結論から言うと、わたしの怪我は大したことはなかった。脳の映像を撮ってもらったりしたけれど、異常は何もないということで、一週間で家に帰れることになった。土曜日の午前中、お母さんが迎えに来てくれて、わたしは多少の怯えを感じながらも帰宅した。
 お母さんは、ミクちゃんのお見舞いのことについては、特に何も言わなかった。花瓶に活けられた花を見て「綺麗なお花ね。ミクちゃんからでしょう?」と言っただけで。ほっとした半面、やっぱり後ろめたい。
 家に戻った時はまだ昼間だったので、いるのはお手伝いさんたちだけだった。お父さんとルカ姉さんは、わたしが入院している間も、毎日普段と変わらず仕事に行っていたらしい。
 ……別に、お見舞いに来てほしかったわけじゃない。お見舞いに来られても、何も話すことなんてないわけだし。でも……なんだか、胸の奥に重苦しい何かが、渦巻いているような、そんな感じがする。
 わたし、まだ、心のどこかで期待していたのかな……期待なんて、するだけ無駄なのに。お父さんがわたしに望んでいることは、完璧な娘になっていい家にお嫁に行くことだけだ。それ以外は、多分どうでもいいと思っている。わたしが何を考えているのか、何を感じているのかなんて、お父さんにとっては考える価値すら無いことなんだ。そしてルカ姉さんは……わたしのことが、嫌いだ。階段から突き落とすぐらいに。
 わたしはため息をついて、自分の部屋に戻った。クローゼットに入って、レン君から借りたCDを隠した場所を確認する。お母さんが見つけたのかどうかはわからないけれど、わたしが置いておいた場所にちゃんとあった。『RENT』のサウンドトラックを取り出してプレーヤーにセットし、イヤフォンを着けて再生ボタンを押す。すぐに音楽が流れ出した。
「"Will I lose my dignity will someone care? Will I wake tomorrow from this nightmare?"」
 曲にあわせて、繰り返し口ずさんでみる。大きな声を出すと気づかれてしまうから、あくまで小さな声で。
 わたしは気がつくと、曲を聞きながら泣いていた。これが悪夢だったらいいのに。でも現実なんだ。この曲と同じで。


 時間が過ぎて、夕食の時間になった。顔を洗って――涙の跡が残った顔で、食事の席になんていけない――、食堂へと向かう。……気が重い。
「……あら、リン。帰ってたの」
 聞こえてきた声に、わたしは立ち尽くした。……ルカ姉さんだ。食堂の入り口のところに立っている。
 ルカ姉さんの姿を見た瞬間、わたしの全身は凍りついたように動かなくなってしまった。何か言おうとしても、言葉が喉につかえて出て来ない。頭の中に、突き落とされる前に聞いた、冷たい声が甦る。今のルカ姉さんの声は、そんなのじゃないけれど……。
 わたしは意志の力を総動員して、何とか頷いた。ルカ姉さんはそれを確認すると、興味を無くしたのか、食堂へと入って行ってしまった。
 ルカ姉さん……普段と全く変わりなかった。わたしを見る目も、いつもと同じ。……本当に憶えてないの? 階段でわたしの背中を押したこと。
 急に全身に震えが走って、わたしは床にへたり込んでしまった。どうしよう。これから、ルカ姉さんと同じテーブルに着いて食事をしなくちゃならない。けど……どうやったら、そんなことができる? 正直、吐きそうなのに。
「……リン? どうしたの!?」
 わたしがいつまでも食堂に入って来ないのを不審に思ったみたいで、お母さんが廊下に出てきた。廊下に座り込んでいるわたしを見ると、表情を変えて駆け寄ってくる。
「まだどこか具合が悪いの!?」
 具合……悪いといえば悪い。でも、これは身体的なものじゃなくて精神的なもの。それに、お母さんを心配させては駄目だ。
「ちょっとめまいがしただけ……」
 わたしは、気分が悪いのを押さえ込んで立ち上がった。お母さんが、心配そうな目でわたしを見ている。
「あの……お母さん。夕ごはん、もう一時間ぐらい後でもいい? わたし、今あんまり食欲なくて……」
「……ええ、それは構わないけど。リン、本当に平気なの?」
「ちょっとだけ休んだら大丈夫だから」
 嘘だ。疲れてるんじゃないの。ルカ姉さんと顔をあわせたくないだけ。一時間もあれば、ルカ姉さんは食べ終えて自分の部屋に戻ってしまうだろうから、一緒に食事をしなくて済む。
 わたしは、お母さんを置いて自分の部屋に戻った。ベッドに座り込んで、これからどうするのかを考える。
 今日のところはこれでしのげても、明日からはどうしたらいい? 毎日理由をつけて、食事の時間をずらすわけにもいかない。なんとか、ルカ姉さんと顔をあわせても平気にならなくちゃ。ルカ姉さんの顔を見た瞬間に震えてへたり込んだりしたら、お母さんに変に思われてしまう。
 ……お母さんだけならまだいい。お父さんに知れたら、一体何を言われるか……。
 なんでこんなことになっちゃったんだろう。わたしは両手で自分の顔を覆った。ルカ姉さんとちゃんと話したいってわたしの望み、こんな結果を招いてしまうほど、大それた望みだったの?
 考えても考えても、思考は同じところを回るだけだ。……頭の中で考えるだけより、何か形にした方がいいのかもしれない。わたしは買い置きしておいたノートを取り出すと、開いて、そこに頭に浮かんだことを書き留めて行った。
 そうやってずっとノートに頭に浮かんだことを書いた後、わたしはノートに並んだ文字を見て、愕然とした。どこかで見たことがあるような文章だ。どこで見たんだっけ……?
 思い出した。わたしは立ち上がって、本棚から一冊の本を取り出した。ページをめくっていく……あった。
 ……読むうちに、また目に涙が浮かんだ。


 その日の夜、わたしはハク姉さんの部屋のドアを叩いた。
「……誰?」
「リンよ」
 ハク姉さんが鍵を開けてくれたので、わたしはハク姉さんの部屋へ入った。相変わらず散らかっている。ずっと掃除してないのかな……。
「ハク姉さん、掃除とかは」
「掃き掃除と拭き掃除だけ。たまにね」
 してないわけじゃないんだ……。でも、カーペットに掃除機かけなくていいんだろうか。
「で、リン、どうしたの?」
「う、うん……あの、報告ってほどじゃないんだけど、わたし、今週入院してたの……」
 ……姉の部屋を訪ねて、口に出す話題がこれというのは絶対におかしいと思う。けど、これがわたしの家の「当たり前」だ。
「入院してたって……」
 ハク姉さんは絶句した。
「……階段から落ちて、頭を打ったの」
「一体なんでまた?」
 ハク姉さんには、本当のことは言わない方がいい。
「それなんだけど……憶えてないの。頭を打ったせいかも」
「他に異常は?」
「検査したけど、特に何もありませんって」
 わたしの答えを聞いて、ハク姉さんはほっとしたようだった。
「リン、あんた、運がいいわね」
 運が良かったら、そもそも階段から落ちないと思うんだけどな……。
「カエさん、パニックになったんじゃない?」
「……多分」
 わたしは意識を失っていたから、本当のところはどうだかわからない。でも、病院で見たお母さんは、憔悴した顔をしていたから、多分それに近いことになっていたんだろう。
「あんた二度目だもんね……」
 え? 何気なくハク姉さんが口にした言葉に、わたしはびっくりしてハク姉さんの顔を見た。二度目って、何が?
「あれ、もしかして、そっちも憶えてない?」
「憶えてないって……何のこと?」
「あんたが昔階段から落ちた時のこと」
「そんなことあったの?」
 全く記憶に残っていなかったので、わたしは驚いてしまった。
「あんたが幼稚園の時の話だから、憶えてなくても仕方ないかも。階段から落ちて気絶して、カエさんがあんたを抱えて病院まで連れて行ったの」
 わたしは記憶を浚ってみたけど、やっぱり思い出せなかった。……わたし、昔からそんなに不注意だったんだろうか。え? あれ? ちょっと待って、今回のはわたしの不注意じゃない。だって、ルカ姉さんがわたしの背中を押したんだから。
「わたし、なんで落ちたの?」
 ハク姉さんは、一瞬気まずそうな顔になった。そして視線をそらす。
「……ハク姉さん、知ってるの?」
「あ……うーん、あの……」
 ハク姉さんはしばらくわたしを見て、それから、意を決したように口を開いた。
「実は……あたしのせいなのよね」
 意外なことを言われたので、わたしは唖然としてハク姉さんを見つめた。ハク姉さんのせいで、わたしが階段から落ちたって……。
「ハク姉さん、まさか、わたしを押したの?」
 わたしの言葉に、今度はハク姉さんの方が唖然とした表情になった。それから、勢いよくぶんぶんと首を横に振る。
「違う、違うって。どうしてあんたを突き落とすなんて話になるのよ」
「……ごめんなさい」
 わたしは、反射的に謝った。……確かに、今のは過剰反応だ。いくらルカ姉さんに突き落とされたとはいえ。
「でも押したとかじゃないのなら、どうしてハク姉さんのせいなの?」
「あ~、あんたにこんな話するのもなんだけど、あんた、あの頃すごくカエさんにべったりで」
 わたしは、言葉が出てこなかった。幼稚園の頃……わたしは毎日のように、お母さんに絵本を読んでもらったり、お菓子を焼くのを手伝おうとしたり――手伝おうとしたあげく、粉をひっくり返したり、クッキーの生地を触りすぎてベタベタにしたりしてしまっていた――していたんだっけ。
「あたし、面白くなかったわけ。あんたが『ママ、ママ』ってカエさんを追いかけるのが。あんたを産んだのはあたしたちの本当のお母さんなのにって。だからそれをわかってもらおうと思って話をしたら、あんた、それ拒絶して部屋から飛び出したのよ。でもって、階段を走って下りようとして、足を踏み外して転げ落ちたの」
 そういうことだったのか。ハク姉さんの口調からすると、これは本当みたいだ。……でもやっぱり、記憶に無い。
「全然記憶に無いの……」
 階段から落ちたことも、ハク姉さんからお母さんに関する話を聞いたことも。
「小さかったからじゃない?」
 多分……そうよね。
「お母さん……わたしがハク姉さんと揉めたのが原因で、階段から落ちたこと知ってるの?」
「それはわからない。でも、あたしがあんたに本当のお母さんの話をしようとしたことは知ってる。あの後、あんたにその話はまだしないでって言われたから。あんたは小さすぎて、まだ理解できないだろうから、しばらく黙っててくれって。だからそれ以来、その話をするのはやめたんだけど」
 そこまで話して、ハク姉さんは怪訝そうな表情になった。
「あれ……そう言えば、あんたはいつ知ったの? カエさんはあんたの本当のお母さんじゃないって」
「高校に入る時。修学旅行でパスポートが要るから、その前に話しておくって」
「ああ、そっかあ……あたしと違って、あんた、海外だったもんね」
 ハク姉さんは一人で頷いている。わたしはそこで、ふとあることが引っかかった。
 お母さんがこの家にやってきたとき、わたしは二歳だったはずだ。そして、本当のお母さんのことは記憶に無い。
 ハク姉さんとルカ姉さんは三つ違う。だから、わたしたちの本当のお母さんがこの家に来た時、ルカ姉さんは当時のわたしと同じぐらいだったわけで……。
 もともとはさげすまれていた者、今ではさげすむ者、隠れて食らいつくすは自らの価値、満たされることのない……。
 さっき読んだ文章が頭の中に浮かんだ。神様って、本当にいるんだろうか。いるのなら、どうか……。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第四十八話【一人離れて行く者】

 その心を甦らせ、その曇った瞳を開き、千の泉を見せたまわんことを。

 でもそうなるには、色々と必要なものがあるんです。

閲覧数:1,043

投稿日:2012/01/24 18:25:25

文字数:4,815文字

カテゴリ:小説

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