この世界はニセモノで満ちている。
恋人たちが眺める夜景はビルの照明が集まっているだけだし、好きだとささやく言葉は他の誰かにも向けられている。
テレビで流れるお涙頂戴な話も一から作った『やらせ』の話だし、今だけ限定と売りつける商品は何の価値もないコピー品。
意識すれば、あちらこちらに嘘の仮面を被った人間が立っているのだ。
ニセモノに対してヒトは、「裏切りだ」と掌を返すように糾弾し、あるいは「それでもいい」と相手に依存する。
一つの物事に対して、ころりころりと言い分を変える者は、自分が思っている以上に存在している。
ああ、この世界は、楽園から墜ちてしまったのだ。
世の中の流れはレールを踏み外している。
それは私にはどうしようもないことだった。
何かができたとして、何をする気もない。
『先生、さようなら』
『ああ。明日の小テストに備えて、きちんと勉強するんだぞ』
『わかってますよ。今度こそ満点を取りますから』
そんな他愛のない話を聞きながら、私はひとり残って黒板の文字を消していく。
もう一人の日直は、終業の鐘が鳴るや否や、楽しそうにどこかへ行ってしまった。
明日になれば「昨日は帰っちゃってごめんねー、全部やってくれてありがとう超うれしいー」とうっとうしいことこの上ない、上辺だけの感謝を私に投げるのだろう。
彼女だけではない。このクラスの人間は、日直の仕事をできる限り減らそうとするのだ。
それを他人に押し付けてまで拒絶する者もいる。
それも無理はないとは思う。だってこのクラスの日直は仕事量が多く、担任は生徒のことを『見ていない』から。
「おや、きみ一人ですか」
ほら来た。
声のした方へ視線を向けると、扉に背を預けた茶髪の男性が、無機質な瞳でこちらを見ていた。
「もう一人は帰りました。かわいそうな私は、それでも真面目に仕事してまーす」
「誰が帰ろうが勝手ですが、その日の仕事はやってもらわないと困りますね。一人でもいい、必ず全てやり遂げてください」
「はいはい。相変わらず冷たいセンセイだこと」
誰に対しても淡々と、眼鏡の奥に見える瞳に感情は見えない。
その名の通り、氷山先生は、周囲の人間に限りなく冷たい。
「…確かきみは数学係でしたね。丁度いい、運んでもらいたいものがあるんです。後で数学科準備室に来なさい」
「ええっと…それ、あたしが家に帰れるのいつごろになるのかなーとか、聞いてみたり?」
「さあ…早く終わればいいですが…まあ、七時とかじゃないですか」
「遅くなっちゃうよ…どうせ、拒否権はないんでしょうけど」
怒りを示すように黒板消しを黒板に勢いよく押し付けると、もくもくと白いチョークの粉が舞い上がる。
粉っぽいそれを間近で吸ってしまって咳き込む私に目もくれず、氷山先生は廊下へ歩いて行ってしまった。
ほら。やっぱりそうだ。
彼は生徒のことなどどうでもいいし、雑用を押し付け、名前さえ覚えない。
彼のクラスの日直は、たくさんの雑用仕事を課せられる。
誰も彼の笑顔を見たことがない。
クラスメイトの誰かが、皮肉を込めて《コオリヤマ》と呼んでいるのを聞いたことがある。
見た目は生徒をひいきしない真面目な数学教師でも、一度接してみれば、その瞳が誰も気に留めないことに気づけるだろう。
でも…彼のことを、皆が言うほど、悪いひとだと思えない。
なぜかと問われても理由はわからないが、なんとなくそんな気がするのだ。
今まさに振り回されているのに、その直感を否定することはまだできない。
日誌を抱えて、数学科準備室の扉をノックする。
彼の返事も待たず、勝手に扉を開けて中に入る。
「失礼しますよー」
「返事を聞いてから入ってはどうです?」
「何よ、日直ついでに係として呼んだのはヒヤマ先生でしょ。私はできる限り早く帰りたいんだから、それくらいいいでしょ」
「それは失礼。では早速、その箱を運んでいただけますか」
先生が視線を横にずらしたので、私も思わず隣を見てしまう。
そこには五、六個は積まれた段ボール箱があった。
「ちょっと、引越しの用意みたいな量じゃない!なんでこんなにあるのよ」
「ほら、夏休みが近いですし、その課題ですよ。半分は違う教材ですけど」
「夏休みの前に期末テストでしょ?」
「期末テストの範囲内ですから。明日からやってしまえば皆さん楽でしょう」
「それ大丈夫なワケ?まあいいわ、教室に運ぶ感じかしら」
「はい。ではお願いします」
しぶしぶ箱を一つ抱え上げ、すぐに廊下へ足を動かす。
あーあ。今日は帰りに本屋さんに寄る予定だったのに、仕方ないか。
慎重に階段を降りていると、規則的な足音が聞こえてくる。
足音の発生源は、私が抱えているより大きめの段ボール箱を軽々と持っていて、スッと私の横を抜いていった。
「ちょっと待って。なんで先生がいるのよ」
「見ればわかるでしょう。教材を運んでいるんです」
「てっきり私一人にやらせるんだと思った」
「無理やり頼んだんですから、きみ一人にやらせるわけにはいかないでしょう」
「なにそれ。『仕事は全てやってもらわないと困る、一人でもやり遂げてもらう』んじゃなかったの?」
「それは日直の話で、これは違いますよ」
「拒否権はないって言ったら何も答えなかったから、沈黙は肯定ってことでしょ?」
「肯定の言葉は返していませんが」
「否定もしなかったでしょ」
よく考えたら、こうして二人で並んで話し続けているのは不思議な光景だ。
元々氷山先生はお喋りなタイプではない。生徒どころか、他の先生と話していることさえほとんど見たことがない。
良くも悪くも職務に忠実で、取りつく島がない。
誰にでも冷たい印象を受けるのはそのせいだ。
「ねえ、今日の先生、なんだかお喋りじゃない?」
「きみが問いかけてくるからでしょう」
「普段なら手短に一言だけ返して終わりじゃない。今日は機嫌がいいの?」
「機嫌?別に普段通りだと思いますが。…運び終わりましたね。申し訳ありませんが、あと二箱お願いできますか」
お願いできますか、なんて。
これは仕事の命令であって、申し訳ないなんて、これっぽっちも思っていないくせに。
「あと二往復ってしんどいわね。教室と数学科準備室って遠いし、階段とかあるから時間かかるわ」
「助かります。きみが手伝ってくれるおかげで、早く仕事が終わりそうだ」
「私の帰りは遅くなるんだけどね」
「では送っていきましょうか」
「…え?」
時計の針はすっかり七時を回っている。
私は目をぱちぱちさせながら、助手席でシートベルトに締め付けられていた。
「なんでこんなことになってるわけ?」
「送っていくと言ったでしょう?雨が降ってきていつもより暗く危ないですし、バスを待つより時間がかからない」
「私がバスで通学してること知ってたのね」
「知ってますよ。担任ですから」
あの氷山先生が家まで送ってくれるなんて、全く予想できなかった。
だってそういうタイプではないはずなのだ。
「こんなこと、考えもしなかったなあ」
「嫌ですか?僕と帰るのは」
「別に。なんでそんなこと聞くの」
「聞いてみただけですよ」
珍しい。今日の先生は、本当にお喋りだ。
絶対に必要最低限のことしか話さない人だと思っていたのに。
なんだか今日の先生は変だ。
そのことが気にかかった、殺風景で静かな車内に、わずかに漂う煙草のにおい。
「煙草、吸うんだね」
「ええ、まあ」
「やめないの?」
「口寂しいとでも言いますか…」
「ふうん。わかんないの」
再び車内に沈黙が訪れる。
何を話したらいいのかわからなくて、すぐ横の窓から車外に目を向ける。
窓ガラスを打つ雨は流星群のようで、時々外の景色の光を宿しながら幾度も流れ落ちていく。
「氷山先生、どうして誰にでも冷たいの」
景色が自宅の付近の見慣れた道になったとき。
油断していた私は、気になっていたことを、ついそのまま言ってしまった。
「誰一人先生の笑顔を知らない。先生に関する話も知らない。いつも淡々としてて、何を考えているのかわからない。誰にも心を開かないのは隙を一切見せたくないからでしょう。でもそうして何とも関わらずに生きていくのって、本当は寂しいんじゃないの?」
つかみどころのない先生は、きっと素っ気ない返事だけを返す。
そう心のどこかで思っていた。
車は自宅のすぐ近くに来ていた。
きっ、とサイドブレーキの音が聞こえて、着いたんだと一息ついた瞬間。
すぐ隣から、先生の手が伸びてきた。
これはなんだろう。
頬に添えられた手と、塞がれた口。
数秒経って、離された唇から熱気を帯びた吐息が漏れる。
「なら、この寂しさは、きみが埋めてくれるんですか」
「せんせ、何を言って」
言いかけて、気づいた。
先生の瞳に、揺れる影があることを。
「さっききみは、『誰にも心を開かない』と言いましたね。それはきみも同じでしょう、教室で見るその笑顔は、作り上げられた仮面にしか見えないんですよ」
「なんで…知ってるの」
「僕ときみは、似た者同士なんじゃないですか?だから本質を見抜かれた」
反論の隙を与えず、再び言葉を紡ぐ手段を奪われる。
今度はもっと乱暴に、時々離されてはまた、酸素を奪い合う。
静かな車内に聞こえるのは、少し弱くなった雨粒の音と、呼吸もままならない互いの音。
余裕がないのは私だけ。突然のことに、頭が追いついていかない。
時間にすれば一分ほどで終わりは訪れたけど、その時もうとっくに息は上がっている。
「せんせ、なん、で」
「わからないんですか?僕は、きみに興味があるんですよ」
銀糸を断ち切るように彼が口を拭う。
興味?
いつも、無機質な目をした彼が?
「僕は感情表現が苦手でしてね。それ故に誰ともうまく接することなく生きてきました。だからきみが何を思って話しかけようが関係ないはずだった…が、気が変わりました」
気まぐれな腕が私に触れ、先ほど味わったほろ苦いにおいを思い出してしまう。
金髪を無造作に掻き分け、なぞられた首筋に冷や汗が流れる。
このヒトは、だれだ。
その名に似合わない、氷を溶かすほどの熱を与えた、このヒトは。
「だったら…そんなニセモノの仮面なんか捨てて、ホンモノの私を見てよ。さっきみたいに、心の底から、私を欲しくなるように」
もしかしたらとっくの昔に、彼の本質に気づいていたのかもしれない。
彼はきっと、不器用なんだ。
彼を拒まなかった理由までは、まだわからないけど。
車を降りる間際、彼がぽつりと呟いた。
「口寂しさは、きみに埋めてもらうとしますか、リリィ」
リリィ。
初めて呼ばれた名前に振り返ると、彼の口角がわずかに上がるのが見えた。
今。氷山先生が、笑った?
降りしきる雨が、私から熱を奪っていく。
無くしていく彼の温度も、私の思いも、口から零れた言葉も、全てヒトの真似事で模造品なのに。
どうしてこんなに、胸が苦しくなる。
その日、私と彼は、ニセモノの関係になった。
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ア"ア"ア"ア"ア"ッゆるりーさんのキヨリリ!!!Twitterでキヨリリ検索して良かった!!!!
2人の温度がじりじりと上がっていく感じが最高に好きです………最後呼び捨てにするところと口角上がるの…先生罪深い男……っ!!って思いながら読んでました……ホントありがとうございます……ご馳走様でした!!!
2017/06/27 12:21:00
ゆるりー
私にはピュアなキヨリリは書けませんでした(´・ω・`)
こういう雰囲気のキヨリリを見たことがなかったのですが、喜んでいただけてよかったです!
先生罪深いですよね…!
糖度ではなく温度が上がっていってもいいと思いました(`・ω・´)b
2017/06/28 21:10:35