刹那、鋭い疾風(かぜ)が不良の身体を通り過ぎた。
「え?」
まるでスローモーションのように、その身体が沈んでいく。ドサッと音をたてて廊下に顔から倒れこんだ彼は、ぴくりとも動かない。
長い沈黙が廊下を支配する。
「な…」
不良達は目を白黒させ、床に伏して動かない仲間を呆然と見下ろす。
流架にも、何が起こったかまったく理解出来なかった。
「安心しろ。気絶しているだけだ」
しんとした空間に、楽歩の声だけが響いた。その右手には、さっきまで腰にあった木刀が握られている。
「我はちゃんと警告したぞ。この女子だけでも見逃してくれぬかと。流架殿だけでも見逃してくれたなら、反撃はせんつもりだった」
逃げ回りはするが…と付け足して、楽歩は木刀の先端を袖で軽く拭う。
そこで漸く、流架は楽歩が不良を倒したのだと理解した。
「とっととこ奴を連れて行け。我も早く昼餉を食したいので、退いてくれると有り難い」
口調はいつも通りなのに、目線に抗えない威圧感がこもっている。
「な…ナメんじゃねぇ! 仲間がやられてのこのこ引き下がれるかあ!」
腰は完全に引けているのに、不良は仲間の敵討ちの念だけで身体を動かし、楽歩に掴みかかろうとするが、
「遅い」
目にも留らぬ速さで木刀が閃いてからきっかり三秒後に、彼の身体はぐらりと傾き、膝から廊下に崩れ落ちた。
太刀筋が見えなかった。
流架が確認出来たのは、不良が迫ってきた時に楽歩の腕がぶれるように動いた事だけだった。
知らない。
こんな『楽歩(ひと)』を、流架は知らない。
「嘘だろ…」
「これが『紫神』…」
「ど…どうする…?」
生き残っている前方の不良達は、互いに目配せをする。
「喧嘩ふっかけてすごすご逃げるとか、んなダセェ真似出来るかよ! こっちはまだ五人残ってんだぞ!」
「そうだな…数ならこっちが有利だ…」
一人の言葉で戦意を取り戻した不良達は、じわじわと距離を詰める。楽歩はちらりと背後の流架に視線をやってから、さっきより大きな溜息を吐いた。
「…また海斗殿が心配するな」
視線を不良に戻し、右手の木刀を握り直した時だった。
「何やってんの?」
聞き覚えのある声が楽歩と流架の耳に届いた。その場に居る全員の視線が、流架の後方に現れた、紙パックのジュースを啜る茶髪の女子生徒と、その隣でアイスを頬張るマフラーをした男子生徒に集まる。
「芽衣子さん! 海斗さん!」
「何? また喧嘩?」
芽衣子はてくてくと楽歩の隣まで歩み寄り、意地悪そうに笑いながら楽歩の顔を覗き込む。
「喧嘩!?」
その単語に海斗は顔を真っ青にすると、慌てて楽歩に駆け寄った。
「がっくん大丈夫!? 怪我とかしてない!?」
「あんたじゃないんだし、楽歩なら大丈夫でしょ」
酷いよぉめーちゃんと本日二回目の台詞を吐く海斗。芽衣子はそんな海斗をまたもや無視すると、正面に並ぶ不良をざっと見回した。
「楽歩、手伝おうか? 食後の運動にちょうど良いし」
「芽衣子殿は相変わらず好戦的だな」
「あたし、自分の害と成す奴と力無い者に危害を加えようとする奴には容赦しないからね。今回は後者かしら?」
にやりと不敵な笑みを浮かべ、ぐいんぐいんと腕を回す。その隣で楽歩は本日三度目の溜息を吐いた。
「と言うわけで、これ以上続けるならば芽衣子殿も参戦するそうだ」
半ば投げやりな口調で目の前の不良に言う楽歩。その言葉が聞こえたのか聞こえてないのか、不良はがたがたと身体を震わせ、青い顔を見合わせている。
「ヤベェよ…これは…」
「勝てるワケねぇだろ…」
「『紫神』どころか『鬼殺し』も…」
「だ・れ・が・鬼ですって?」
途端、芽衣子の顔が瞬間的に般若のように変貌した。
「ひぃぃぃ!!」
「すいません!!」
「許してぇ!!」
「ごめんなさい!!」
「お助けぇ!!」
それぞれが情けない台詞を言い残し、不良達は倒れた仲間も放置して一目散に逃げ出した。途中で転げたりしながらも、彼らは必死に走る。その際にすれ違った一般の生徒は、驚いた顔で彼らを見送った。
嵐が去った廊下に、静かな沈黙が流れる。
「…ったく勝手に人の事『鬼』とか言って…失礼ね」
「正しくは『鬼殺し』だよ。鬼を殺す程強いって意味なんだって」
「ほぅ…海斗、じゃあその威力をその身体で味わってみる? 知ってるでしょ? あたしの兄貴はプロの空手家だって」
「え…めーちゃん待って! 顔が怖いよ! いつもの可愛い顔が台無しだよ!? ちょ、がっくん助けてぇ!!」
「芽衣子殿は見ただけで逃げ出したのに、何故あ奴らは我を見ても退いてくれんかったのだろう…」
「ちょ!? がっく…」
「覚悟しなさい!」
「ぎゃああああ!?」
沈黙が…流れるわけがなかった。寧ろ、さっきより騒がしい。
「あの…楽歩さん?」
腕を組んでその答えを一生懸命考える楽歩に、流架はおずおずと声をかける。
「流架殿…」
「まず、助けてくれた事には感謝します。が、幾つか質問に答えて下さい」
「やっぱり…か…?」
「やっぱりです」
楽歩は流架の真っ直ぐな眼差しを暫く見つめ、やがてがっくりと肩を落とした。
「あ奴らが我に勝負を仕掛けてきた理由…か?」
流架は大きく頷いた。
「流架殿は、この学校の六分の一はあのような輩ばかりだと知っているか?」
「寧ろ、この学校は国内でも名高い名門校と聞いているんですが…」
「間違ってはいない。少なくとも我がこの学校に来た中学二年の夏までは、生徒は皆真面目だったと聞く」
「じゃあなんで…」
そこで言葉を区切り、流架は苦虫を噛み潰したような表情をした楽歩を見て眉根を寄せた。
「あ奴らは皆、ある不良グループに影響されてああなってしまったのだ」
「それが…さっき言ってた、チーム『0』…?」
流架の質問に、楽歩は黙って首を縦に振った。
「どんどんその数は増えていき、あ奴らは調子にのって好き勝手に振る舞い出した。さっきのように、女子や後輩から金を巻き上げたり、理由も無く集団で誰かを殴ったりする輩も増えていった」
「なんて事を…」
「それを見かねた芽衣子殿が、集団暴行していた奴ら十人程を蹴散らしてから、奴らは芽衣子殿を敵対視するようになった。物品が無くなったり、闇討ちに会いそうになった事も少なくなかった。それでも、芽衣子殿は目の届く範囲で行われている暴挙を必死で止めようとした。己の身体が傷つくのも厭わず、芽衣子殿は力無き生徒の為、学校の平和の為にずっと戦ってきた。故に、芽衣子殿とその作業に協力していた我は妙な通り名で呼ばれるようになったのだ」
「楽歩、一つ説明が足りないわよ」
いきなり会話に割り込んだ芽衣子は、そのたおやかな指で海斗と楽歩をぴっと指差した。
「あんたがあたしの背中を護ってくれて、海斗が隣に居てずっと励ましてくれたから、あたしは自分の『正義』を貫けたの。この学校の平和を作っているのはあたしだけじゃないわ」
「芽衣子殿…」
「めーちゃん…」
楽歩は僅かに目を細め、海斗は芽衣子にマフラーで首を絞められながらも瞳をうるうると潤ませた。
「勿論、流架も入ってるわよ?」
「えっ?」
突然自分の名を呼ばれ、流架は目を見開いた。
「あたし、海斗達に出会うまで友達いなくてさ。あたしに関わると自分達まで目をつけられるし、不良を蹴散らすあたしがやっぱり怖かったみたい。だからこそ、流架みたいな女友達が出来たのは初めてだったから、すごく嬉しかった。流架が普通に話してくれるだけで、心がすっごく温かくなった。だから自分の『正義』に誓ったの。流架は絶対に護ってやるんだって。流架の為にも、戦ってやるんだって」
そう言って、芽衣子は花のように柔らかく笑った。
* * *
流架達の居る校舎の隣の校舎の屋上に、一人の女子生徒が佇んでいた。ツインテールの白い髪が、風で踊る。
「……」
その氷のように冷たい瞳で、向こう側の校舎の中で動く紫と茶色をじっと見据え、淡く色づいた桜色の唇が、咀嚼するように言葉を噛みしめる。
「『紫神』と『鬼殺し』…か」
「な~にしてんだ?」
いつの間にか彼女の背後に立った長身の生徒が、ひゅうと口笛を鳴らした。刹那、彼女は振り向くと同時に素早く飛び退き、生徒と距離を取る。
「流子…私の後ろに立つなといつも言っているだろうが」
言って、彼女は黒い髪にメッシュを入れた生徒をギロリと睨みつける。
「隙だらけだから後ろとれるんだよ。で、のぞきしてたのか?」
「……」
生徒の問いには答えず、彼女は懐に手を入れる。そこからゆっくり出てきた手に握られていたのは、銀色に光る一本のナイフだった。
「おいおい、ナイフは仕舞えよ。じゃないと零に『亜久が俺様にナイフを向けてチームを離反した』って嘘ついてやるぜ?」
「その前にお前の息の根を止めればいい」
冗談めかしに言う生徒とは対照的に、彼女は害虫でも見るような目で生徒を睨み、淡々と返した。
「うわっ、目がマジだ。亜久ちゃんコワイ~」
「失せろ」
その言葉を発すると同時に、彼女は駈け出した。そのスピードに乗せて、白刃を生徒の顔面に真っ直ぐ伸ばす。
しかし、
「残念」
後数ミリで届く筈だった刃は、突然ぴたりと止まった。彼女は驚きを瞳に映し、自分の手首を掴む生徒を見上げる。
「う~ん、六十点かな。迷いが無いのは良いが、体重がかかってないから速度の威力も半減してる」
「っ…!」
彼女は力まかせにナイフを押し出そうとするが、生徒の腕力がそれを許さなかった。生徒は空いた手で自分の眼前のナイフをひょいっと掴み、意図も簡単にその華奢な手から取り上げる。そしてそのまま、背後にぽいっと放り投げた。
「零は亜久ちゃんの残忍さと忠誠心を買ってんだから、後はもう少し力をつけましょうね」
そう言って彼女の手を解放すると、初めからこの結末が分かっていたかのようにケタケタと笑う。負けた悔しさと生徒のからかうような物言いで目付きを一層鋭くした彼女は、生徒を見つめる視線にありったけの殺気を込めた。
「……自分が零の右腕だった事を泣きながら喜ぶんだな。でなかったらとっくに後ろから刺し殺している」
「そーゆー事は俺様に一度でもナイフを掠れさせてから言えよな」
「ぐっ…!」
二の句が告げない彼女は、上機嫌で去っていく生徒の背中を見つめる事しか出来なかった。
「あ」
突然声をあげると、生徒は首だけ振り返り、「そうそう」と前置きしてから続けた。
「言っとくけど、今はまだあいつらにちょっかいかけなくていいからな」
「……悪い芽が育つのを黙って見届けろと言う事か?」
「心配性だな亜久は」
一瞬だけフェンスの向こうの校舎に視線をやり、生徒は腑に落ちないといった表情をする彼女を見て失笑した。
「だーいじょうぶだよ。あいつらは零には絶対に歯向かえない。歯向かえば、『あの時』みたいに青マフラーをしたあのた~いせつなご友人がまた傷つく事になるからな。だから今みたいに距離を置く事しか出来ないんだよ。まぁ、そうやって焦らして遊んでんだけどな零は」
「その事があるからこそ、奴らは必ず零に報復しに来る。その前に…」
「亜久は一つ勘違いをしてんな」
びゅうっと吹いた一際強い風が、白と黒の間を通り抜けた。
「あいつらは零のオモチャなんだよ。壊される事に気づかず、零の手の平の上で弄ばれてるだけのな」
巡り会えたこの場所で 5
因みに、「鬼殺し」ってお酒の名前です。
それに対を成す感じの名前にしたくて「紫神」なんてセンスのないモノが出来上がりました。
ここからはノンフィックションでお送りします。
蘭「『鬼』と対になる怖いものって何かある?」
妹「『お化け』は?」
蘭「怖いけど怖くないから却下」
妹「じゃあ『死神』?」
蘭「………それだあああ!!!」
妹「!? Σ(°Д°;)」
蘭「『死神』と『神威』と『紫色』を全部足して3で割って2をかけたら…」
妹「何故2をかけたし」
蘭「出来たあ!!『紫神』ってのはどうだ!?」
………ええ、あの後妹に盛大に笑われましたとも。
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