あれは俺が「塔」へ連れてこられまだ間もない頃の話だ。一度だけ俺は“彼女”と対面したことがある。隣に立つ幹部が宙に複雑な光陣を描き何やら唱えている様を、テレポートスポットの手前でぼんやりと見ていたのがその始まりだった。当時は魔術というものをまるで理解していなかったため、綺麗に輝く紋様を俺はただただ物珍しく眺めていた。今思えばあの幹部は高度なセキュリティを解析し解除していたのだろう。
やがて俺と幹部はテレポートスポットに入り、刹那別の場所へと飛ばされた。そこは塔の遥か地下層で、魔石の灯りもほとんどない暗がりだった。空間の横幅は数メートルと然程でもなかったが、仰ぎ見た頭上に天井は見当たらず、結構な高さであることが窺えた。時折落ちて来ては地面に当たる水滴の音が、不規則に反響していたことも相俟って、何となく不安定な気持ちにさせられたものだ。
またむき出しの岩盤がそのまま壁面となっており、盛り上がった地面の歩きにくさにうっかり手をつき擦り傷を負った記憶がある。加えて酸素を循環させる程度の空調しか効いていないのか、あまりの蒸し暑さにたった数メートル歩いただけで汗が吹き出た。
奥行きはせいぜい二十メートルかそこらだったろう。その一番奥に設けられたステージを想起させる高台の上に、“彼女”は座っていた。空間を丸く切り取るように魔石の灯りが燦々と降り注ぐ図は、神秘的を越えて荘厳ささえも抱かせる光景だった。そして隣を歩く幹部が静かに告げたのだ。あれが『花の乙女』だ、と。
一目見て、その類稀な美しさに釘付けとなった。
こちらに身体の側面を向け腰を下ろしている姿は、あの時の貧弱な語彙で例えるなら“女神さま”だった。少し黒を混ぜた色合いの落ち着いた淡桃の髪は、腰どころか地面にまでふわりと流れこの世のものとも思えない。透けるような白い肌は、これまで大した照明もない場所で生活してきた俺にとって、魔石の灯りより眩しく見えた。光沢のある黒いノースリーブのツインピースや、留め具なのか装飾なのか判然としない金具の数々も、現実感のなさという意味では幻想的にも映る。風変わりな耳当てらしきものも雰囲気とよく合っていて、やはりそこでも普通の人間ではないのだと感じた覚えがあった。
もしかすると、俺が初めて好意を意識させられた異性は“彼女”だったかもしれない。
こんな『花の乙女』が俺の方に顔を向けたのは、俺と幹部がステージの間近まで来た時だった。ステージとは言っても実際は一メートルほどの高さしかなく、上背のなかった俺でも“彼女”の表情ははっきりと見えた。至近で見れば見るほどその麗しさは増すばかりで、高鳴りを抑えるために俺は両手を胸の真ん中へと強く押し当て当座を凌いだ。振り返ってみると何を馬鹿なことをしているんだと呆れるばかりだが、この挙動に興味を引かれたのか“彼女”は口を開いた。
『どうしたの?』
発された声は予想した以上に低く、若々しさよりむしろ包容力ある大人の女性を印象付けるものだった。それに顔も知らぬ母親を何故か重ね、俺はしどろもどろに答えを返した。
『う、ううん……』
そうしてしばらく無言が続いた。幹部も俺と“彼女”の会話に割って入るつもりはないらしく黙り込んだままでいたが、観察されているような視線を始終背中で受け止めていたせいか、その存在感は今でも鮮烈に残っている。
そんな気詰まりな時間の流れる中、再び“彼女”が話を切り出した。
『外はどんな様子なの?』
『外……って?』
『私のいる場所じゃない場所』
そこで一旦言葉を切り、“彼女”はすっと天井を見上げた。己の姿を余さず照らし出すスポットライトを正面で捉えながら、眩しそうに目を細めることもない。これには当時の俺ですら仄かな疑問を抱いたものの、口にする度胸を掻き集める前に穏やかな視線がこちらへと下りてきた。
『この上のこと。君もそこから来たんでしょう?』
そして一度ぱちっと瞬いたかと思うと、空色の明るい瞳が俺に据えられた。
『そういえば、君の名前。まだ訊いてなかったわ』
『えっと……KAITO、です』
『そう。宜しくね、KAITO』
俺の名を親しげに呼んだ“彼女”は、次いで柔らかく微笑んだ。此処に俺が来て初めて浮かんだその綻びに、“彼女”への微かな不審も失念し見惚れていると、先を促す響きで続きが紡がれた。
『それで、KAITO。教えてくれる?外のこと』
『う、うん……。いいけど、何が聞きたいの?』
『何でもいいわ。私の知らないことなら何でも』
『じゃ、じゃあ、何を知らないの?』
『私は何も知らないの。だから何でもいいわ』
俺は一体何を話しただろう。浮ついた気分だったためよく覚えていないが、俺にとっての外――俺がつい先日まで生活していた場所について語ったような気がする。というより、それ以外の世界に触れたことさえ皆無だった俺には、話の種となりうるものなどいくらもなかったはずだ。
今思い返してみてもさして面白い話題ではなく、補えるだけの話術があったのかといえばそういうわけでもない。その上緊張で身体を硬くし、たどたどしくなっていた俺の言葉を、しかし “彼女”は熱心に聞いてくれた。とりわけ質問や追求はせず、相槌程度の反応に終始していたが、“彼女”が楽しんでいることは口元の緩みからも明らかだった。
そうこうして話も何とか一段落した頃。俺は思いきって“彼女”へ訊ねかけた。
『あの……。一人の時は何をしてるの?』
『私?私は――ウタってるわ』
『ウタ……?』
聞き覚えのない単語に俺は首を傾げた。そんな様子を見た“彼女”は、正面に身体を向け直し、催眠術でもかけようとするかの如くゆっくりと告げたのだ。
『外のことを教えてくれたお礼に、聞かせてあげる』
そうして“彼女”は徐に胸の前で手を組み、祈りを織り上げ始めた。それは不思議なリズムと抑揚があり、実際目にしたことはないにも関わらず寄せては返す波を連想させた。その一方、まだ兄がいた時分に一度だけ見に行った旅芸人のショーにて、彼らが披露していた音楽ともどこか通ずるものを感じた記憶がある。
だが彼らは専用の楽器を用いて音を奏でていたのであり、それなりの技術と訓練が必要なことは誰に聞かずとも分かっていた。まさか人間の声で再現できるとも思えないのに、同じように鳥肌が立った両腕をさすりながら俺は“彼女”のウタに魅了され続けた。話していた時の声音とはまた違う、もっと心の奥底にずんと響く調子。切ないような、それでいて力が沸き起こってくるような独特の語調。
まるで――魔術みたいだ。
『すごい……!!』
呼吸すら忘れ聴き入っていた俺は、区切りがついたらしい“彼女”へと興奮気味に感想を伝えた。対する “彼女”は面映ゆそうに目元を細め、淑やかな物腰で髪を後ろへ流してみせた。
『この世界にはないみたいね。私のいた世界には溢れていたわ』
『私のいた世界……?』
『私はこの世界の人間じゃないの。それに――』
しかし続きを述べる前に、これまで沈黙を保っていた幹部が、有無を言わせぬ口調で言葉を差し挟んだ。
『『花の乙女』。あまり余計なことは話さぬように』
そのまま俺の肩に手を置き、幾分和らぎはしたものの反対されるとは微塵も考えていない風情で暇の意思を吐き出した。
『そろそろ戻ろう。あまり長居するのも身体に良くない』
それが俺に向けたせめてもの気遣いなのか、“彼女”への警告なのかは定かでなかったが、肌にべったり張り付く湿度の高さに閉口していたのは事実だったため、俺は素直に頷いた。そして幹部の後を追い歩きかけ、最後と思い定めてちらと振り返ると、“彼女”の澄んだ瞳とぶつかった。ステージの上へ艶めく長髪を惜しげもなく散らしながら、あの“女神さま”が真っ直ぐ俺を見つめていたのだ。
『えっと……』
何か言わなければと、抗えぬ気持ちに後押しされる形で息を吸い、そこで俺は口ごもった。別れを口にしてしまえばもう二度と会えない。この何の確証もない直感が、纏まりきらない思考となって頭中を駆け巡ったのだ。そんな俺の焦燥を察したのか、“彼女”は嫣然と微笑んだ。
『私は、巡音ルカ。また会えるといいわね。KAITO』
そうして程なく地上へと帰った俺は、幹部から厳重に釘を刺された。
『ここで見たこと、聞いたことは決して誰にも漏らしてはいけない。もしそれを破ったら、命はないものと思いなさい』
噛んで含めるような物言いに容赦は感じられず、妥協など以ての外だと注ぐ眼差しが言外に告げていた。それでも子供相手だとして多少大目に見るつもりではいたのだろう。現に俺はその後すぐに問いを投げかけたが、幹部は嫌な顔一つすることなく答えを返してくれたのだ。
『あの……どうして『花の乙女』って呼ぶの?ルカっていう名前があるのに』
『“彼女”の存在は、他の人間には秘密なのだ。だから名前でなく通り名を使っている』
その時は奇妙な呼び名だと訝しんだものだが、今考えると『花の乙女』という呼称もあながちおかしくはなかった。いつ出動があるかもわからず、自分を鍛えていなければ命の保障もない術士に、花を育てる余裕のある者は稀少だ。ましてや塔の外で生活する人間には望むべくもない話で、余程裕福でなければまず許されぬ贅沢だろう。
また野生の花は魔物に踏み荒らされたりカオスシードの放つ毒気にやられたりして、見かけること自体少なかった。こんな世界の状況下にあって、造られたような美貌と華奢な雰囲気は、『花』と形容されても不思議ではない。むしろ相応しいとさえ思えた。
“彼女”は――今もあの美しい声をこの塔の下で独り響かせているのだろうか。
「用件は以上だ。下がりなさい」
耳へ届いた言葉にはっと我に返ると、すでに何か書類を広げ目を通している男の姿が視界に入った。とりあえず一礼し、厚みのある絨毯の敷かれた床を踏み締めドアへと歩み寄る。そうして辞する前に一度振り向いた所へ、ソファー連中の視線が鋭く突き刺さった。俺がいなくなった後、彼らの話題が何に移行するのか。分かり易すぎて溜息が漏れる。
「……失礼します」
捨て台詞にも近い挨拶を残し、俺は重い疲れを自覚しつつ研究室を後にした。
夢の痕~siciliano 7-②
①の続きです。
主要な人物が揃ってきました。
と言いますか、これでこのお話に出てくる新たなボーカロイドは最後になります。
一応もう一人出ては来るのですが、名前が出てこない上に一瞬なので、そちらは別の機会に掘り下げられたらと思います。
またこれで大体半分くらいまで載せることが出来ました。
ようやく折り返しです。
次回はKAITOとMEIKOの成り染め…というと少し語弊があるのですが、そのような内容です。
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