言った青空が広がっている。
俺が部屋に入ってきたことにすら気づかない後ろ姿が、初めて屋上で会った時と重なる。
だけど今、彼女が柵を乗り越えることはないことを、俺は知っている。
「リリィさん」
彼女が振り返り、しばらく俺の顔を見つめた後、不思議そうに首を傾げた。
「えっと……今日から担当になった、新しい先生?」
「ええ。氷山キヨテル。呼びやすいように呼んでください」
「そっか。じゃあ、キヨ先生だね。はじめまして」
微笑みかける柔らかな表情と、「はじめまして」の言葉。
彼女はもう『橘 梨々香』ではなくなったはずなのに、俺を識別するその呼び方だけが変わらないままだった。
彼女の監視役を引き受けるにあたり、こちらから提示した要望は二つ。
彼女を施設から出さないことと、彼女の記憶を初期化すること。
前者は、自殺未遂を起こした人物を、世間に再び出せないという組織との利害が一致して決定した。「彼女が本心から望んだ場合は除く」という条件がつくが。
後者は、ダメージを負って破損の範囲が不明な記憶データを全て消去し、バグの可能性を取り払った。
記憶が蘇れば彼女はまた絶望を味わう。
だから彼女の人生をリセットし、最初から絶望なんてものは教えない。
一度外界で羽ばたき、空の恐ろしさを知った小鳥を籠に連れ戻しただけだ。
「キヨ先生?どうして泣いてるの?」
はっと気がつくと、俺の頬に一筋の雫が垂れていた。
自分で決めたことなのに、彼女が俺を覚えていないことにショックを受けたのだろうか。
雫を拭うために眼鏡を外そうと手を伸ばした俺に、くすくすと笑い声が飛んでくる。
「先生ったら、眼鏡取ろうとしたの?何もかけていないのに」
「あ、……以前までかけていたので、つい癖で」
「じゃあこれ、きっとキヨ先生の物だね。ほら、これでしっかり私の顔が見えるでしょう?」
立ち上がってこちらに歩み寄る彼女の手には、見慣れた眼鏡ケース。
そこから取り出した眼鏡のつるを広げて俺の顔にかける。
「初めて会うけど、せんせはこっちの方がしっくりくるよ」
俺が視力を矯正する必要もないことも、目の前で眼鏡を握り潰したことも知らない彼女は、そのまま俺を抱き寄せた。
「大丈夫、怖がりなキヨ先生には私が付いてるよ。だからいろんなこと、私に教えてね」
何も覚えていない彼女の方が今の状況は怖いはずなのに、俺を気遣うその姿は、抑圧された本来の彼女そのものだったのだろうか。
だけど、笑ってくれる。呼べば応えてくれる。
孤独だった彼女にようやく手が届いた気がして、恐る恐るその華奢な体を抱き返した。
「元が教師だったので、知る限りのことは教えてあげますよ」
「元?今は辞めちゃったの?どうして?」
「さあ、なんででしょうかね」
『あんたの瞳には今、何色が映ってる?』
いつかの問いかけに、今ならばこう答えるだろう。
それは白色。彼女の部屋、身に纏う病院服。絶望を忘れた彼女の、希望の色。
今の彼女の瞳には何色が浮かぶだろう?
それはきっと灰色。喪失の直後、自分自身を見つけるために、彼女は何が目に映っても全てを受け入れる。
かつて黒と答えたその瞳には、閉ざされた未来が見えていたのだろうか。
いくら追い求めても、いくら悔やんでも、もうあの日々は戻ってこない。
在り来りな感情はあの屋上に置いてきてしまった。
忘れ物を届けてくれる誰かはいない。
今はただ、空っぽな彼女の傍らにいてやることに集中しよう。
誰に何を言われようが、自らの末路などもうどうでもいいことなのだから。
【キヨリリ】Lost days --下--
完結です。
先生の白衣姿が見たかったので書きました。
もう少し先生は病む予定でしたが、少し明るいまま終わりました。
でも全然笑ってないです。なぜ我が家のキヨテル先生は表情筋がこうも固いのでしょう。
「Lost days」上:(http://piapro.jp/t/WSTt)
「Lost days」中:(https://piapro.jp/t/gEs7)
コメント0
関連動画0
オススメ作品
今 その吐息が 風となり月雲となる
今 その溜息が 音となり哀歌となる
不意に 語り出した 口笛は 宴となり
いずれ太古の風雲となる
風音も相棒になった 旅に慣れた頃に
雨音も相方になった 涙に慣れた頃に
雨が舞い降りる前の静かな 香り
不慣れな風が誘い 足跡 探し
我が迷い心 揺らし叫ぶかの...風雲(ふううん)【音付け募集中】圧倒的和風ソング
ドク
※大したことはありませんが、少しだけオトナの描写があります※
閲覧になる際はご注意ください【カイメイ】扉の隙間
キョン子
『汚れは浄化して』
きれいでいたかった 汚れたおれは
もうきみに合わせる 顔がないんだ
汚れた欲望を きみにむける
そんな自分が 憎くてしかたない
はじめは純粋な 気持ちだけを胸に
抱いていた
この気持ちは きみだけには
伝えてはいけないと 思ったんだ
肉欲に塗れた このおれは...汚れは浄化して 歌詞
裏久
現実と眠りの世界の狭間で、うとうとと夢を見ていた。
俺はどこかの国の王様に雇われた勇者で、捕らわれの姫君を助けにいく旅の最中だった。美しい姫君は悪の魔王に見染められ、花嫁としてさらわれていったらしい。たった一人の王女を失った国の嘆きは深い。長く生やした髭が床についてしまいそうなほど玉座で項垂れた王様...【カイメイ】扉の向こう
キョン子
○パープル・スモーク・フェイズ
喫煙者あるある(私はすいません、これは喫煙を推奨していません)
KAITOとデル中心の絵の練習を兼ねたコント。
ある意味、年齢制限?エロみは薄いです、趣味嗜好系です。
☆
「知っていますかタバコって大人のおしゃぶりなんですよ、ベイビー」
「知ってた、いや違う、ニコ厨な...スモーク・パープル・フェイズ
える
~序章~
「あれ?なんだろう?」
部屋に戻ると机の上に一冊の本が置いていた。
「みきネェのかな?」
僕はみきネェに聞いてみる。
「私のじゃないよ。でも、面白そうだね。」
「人柱アリス…。確かに気になる。」
「ピコ、読んでみない?」
「でも…。」
「チョッとだけなら大丈夫だよ!」...人柱アリス1
あき
クリップボードにコピーしました
ご意見・ご感想